長門詩篇Ⅶ「ミニヨンの物語、そして謎の吟遊詩人」
<長門有希詩篇Ⅵから続く>
■長門有希詩篇Ⅶ「ミニヨンの物語、そして謎の吟遊詩人」
〔紹介 アニメとラノベでヒットした『涼宮ハルヒの憂鬱』(原作:谷川流)の二次創作です。北高一年生の文芸部員で、その正体は銀河を統括する情報統合思念体が送り込んだヒューマノイド・インターフェースの長門有希が、運命と夢とあえかな恋とを歌い上げます。前回は、『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』(ゲーテ)に読みふけっているうちに眠ってしまい、夢を見始めたところで終わっています。〕
●サーカスの少女ミニヨンの回想
いつ、どこで生まれたかも分からない
父と母の顔も名も知らない。
自分のほんとうの名前さえ知らない。
気がついたら旅回りのサーカス団にいて、ミニヨンという名で呼ばれていた。
微かに、夢のように思い出せることは、
イタリアのどこか、湖の畔に住んでいたこと。
レモンの花が咲き、暗い木陰には黄金色のオレンジが燃えていた。
青い空からやわらかい風がそよいでいた。
ミルテは静かに、月桂樹は高くそびえていた。
あたしが暮らしていたのは、湖畔の漁師の家だった。
母親が近くの町に住んでいたけど、めったに会わせて貰えなかった。
母親は罪深い女で、お前は罪の子だからということだった。
侯爵家の次男坊の修道僧と通じて生まれたのがお前だから、ということだった。
その父親は山の彼方の修道院に、今も囚人のようにして生きているというのだった。
漁師の夫婦は親切だったけど、村の子どもたちはあたしを見ると、罪の子、罪の子、と言って石を投げて来た。
青みがかった銀色という風変わりな髪の色、そして人形のような表情のない顔が、罪の印だというのだった。
あたしは子どもたちを避けて、湖岸を回って反対側に建つ大きな家の玄関先で過ごすようになった。
円柱と円柱の間から奥をのぞくと、広間はかがやき、いくつもある小部屋がきらめいていた。
円柱に刻まれている男女一対の大理石の像を、あたしは、聖母マリア様の像とまだ見ぬお父様の像だとひとり決めしていた。
向かい合っていると大理石の像たちは、「かわいそうな子、どんな目に遭ったの」と、問いかけてくるのだった。
そんなある日の夕方。いつものように円柱の像とことばを交わしていると、背後に近づく乱れた靴音があった。
振り返ると、数人の男たちが迫っていた。逃げる間もなく、頭から布をかぶせられ、抱えられて連れ去られた。
近くに待機していたらしい馬車に積み込まれると、布が取り去られ、何人もの髭面がのぞき込んだ。
「まちがいない、この子だ。噂に聞いた通りのミニヨンだ」
「青みがかった銀色の髪、大きな黒い瞳。こんな子、見たことないぜ。どれだけの値段になるか見当もつかないくらいだァ」
「こりゃ、あのサーカスの親分が喜ぶぜ。一座の看板の舞姫を育てたいと言ってたからな」
馬車は夜通し走り、(後で知ったのだけれど)フランスの国境に近い町はずれで、サーカスの一座に引き渡された。
親方はフランス人らしく、あたしの顔を見ると、
「ミニヨン、ミニヨン」と叫んで狂喜した。
これも後で知ったけれど、ミニヨンとはフランス語で可愛い子ちゃん、という意味だった。
こうしてあたしは、本当の名前も忘れ果て、ミニヨンと呼ばれて旅回りのサーカス団の中で育てられることになった。
四頭立ての馬車を4台も5台も連ねた、大きなサーカス団たった。
30人ほどの団員は、イタリア人フランス人スペイン人とさまざまだった。あたしのように、幼くして売られてきた子ども達も何人かいた。
サーカス団での待遇は悪くはなかった。
早くから歌と踊りとそして玉乗りの芸を教え込まれたけど、
同じ年頃の子ども達がやらされているような危険な軽業は、顔に傷が付くからという理由で免除されていた。
洗濯や馬の世話など、手の荒れる雑用も免除された。
「俺はお前を、一座の花形の舞姫に育てあげたいんだ」
親方は、舞台で華やかに踊っている看板の踊り子に目を注ぎながら、少し声をひそめ気味にして言うのだった。
「あの、フィリーナを見なよ。申し分なく美人で愛嬌もあれば歌も踊りもうまい。玉乗りだって達者だし綱渡りもできる。けど、何かが足りないんだ」
そしてあたしに目を向けて、言葉を継いだ。
「お前をひとめ見て、それが分かった。あの娘には品格がないんだ。お前にはそれがある。侯爵家の姫君にしてもおかしくないほどの気品というものがな。ミニヨン、あと5年もすればお前は女になる。パーッと花がひらくようにな。そうなったらこのサーカス団も、世界一になるってエもんだ。なにしろ、落ちぶれてサーカスに身を売った侯爵家の姫君が歌って踊って玉乗り芸をするんだからな」
●「男爵」の魔手は逃れたけれど「自動人形」へ格下げされて‥‥
5年が過ぎた。
あたしは歌も踊りも上手になった。背も伸びた。
フィリーナがあたしを脅威と感じ始めていることが、何となく分かった。
その間にもサーカス団はフランスの南部をめぐり、スペインに入り、またフランスに引き返してパリに暫くとどまって、次はドイツを目指すということだった。
ドイツとの国境に近い、天を突くように高い大聖堂のある町で興行をしていた時のこと。
舞台で踊るあたしを、連日、かぶり付きで舐め回すように見ている男の人がいた。何となくお忍びの貴族らしい気がした。
ある日、親方はあたしを呼んで、言った。
「聞いて喜べ。男爵様の目に留まったぞ。お前もいよいよ女になるんだ。ちょうどおとつい、初めての月のものがあったと、ジェリーに聞いたしな」
不安げなまなざしを向けるあたしに、親方は畳みかけた。
「手付金は貰ってる。だから、お館に行って渡された金はみんなお前のものになるんだ。自分の財産ができるんだぞ。フィリーナだってそうやって相当貯めこんでやがる。それで自分を身請けして、パリでつかまえた男といっしょになって商売を始める算段らしいがな」
何も分からないまま、夜になって迎えにきた馬車に乗せられて、館に連れていかれた。
かがり火に浮かび上がった玄関の円柱の彫刻は、記憶にある湖畔の家を思い起こさせた。
けれども、寝室に連れていかれ、入ってきた「男爵」に着衣を剥がれると、羞恥と恐怖と嫌悪がいっぺんに襲ってきた。
「嫌です、やめて下さい!」
「なにをいうんだ、この玉乗り娘が。いくら払ったというんだ」
あたしは力任せに押さえつけてくる腕に噛みついた。
「イタタ、この淫売っ子が離せ!」
腕をねじ上げられた。目が回った。手足が勝手に動き、痙攣した。口から泡を吹いた。
ひきつけを起こしたのだった。
慌てて男爵は人を呼んだ。
「お前はまだ、女になっていなかったのだよ」
医者を帰すと、男爵は言った。「あのサーカスの団長め。いい加減なことを言いおって」
そして、金貨の入った小さ目の袋を渡して言葉を継いだ。
「約束のお金の4分の1だけ渡しておくよ。あと一年たてばお前は確実に女になる。そうしたらまた迎えを出す。なんといっても私はお前を気に入ってるんだからな。青みがかった銀色の珍しい髪の色、黒い大きな瞳、陶器の人形のような整った顔。あのルネ・デカルトの有名なフランシーヌ人形もかくや、ていうものだ」
男爵の予言は実現しなかった。
月のものはそれっきり止まってしまった。
膨らみかけた胸も、それ以上大きくならなかった。
背丈は少し伸びたが、それがかえって、少女というより少年っぽい感じを与えるようになった。
団員の同じ年頃の少女たちが日増しに女らしくなっていくのに引き比べ、あたしはいつまでたってもちょっと開きかけた蕾のままだった。
親方の落胆と怒りはたいへんなものだった。
「いったい何時になったら女になるんだ、エエッ? お前にいくらはたいたと思ってるんだよ!」
そのうちに抜け目のない親方は、あたしの新しい売り込み方を思いついたらしかった。
髪を短く切られ、少年の服装をさせられた。
エッグダンスという、少年のやる踊りを覚えさせられた。
綱渡りのような、危険な軽業の練習もさせられるようになった。
そのうちに、しばらくパリに戻ったかと思うと帰ってきて、奇妙なことを言い出した。
「パリじゃ、ヴォ―カンソンっていう時計師が大評判だ。背中のネジを巻いただけで、ぜんまい仕掛けで踊ったり笛とかギターを演奏したりの人形を作ってな。オートマトンって言うらしいんだが。妙ちきりんなこったが、ヴォーカンソンの自動人形〔オートマトン〕はみんな男の子なんだ」
そして、あたしにチラッと目をやって、周囲に言うのだった。「このミニヨンそっくりの自動人形もあったぞ。それで思いついたんだが、背中に大きなネジのついた服を作ってこいつに着せろ。それでギターを弾きながら踊らせるんだ。わがサーカスの看板オートマトン、ミニヨン少年のギターと踊りでござ~い、てなわけでな」
団長の思いつきは実行された。
●運命の人との出会い
サーカス団がドイツに入って二年目のこと。
その年の冬は経験したことのないような厳しいものになった。
ストーヴの傍にいても、体のふるえがとまらなかった。
あたしは風邪をこじらせて、春になっても小さな咳をいつもするようになった。
イタリアへ行きたい、帰りたい、と心から思った。
故郷の町がどこかも分からない。
両親の顔も名も知らない。
それどころか自分の本当の名も知らない。
それでも、思い出の中の湖畔の風景は忘れることがなかった。
レモンの花が咲き、暗い木陰には黄金色のオレンジが燃えていた。
青い空からやわらかい風がそよいでいた。
ミルテは静かに、月桂樹は高くそびえていた。
行きたい、帰りたい、南の国へ。
想いはつのった。
サーカス団から脱走してでもイタリアをめざしたかった。
南の地平に白い壁のように聳えるアルプスを越えてでも。
おそろしい山賊や人さらいの噂が絶えることがなく、
単身向かっても、もっとひどい境遇に沈められることは火を見るよりあきらかだったけど。
やがてサーカス団は南ドイツの大きな町についた。
そこで一週間ほど興行を打つということだった。
その町でのことだった。
運命の人、ヴィルヘルム・マイスターさんと出会ったのは。
【図は手塚治虫作「ミニヨン」(1957)より、南ドイツの町で踊るミニヨン。『手塚治虫マンガ文学館』(ちくま文庫、2001)】