心理学

2018年4月27日 (金)

フッサール心理学(47):ボーヴォワールの自我体験(意識の超難問体験)の巻/夢の現象学(143):恐竜のような長い首の列車に乗って高知に行くの巻

■シモーヌ・ド・ボーヴォワールの自伝シリーズ『決算のとき』の冒頭に、深い自我体験、しかもその中核となる「意識の超難問体験」を発見したので、引用しておく。

 毎朝、私は目をひらく前にすでに私の寝台、私の部屋をそれと認める。しかし私の住居で午後に眠る場合は、目を覚ます際に子供っぽい驚きを感じることがある。いったい、私はなぜ私なのだろうか、と。私をおどろかせるのはーー子供が自分の自己同一性を自覚するときのようにーー自分が現在ここに、ある別の人生のなかにではなく、この人生のなかにいるのを見出すことなのだ。どういう偶然からそうなのだろうか。自分の人生を外から眺めるとき、私にはまず自分が生まれたことがありそうもないことに思われる。一定の精子と卵子の合体、それが私の両親そして彼らのあらゆる祖先たちのまず生誕を、ついで出会いをもたらしたのだが、それはそれぞれ何億に一つも実現する可能性はなかったのだ。また、科学の現状ではまったく予見しえない偶然によって私は女に生まれた。ついで、私の過去の各瞬間においても何千という異なる未来が可能だったと考えられる、たとえば病気にかかって学業を中断するとか、サルトルに出会わなかったとか、その他なんでもよい。この世界に投げ出されて、私はその諸法則、その偶発的諸事件に従属し、他者たちの意志、そのときどきの情勢や歴史に左右されてきた。したがって私が自分という存在の偶然性を感じるのは正当である。私に眩暈を起こさせるのは、それでいて同時にそれが正当でないことなのだ。かりに私が生まれていなかったとすれば何の問題もないはずだから、私は自分が存在するという事実から出発しなければならない。そしてもちろん、私が、かつてそうであった者の未来は、私を現在とはちがった者にすることも可能であっただろう。しかしその場合は、その別の私が自己についてせんさくすることになるわけだ。これが私だ、と自分に向かって言う者にとって、〔別の私という〕同時併存の可能性は存在しないのだ。主体とその歴史とのこの必然的な一致は、しかし私の当惑を解消するのに充分ではない。親しくてしかも遠い私の人生、それは私を定義・限定すると同時に私はその外にある。この奇妙なもの〔私の人生〕は正確にいって何なのだろうか?(『決算のとき 上』(朝吹三吉・二宮フサ/訳、紀伊国屋書店、1973), p.9(Simone de Beauvoir: Tout compte fait. Gallimard, 1972))
 ボーヴォアールといえば『第二の性』が有名だが、そんな表向きのイメージとは別の、こんな深い形而上学的な体験を記していたなんて。ますますボーヴォアールが好きになった。
 もっとも、同様の体験を出発点としているジュリアン・グリーンは読んでいたと思うが。
■2018年4月27日。夢を見た。恐竜のような長い首の列車にのって、高知に行ったのだった。首は多数の節から成っていて、ロボットの恐竜といった趣だった。
 場面が変わり、喫茶店にいた。トイレが店内にないことが分かっている。女性客が、トイレに行くのか、店を出る。続いて私も出る。店の両隣とも、店ではなく普通の民家だが、普通というより京都の紅殻格子の民家のようだ。先の女性客の姿は見当たらない。そのうち目が覚めた。
●●●新感覚のオープンアクセスジャーナル『こころの科学とエピステモロジー』は、創刊に向けて原稿募集中です。詳しくは下記サイト参照
エピステモロジー (épistémologie)」はフランス語圏では、科学的知の批判検討を意味します。心理学を始め、精神医学、認知科学、脳神経科学、人工知能など、こころの科学と総称される領域全般に対して、批判的検討を加えることを主目的とします。詳しくは上記サイトよりダウンロードできる『創刊準備号』巻頭の「エディトリアル」を参照してください。
原著論文、研究企画、翻訳(以上は査読あり)、ブックレビュー、映像メディア時評、学会・研究会参加印象記、その他随想など幅広いジャンルの投稿を期待しています。投稿は無料です。詳しくは上記サイト中「Call for Papers」の「投稿・執筆規定」をご覧ください。

2018年3月17日 (土)

夢の現象学(142):北極圏の街にいた夢の巻/ダライラマの花嫁の夢の巻/

■2018年3月15日。朝。北極圏の街にいた。アラスカらしい(と思ったのはひょっとして目覚めてからの推測かもしれない。夢の中で分かっていたのは北極圏だということだけ)。街中で、女の人ふたりが立ち話をしているところに、野良犬が来て、後足で立ち上がり、一方の女の人の胸に鼻先を押し付ける。明らかに、飼ってくれという意思表示だ。相手にされないとみると、二人が別れた後、もう一方の女の人の後を追い、やはり後足で立ち上がって、今度は前足を突き出して押し付けながら付いてくるのだった。そんな光景を見て、家に帰って家族に話したような‥‥

 北極圏の街にはまったく心当たりがない。数日前、家でテレビを見ていて、北欧の街でオーロラを見る話が出てきた位だろうか。野良犬の仕草も見たことがない。以前、戦後すぐの闇市にいるという、他人の人生の一コマを覗き込んだような夢を見て、『夢の現象学・入門』に載せて考察したことがあった。この夢にも、他人の人生の一コマを覗き込んだような薄気味悪さがある。

■「ダライラマの花嫁」という題がピッタリの奇想天外な夢。

 2018年3月17日。早朝。私は、次代のダライラマ何世だかを生む定めになって、現ダライラマの元を訪問することになったのだった。ダライラマの側近(?)と、もう一人日本側の代理人(?)の二人が同行していた。大きなホールのような建物に入り、ダライラマ側の側近が、その建物にいた係員(?)に、来意を告げる。私は恥ずかしかったが、これも宗教的にして政治的でもある聖なる儀式の一環なのだと自分に言い聞かせて、気を取り直した。

 前後関係がもう思い出せないが、ホールでは、最終的な筆記テストを受け、無事、次期ダライラマを産む資格が、公的に付与された。

 ホールの内部は薄暗く、ひと気がほとんどない。大きなホールの内部にさらにいくつか小規模のホールがあるという、映画館と云うかシネマックスのような構造をしていた(ということに、眼が覚めてから気付いた。)他に思い出せることはもはやないが、妙にリアルな夢だった。後で、「ダライラマの花嫁」という題がピッタリだと思いついた。それにしても、次代のダライラマを産む定めになって現ダライラマの元に行くだのと、こんな突拍子もない夢はさすがに見たことがない。目が覚めている限り、逆立ちしても出てこない奇想天外ぶりだ。ダライラマのことなど、普段は考えないので、連想しても出てくるものがないのだが。

 シネマックスに関しては、一月ほど前に、運転免許証を返上しに試験場に行った後に東京湾岸沿いのシネマックスまで足を延ばし、「The Promise君への誓い」という映画を見たことが思い出される。百年以上前の、第一次世界大戦が始まったころのオスマントルコ領で起こった、アルメニア人虐殺を題材とした映画だった。家族全員を殺された主人公のアルメニア人医学生が、「復讐したい」と呟く。それを聞いた友人が、「生き延びることが復讐になる」と答えるのが印象に残った。このやり取りが伏線となって、その後はアメリカに渡ってかの地で成功したらしい主人公が、最後は養女(やはり虐殺の中で孤児となった少女)の結婚式に、同じくアメリカに逃れてその地に根を張ったアルメニア系の一団が大勢つめかけて、祝福をしてフィナーレとなる。生き延びたのだ。

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2018年3月 5日 (月)

夢の現象学(141):高校時代のクラスメートの家を訪ねるの巻/オープンアクセスジャーナル『こころの科学とエピステモロジー』が創刊に向けて原稿募集中

■2018年3月4日。朝。氏原君の家を訪ねる夢。氏原君とは高校時代のクラスメートで、高1の時に学内同人誌に載せた小説が文芸誌の同人誌評に取り上げられて、同世代の中では抜群の才能と激賞された人物だ。私も当時読んだが、サルトルの「嘔吐」に雰囲気が似ていて、もっと気品のある文体で描かれた短編で、率直に凄いなと思わないではいられなかった。当時は、クラスの誰しもが、遠からず若き天才作家としてデビューすることと思っていたものだ。

 早稲田の仏文に進み、早稲田文学や他にも文芸誌に2、3作載ったことを、風の便りに聞いていたが、それからは消息を聞かなくなった。数年前に、ふと気になってネット検索してみたところ、仏文科出身の銀行家として国際的に活動しているとのことだった。

 その氏原君の現在の家を訪ねたのだった。平屋で、自家用の畑があった。奥さんもいたようだ。本人の顔は、半世紀以上前に知っていた顔とは違っていたが、夢の中では気にならなかった。何を話したかは憶えていないが、「非常勤で食っている」といったことを、本人の口から聞いたか、第三者視点てそういうことにして辻褄を合せようと思ったのか分からないが、記憶に残った。そのうち目が覚めた。
■抜群の才能と激賞された天分にもかかわらず、どうして作家として大成できなかったのだろうか。そもそも、同年生まれで作家になった例というのを聞いたことがない。1年下なら、津島祐子、金井美恵子、中上健次、といるのだが。
 この3人に共通するのは何か。二人は女性である。中上健次は高卒で紀州から上京した。東京のエリート層の出身である氏原君に比べれば、三人共いわば周縁人(マージナルパーソン)といえる。そう、ちょうど大学紛争の時代で、文学でもマージナルが持て囃されていたのだ。  
 そんな、文学を評価する尺度にも非文学的なイデオロギーが介入するような、集団主義的(collectivist)な風潮が猖獗を極めた時代だったのだ。特に彼の進学先など、革命的共産主義者同盟○□派のような、(『全体主義の起源』の著者ハンナ・アーレントの名がポピュラーになった今でこそおおっぴらにこう言えるが)コテコテの全体主義(totalitarian)集団が支配していたのだから。
 彼の文章で、集団主義への真底からの嫌悪が滲み出たものが印象に残っている。きっと、時代の逆風を鋭敏にも感じ取って、文学から、というより文壇とかジャーナリズムとかいう世界から、賢明にも身を遠ざけたのかもしれない。そんなことを、眼が覚めてから考えた。
 ちなみに、高校時代はそれほど親しかったわけではない。それ以前に、今でいう「学校カースト」を当時に当てはめれば最上層にいた彼は、最下層にいた私など話しかけるのも恐れ多い存在だったのだ。
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2018年2月28日 (水)

夢の現象学(140):殆ど巨樹一本から成る鎮守の森の巻/オープンアクセスジャーナル『こころの科学とエピステモロジー』が創刊に向けて原稿募集中

■2018年2月24日朝こ
 小さな神社の鎮守の森にいた。この森がどうやら、殆ど一本の巨樹から成っていることに気づく。真上を見上げると、真っ直ぐな幹が斜めにはるかの高みにまで達している。巨樹はまた、ふた股に分かれている。斜めになっている幹を支える他の大木があり、複雑な形状に枝分かれしているが、よく見ると、枯死しているようだ。ほかの独立した樹は、高さも幹の太さも比べ物にならない。
 茂った枝の奥が洞みたいになっていて、そこに小さな祠が鎮座している。浅間神社だ。一円玉を小さな賽銭箱に投げ入れて拝する。
 私は、合宿に行かねばならないのだった。今は12時半過ぎだから、まず昼食を取らねば。いつの間にか、京大教養部にいることになっていた(夢で何度か行ったことがある)。食堂に入ると、まだ昼食の料理が残っていて、何人か学生が食事中だ。合宿はどこに行くのだろう、と思った。他のみんなは昼食からして一緒だが、例によって私一人がはぐれている。そもそも、合宿の参加者の中に顔見知りからしてほとんどいない。
 過去の合宿でも、何度かはぐれかけた苦い思い出が浮かび上がってくる(実際は他の夢の記憶だが、この夢の中では現実の過去と言うことになっていた)。
 卒業旅行としての合宿だが、ふと、別に行かなくともいいのだ、と気づき、気が楽になった。
■「真っ直ぐな幹が斜めにはるかの高みにまで達している」という光景は、つい10日前にも行った、神明社の境内だ。実際にはアカマツで、群を抜いて高い。それなにの、他の2本の大木には幹にしめ縄が巻いてあるのに、何も巻いていない。神木扱いを受けていないのだな、等と思うことがある。
 枯死した樹は、やはり10日前に見た祖師谷の庭の海棠の樹を思い出す。
 このように、直ちに10日前の記憶が連想されてくる。
 後半の夢は、何度も見た合宿の夢のテーマの変奏だ。京大教養部の建物も、何度か反復して出てくるテーマだが、この二つのテーマの合体は珍しい。
 「行かなくともいいのだと気付き、気が楽になった」のは、このテーマとしては新たなる展開と言えるのではないだろうか。ひょっとしたら、合宿の夢は、もう見なくて済むようになるかもしれない。
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2018年2月17日 (土)

夢の現象学(139)双頭の犬の巻/『こころの科学とエピステモロジー』創刊号に向けて原稿募集中

■2018年2月14日朝
 最初の方は憶えていない。犬を連れて競走をしているような場所にいた。木立を縫った小道を、犬と一緒に競走して行くのである。私自身も参加していたか、見物のひとりだったかははっきりしない。(競走に個人でなく家族として参加しているらしい)他の家族が連れた犬は随分細いな、などと思いながら見ていると、「何か変なのが来たよ」と誰かが言う。双頭の犬が現れたのだ。
 おびえる細い犬。私は、他の家族の犬なのに、抱いてやる。
 よくみると、双頭に見えただけで、首回りに長い毛が炎のように逆立っているのだった。ドーベルマンではないが、それに近い黒くて凶暴そうな犬だった。
 「あんな警備用の犬を連れてくるなんて‥‥」と思ったか声に出して言ったか。この辺で目が覚めた。
 「」内は会話だが、自分が考えたのか、考えを声に出して言ったのか、それとも他の登場人物が言ったのか。この夢に限らず、はっきりしないことが多い。
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2018年2月 3日 (土)

新感覚のオープンアクセスジャーナル『こころの科学とエピステモロジー』が、創刊に向けて原稿募集中です

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夢の現象学(138):『失われた時を求めて』の語り手の幼少期はフッサールだという思念にウトウトしかけて落ち込んだの巻

■2018年1月28日(日)。朝6時ごろ。

 京都にいた。私を知っているという女子学生(1年生らしい)が話しかけてきた(内容は憶えていない)。どうして知っているのかと問うと、何やら独文学者の大山定一のことが出てきた。女子学生も、同志社の独文らしかた。「らしかった」というのは、京都の今出川通りの同志社の近くにいたからなのだが。若すぎるが女子学生を研究会に誘おう、と思った。研究会の別の世話人である「河瀬君」(私より背が高く色の褐色がかった、目覚めてから思い出すと見知らぬ顔)もその場にいたからだった。
 と言ったような断片をスマホに打ち込んで、また眠った。正午近くになって突然思い出して、スマホを頼りにこれだけ書いたが、憶えているのはこれだけだった。ちなみに大山定一は、私が京大に入学したときの文学部長で、一度あいさつを聞いたことがある。前年に大山定一訳で『ファウスト』を読んだばかりで、あまり感心しなかったせいもあって、さしたる印象は受けなかった。「河瀬君」というのは研究会には実在しない名前で、思い出せるのは小学校高学年での同級生だけだが、夢の中の顔とは違っていた。
■2018年1月31日早朝。
 列車がずらりと並んだターミナル駅にいた。位置的には東京駅だが、ホームの構造は、昔の上野駅や現在の井の頭線渋谷駅のようないかにも終着駅らしい「櫛型」をしていて、列車の前面が並んでいるのが見渡せるのだった。ところがなぜか、前面にはみな、工事中のような「幌」が被せられているので、行く先が分からない。私は品川あたりまで行ってそこから西の方向へ乗り換えるつもりだったらしい(山手線に乗り換えるということか?)乗換るべき駅が自分でもはっきり分からないので、とりあえず適当な「幌」をかき分けて列車に乗り込み、「横浜まで行きますか」と訊いた(ような)。
 車内は向い合せの席は(個室になっていて見えないが)ほぼ満席らしい。普通の席のちょど端の方にあった席が空いていたので、そこに座る。
 発車するとこの列車は、図に描いたような奇妙な形をして走っている(図略)。車両の一つ一つが三角の山の形をしていて、地のベージュの上に虹を巻いたような華やかな色をしているのだ。私は(なぜかこの辺で車外に出ていたが)、列車以上の猛スピードで線路に沿って走り(こんな猛スピードを人に見咎められないかと懸念しながら)、列車を追い抜くと先回りして、田園風景の中を列車が来るのを待ち構えてスマホで撮影する。
: 
■2018年1月31日午後。
 夕方4時半ごろ。R. Bernetのフッサール研究書を読んでいるうちに、理解しがたい箇所がでてきて注意が散漫になり、前夜に読んだ『失われた時を求めて』の第1巻、「私」がコンブレ―の町で過ごした幼少期を回想するシーンを思い浮かべた。
 そのとき、唐突に、「コンブレ―で幼少期を生きる『私』はフッサールだ」という思念が閃いたーーというより、堕ち込んだ。ハッと我に返って、うとうとしかけたのだと気付いた。
 フロイトが言う、人物合成という夢作業が、うとうとしかけただけで生じたのだ。図書館にて。
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2018年1月22日 (月)

人文死生学研究会HP開設のお知らせ

■2018年1月22日 人文死生学研究会HPを開設したのでお知らせします。

グーグルサイトに試行錯誤的に取り組んで、なんとか形を成してきました。

【研究会趣旨】には、下記の『人文死生学宣言』の「まえがき」から拝借しておきました(自分の文章だから構わないだろうということで☃☃☃)。

・HPを見られた方はお分かりでしょうが、以下のような案内がでています。念のため転載しておきます。

:

■人文死生学研究会(第16回):人文死生学宣言:私の死の謎』(渡辺恒夫・三浦俊彦・新山喜嗣/編、春秋社、2017年11月刊)出版記念シンポジウム

以下、2018年1月16日現在判明分です。詳細は2月に確定するので、随時チェックをお願いします。

日時:2018年3 月18日(日) 午後1時半~6時(予定。2月初頭に確定)

場所: 明治大学 駿河台校舎研究棟会議室(詳細未定)

1【合評会 】書評担当   浦田悠 (大阪大学/心理学)

2【講演】 「死後の同一性と単純説」  鈴木生郎(鳥取大学/分析哲学)

・心の科学の基礎論研究会(第82回)と合同で開催します。心の科学の基礎論研究会HPには、下記の「こころの科学とエピステモロジー」サイトから入ります:

https://sites.google.com/site/epistemologymindscience/

2018年1月13日 (土)

夢の現象学(137)アインシュタインと握手するの巻/人文死生学研究会を『人文死生学宣言』の出版記念シンポジウムとして開催するプラン

■2017年1月13日。明け方。アインシュタインと握手し、話もした夢。

 夢の中にいた。講演会か公開講座の準備をしていた。アインシュタイン博士が来るというのだった。準備の場には、生命圏環境科学科のスタッフも何人かいたが、元主任のSさんしか思い出せない。とにかく、先頭に立って働いているのは私ひとりで、Sさんに、講座の意義を説明して、活動に誘っていたような。
 開場の時間が近づく。会場になっている教室を覗くと、なんとアインシュタイン博士がすでに来ていて、フロアの席に就いているのが見えた。私は、博士と握手し、言葉も交わした(日本語だったような気がする)。握手した時には、大変な名誉だと感激していた。そのうち目がさめた。
 枕元のスマホには「アインシュタイン」とだけ打ち込んでまた眠った。起きてからはすっかり忘れていたが、昼近くに突然思い出して、こうして書いている。例によって前半は思い出せない。
■今年の人文死生学研究会を、『人文死生学宣言』(春秋社、2017年11月刊)の出版記念シンポジウムとして開くというプランを進めている。以下は目下判明した部分だ。本来なら、研究会サイトを作らねばならないところだが、なかなかできないので、代わりにここに掲載しておく。

●人文死生学研究会(第16回)(心の科学の基礎論研究会第82回と合同)●

【『人文死生学宣言:私の死の謎』(渡辺恒夫・三浦俊彦・新山喜嗣(編)、春秋社、2017)の出版記念シンポジウム】

*日時・場所・内容とも2月に入って確定の予定なので、随時チェックをお願いします。

日時:2018318日(日) 午後1時半~6時(午後1時開場)
場所:明治大学 駿河台キャンパス

内容:

1 『人文死生学宣言』合評会

【書評担当】浦田悠(大阪大学/心理学)

2 【講演】鈴木生郎(鳥取大学/分析哲学)

  題未定(死の形而上学の関連テーマ)

・人文死生学研究会HP:

初歩的ながら人文死生学研究会HPを、グーグルサイトで作ってみたので、リンクをはっておく。

夢の現象学(136):地底にらせん状に降りてゆく身体感覚、高知新聞記者二人の名が思い出せない、など夢4題の巻

■2017年12月29日(金)。朝7時。夢を見た。研究者・著述家と編集者の集まりの場にいた(目覚めて全員見知らぬ顔だったと気付くが、夢の中では知っていることになっていた)。
 首都圏ではなく、「かいせん」という町らしかった。何を話したかは憶えていないが、地元の大学教師もいて、一冊も本を出していなくともこれから出すというので著述家扱いされるんだな、などと思ったことだけが記憶にある。
 そのうち、町の名所(?)の「かいせん」(「せん」は温泉の泉らしい)に行こうということになった。歩いて15分ほどだという。途中から下り坂になり、洞窟になる。螺旋を描いて下へ下へと降りて行くと、大きな平たい岩が立っていて、真ん中に穴があいている。その脇の迂回路を取ったが、振り返って、穴をくぐるのが元々の路らしいと気付いた。
 ジュウジュウと蒸気の吹き出す音がする。ここが、かいせんという湯治場らしい。由来を記した立札(?)を読む。「かいせん‥‥」どんな病気や傷に効くか、効能書きが並べてある。そのうち目が覚めた。
 螺旋を描いて地底へ降りてゆく運動感覚が、強烈に残っていた。
 ふと、過去に経験した夢の中の実在感には、たいていこの、身体感覚・運動感覚が強烈に伴っていたのではないかと、思いついた。
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■2018年1月2日。夜10時ごろ。お屠蘇でほろ酔い機嫌でベットで本を読んでいてうとうとし、夢を見た。
 葬儀の会場に臨んでいた。私が喪主だった(だから、すでに故人となっている両親のうちのどちらかの葬式と思うが、はっきりしない)。多分、私は葬儀場で一泊し、次の朝の葬式に臨んだのだと思う。ちらちら参会者がホールに見える。私は喪服を着ていたのだが、{‥‥}
 会場に入ると、思ったより参会者が来ていないが、それでも数人はいる。厳粛な雰囲気だ。ワーグナーらしい曲がBGMで鳴っている。同じワーグナーなら、最後の宇宙的に神秘的なあの曲にすればいいのに、と思う。この辺りで目が覚めた。
 あるいは目が覚めてからも、ワーグナーの最後の曲ってなんだっけ、と考えていたような。それは以前の夢でも聴いた、宇宙的に神秘的な曲らしいのだが、意識がはっきりするにつれて、ワーグナー最後の曲と言えばパルシファルで、よく知らない曲で、宇宙的というわけではない、と気づいたのだった。(1月2日。夜10時半ごろ)。
 自分が喪主なのに、誰の葬式かはっきりしないのは余りいい気分ではない。こんな夢を見た原因は、妻の母親が98歳の高齢で、肺炎で老人ホームから病院に移ったというので、年末に妻が広島県まで行ったりしたことが影響しているのだろう。妻はこの間ずっと、いつ何時、広島県まで行かねばならなくなることやら、と言い続けている。葬儀場に前夜から泊まり込みと言うのは、15年以上前の父の葬儀の際に、田舎から叔母が葬儀場に前夜から泊まり込んでいたことを連想させる。
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■2018年1月5日。早朝、夢を見た。科研費研究で自治医大にいた。その日も3人だった(現実にOさんが前回欠席)。終わって広いキャンパスを、馬車で行く。Tさんが御者をやる。席に掴まるところがなく、不安定。落ちちゃうからもっとゆっくり(と、声に出して言ったか、思っただけか)。そのうち目が覚めた。
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■2018年1月7日(日)。明け方。夢を見た。席が木製ベンチになってい
る喫茶店にいた。大きな木製の卓が2,3台あり、その周りを木製ベンチが囲むという配置だ(目覚めてから、京都百万遍の進々堂を思い出した)。
 ガヤガヤとスーツ姿の若者の中断がやってきて、卓の一つを占領した。はみ出した若者が、私がいた卓に座を占めて、私以外を若者たちが占領する図になった。
 会社の新人研修の帰り、といったところか。上役といった感じのやや年配の人が私に、「お邪魔で済みません‥‥」といった声をかけた(のかもしれない)。言葉を一つ二つ交わしているうちに、高知新聞社の社員たちだと分かった。私は、「高知新聞の記者を二人知っている‥‥」と言った、もしくは言おうとして、二人の記者の名が思い出せないのに気付いた。一人は学芸部、もう一人は論説委員室だったかな。二人とも原稿依頼の件で、何度か会い、そして二人とも、書いた原稿にマスコミ批判があった件でトラブルになってしまった。
 学芸部記者の方には、結局ボツにされてしまったので、腹いせに元原稿を高知大人文学部の講師控室に張り出してやった。論説委員室記者の方は、結局表現を穏和にして掲載された。
 そんなことがあったから、二人ともはっきり覚えているのに、名前だけは思い出せない。目が覚めてから思い出そうとしても、ダメだった。
 世界中の数少ない知人の名を全て思い出せなくなって焦った夢を、何年か前に見たことがある。今回の夢は、そんな抽象的なことでなくて、夢の中で具体的な人名を思い出せなくて、眼が覚めてもやはり思い出せない(今も)、という、極めて具体的なものだから、あまり後味がよろしくない。(1月9日、夜8時半)。
●●●『人文死生学宣言:私の死の謎』(渡辺恒夫・三浦俊彦・新山喜嗣/編、春秋社、2700円)が2017年11月25日に発売されました●●●

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