心理学

2018年9月14日 (金)

フッサール心理学(50):「涼宮ハルヒの消失」に感動し、「優しい忘却」の歌詞を掲げるの巻/コミュ障の現象学から見た長門有希

■劇場版「涼宮ハルヒの消失」をDVDで月曜の夜に見て以来、3日。いまだ感動から醒めやらずにいます。

 ことの発端は、『人文死生学宣言』(春秋社、2017)の共編者である三浦俊彦氏から、『エンドレスエイトの驚愕』(春秋社、2018)なる本を贈られたこと。
 「涼宮ハルヒの憂鬱シリーズ」論なのですが、今までこのアニメシリーズを見たことがなく、それじゃ見なくちゃ、と世田谷に泊まり込みに行くたびにツタヤから借り出して、9巻目か10巻目。まがうことなき名作に出会ったのです。

 ハルヒシリーズは、宇宙人と未来人と超能力者しか興味がないという女子高生涼宮ハルヒが、退屈しのぎに超常現象を見つけ出すために結成した、SOS団という北高サークルが中心となって進行します。
 団員は他に4人ですが、語り手のキョンだけが普通の男子高校生で、他はハルヒの願望通り、宇宙人(長門有希)と未来人(朝比奈みくる)と超能力者(古泉)から成ります。宇宙の進行を乱す潜在能力を秘めたハルヒを監視するために、それぞれの「組織」から遣わされたのです。
 キョンはその正体を打ち明けられています。現にハルヒの巨大な潜在能力のせいで、閉鎖空間に閉じ込められて透明巨人が暴れたり、夏休みの期間が回帰して終わりなき夏休みになったりします。そのたびに、宇宙人と未来人と超能力者の必死の修復作業で元に戻るのですが、ハルヒだけは気づいていません。退屈な学園生活が続いていると思い込んで退屈しきっているのです。だから「憂鬱」とタイトルについているのです。

■10巻目ぐらいに現れる『劇場版涼宮ハルヒの消失』では、ある朝、キョンが登校すると、ハルヒの姿がないばかりか、誰もハルヒも古泉君も知らない、ということになっている所から始まります。
 上級のクラスにいる朝比奈みくるに会いに行っても、SOS団のことなど知らない、と言われる始末です。

 やがてハルヒと古泉君は、北高ではなく別の高校の生徒になっていたことが分かります。やはり二人とも、SOS団のことなど知らないというのです。

 最後の望みをかけて、キョンはSOS団の部室に向かいます。そこは元々文芸部の部室でしたが、唯一の部員だった長門有希もろとも、「元の世界」のハルヒが乗っ取って、SOS団の部室にした部屋だったのです。
 ドアをあけると、居ました。眼鏡をかけた長門有希が、いつもの通り本に読みふけっています。無口で非社交的で鬱なキャラもそのままに。
 やがて、キョンは大変なことに気づきます。
 元々、長門有希の正体は、宇宙を統べる情報統合思念体のインターフェイス用ヒューマノイド型端末だったはずです。ところが今や、人間になっていることに気づいたのです。無感情なアンドロイドだったはずが、内省的で感情豊かな文学少女になっているのです。そして、「文芸部入部届」という書類を恥ずかしそうにキョンに渡します‥‥

■元の宇宙人長門有希が残していった手がかりを辿って、キョンにも真相がつかめてきました。
 SOS団の騒がしい団長、ハルヒのいないこの世界は、長門有希の巨大な能力によって元の世界から分岐した時間流だったのです。
 でも、何のために任務に背いてまでそんなことをしたのでしょうか。
 元々、長門の能力は三人の中でもぬきんでていました。その能力によって宇宙の崩壊を防ぎキョンを守ってきたのです。けれどもキョンの関心は派手なハルヒや朝比奈みくるに向かい、無口で無表情の長門の働きは当然視され、存在も無視されてしまっていたのです。
 そこに、アンドロイド型端末だった筈の長門の感情が、自我が目覚めたのです。
 きっと長門有希は、ハルヒのいない世界で、キョンを恋してみたかったのでしょう。
 でも、キョンは、元の、ハルヒとSOS団の、てんやわんやの世界の方を選びました。元の世界の長門がキョンに残していった鍵を使って。
 せっかく長門有希が人間の少女として生き始めた世界は、こうして消え去ったのです。

■やがて感動のラストシーンが来ます。
 元のアンドロイドに戻った長門と並んで、雪が舞い出す中で、キョンは「ゆき」と口走ります。これまで長門有希を、「長門」としか呼んで来なかったキョンがです。でも、続けて、「ゆきが降ってる」と言うのです。
 この場面で長門有希役の茅原実里によって歌われるエンディングソングを引用しておきます。有希の切ない想いそのままの歌詞ですね。「消える世界にもわたしの場所がある」なんて。インターネット上では、この場面で泣きましたという記事が少なからず検索できますが、同感です(なんだかアンデルセンの「人魚姫」を思わせる話だし)。

「優しい忘却 歌:茅原実里」
望むことは何?
わたしが問い掛ける
なにもいらない 嘘ではなかった
消える世界にも
わたしの場所がある
それをしらない 自分でさえも
閉じ込めた意識は
時を結び
願いを繰り返す
また会うまで 忘れないで
巡る日々の中
わたしに残るのは
記憶 それとも 忘却だろうか
やがて世界には
眠りが訪れて
ひとり ひとりの あしたに帰る
選ばれた未来を
見送る扉
願いが叶っても
忘れないで 忘れないで
消える世界にも
わたしの場所がある
それを知らない 自分でさえも
思い出すまでは…
(作詞:畑亜貴
作曲:伊藤真澄
編曲:虹音
歌詞原案:谷川流)
:
■「コミュ障の現象学」で解く長門有希
 三浦さんのような分析哲学的アプローチとは別になりますが、私は長門有希という魅力的なキャラに、始めたばかりの「コミュ障の現象学的当事者研究」の視点から*、深甚なる興味を覚えました。
  *「コミュ障(人づきあいが苦手)の批判的ナラティヴ現象学」(渡辺恒夫著)という論文が、『質的心理学研究』誌(№18)に掲載予定です。2019年3月、新曜社より発行。

 ラスト近く、すべてが長門有希の暴走の結果だと知ったキョンは、こう独白します。
 記憶をたどって引用するとーー「なんで統合情報思念体ともあろうものが、長門にもっとちゃんとした設定をしてやらなかったんだよ。あんな無口で鬱な娘なんかでなくって、朝倉涼子(註:長門とは対立する組織のヒューマノイド型端末)みたいに、社交的でクラスでも人気者にだって設定できたのに‥‥」
 グサリときました。どんなに長門有希が「ルックスはA-級」に描かれ、しかもオタクたちの間で、ハルヒもみくるも目でないほどの人気を誇っているからといって、「ふつう」の高校生のキョンからしたら、「ちゃんとした設定ではない」としか見えないなんて。
 また、朝比奈みくるの大人ヴァージョンが、美貌で有能な時間パトロールとしてしばしば現れるのですが、その彼女にもまた、長門は、「あのひとちょっと苦手なんですけど」と評されます。
 なぜ苦手かを解釈すると、長門はガールズトークができないからです。
 ガールズトークに限らず雑談の会話というものは、録音してテープ起こしてみると、ほとんど意味をなしていないことが分かるそうです。だから会話の機能は情報を伝達することではなく、絆を確かめ合うことにある、というのが最近の学説です。
 長門は3年前に突然出現したのだから、絆などあるわけありません。
 それならなぜ、キョンとの間に会話が成り立つのかというと、長門は今まで、身を挺してキョンの身を護って来ました。それが任務だからです。
 コミュ障の特徴として、他愛のない雑談はできないが、仕事の上の会話はしっかりできる、ということがあります。
 長門はいわば仕事を通してキョンとの間に絆を作ったのでしょう。
 でも、ハルヒのいる世界では、長門にとってキョンとのそれ以上のコミュニケーションは、極めて困難です。コミュ障は、三人という組み合わせを特に苦手とするからです‥‥
■長門に未設定の社交性機能って何?
 色々、考察をならべてきましたが、同じようなインターフェイス用ヒューマノイド型端末である、朝倉涼子は違っています。
 設定が違うのです。
 ウィキペディアを読んでいて、続編(涼宮ハルヒの驚愕)の紹介で、長門には社交性機能が設定されていず、自分でも残念に思っているらしい、といった記載が目に留まりました。
 社交性機能っていったいなんでしょう。
 これは、私自身への問いかけでもあります。なぜなら私もまた、社交性機能未設定のままで生涯を終えることになりそうだから。現象学的に厳密に言えば、「社交性機能未設定の渡辺恒夫が私である世界はそのまま遠からず終了になる」のだから)。
 だから「コミュ障の現象学的当事者研究」を始めたのです。
 <この項未完 まだまだ続きます!>
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2018年8月18日 (土)

夢の現象学(148):教祖一代記を夢みてもう一つの現実を生きていた充実感が残ったの巻

■2018年8月1日。

 夢記録ノートから写す。ノートに日付がないが、見たのは7月下旬だったはず。
 カルト宗教(オウム真理教のような)の教祖の一代記を夢みた。富士山のような高山での修行。その頂上付近は大文字山の山頂を連想させる斜面となっていて、そこを歩いていた記憶。
 それ以外に思い出せることが何もないのに、目覚めた直後には、もう一つの現実を生きていたという、ずっしりした充実感があった。
■2018年8月17日(金)。
 夢の中では大学の開講日だった。開講日なのに時間割が分からず、自分の担当授業がどの教室になっているかも分からず、あせっていた(この種の夢はよく見る)。事務室の前の露台のような場所に時間割が並んで置いてあるという情報があったので(視覚的に見えた)、行こうとしていた。
 気がつくと私は、パジャマの上にガウンを羽織っただけの姿だった。家に引き返すか、間に合わないようならこのまま押し通すか、等と迷った。小野学部長の姿があった(ここから目覚めてから東邦大学だったと解釈したらしい)。
 私の教える科目は(心理学ではなく)哲学になっていた。初めての科目なので、死について話そうか、等と考えた。そのうち目が覚めた。
■最後の死について話す云々は、11月で沖縄である質的心理学会のシンポ「人文死生学宣言の誕生」で話すことを考えていることに関係がある。
 前回のブログにも書いたが、死は生に比べて無限に悪いという死の害の説は、生の日常性と死の非日常性の距離が無限であるところに由来している。
 対策としては、生の非日常化を図ることだーーと、ここまで前回のブログで書いた。
 最近考えていることは、
 死の非日常化には二つの途があります。
 1)同時代の全ての他者がゾンビであることに気づくこと。でも、これはあまり薦められません。なによりも難しいし、下手に気づいたら人間関係がうまくいかなくなる危険性がある。
 2)夢日記を付けること。これなら誰でもできるかもしれません。夢日記を続けているうちに、夢と夢とがおもったよりつながり合っていて、現実の生に劣らぬ実在性を秘めていることに気がつく可能性があります。こうして、現実世界も夢世界の一種に過ぎないことが実感されてくる。生が非日常化されるのです。
●●●新感覚のオープンアクセスジャーナル『こころの科学とエピステモロジー』は、創刊に向けて原稿募集中です。詳しくは下記サイト参照
エピステモロジー (épistémologie)」はフランス語圏では、科学的知の批判検討を意味します。心理学を始め、精神医学、認知科学、脳神経科学、人工知能など、こころの科学と総称される領域全般に対して、批判的検討を加えることを主目的とします。詳しくは上記サイトよりダウンロードできる『創刊準備号』巻頭の「エディトリアル」を参照してください。
原著論文、研究企画、翻訳(以上は査読あり)、ブックレビュー、映像メディア時評、学会・研究会参加印象記、その他随想など幅広いジャンルの投稿を期待しています。投稿は無料です。詳しくは上記サイト中「Call for Papers」の「投稿・執筆規定」をご覧ください。

2018年8月 8日 (水)

フッサール心理学(49):質的心理学会(沖縄)での「人文死生学シンポジウム」での企画趣旨案の巻

■今年(2018)の質的心理学会大会(沖縄県名護市、11月24日)で、「『人文死生学宣言』の誕生」という副題のシンポジウムを行うことが決まったが、私は話題提供を遠慮したので、代りに「企画趣旨」を限られた時間でいかに有効に語るかを考えている。


 順序としてはこうだ。
→まず自己紹介として、大会受付で展示販売中の『質的心理学研究』最新号に、「他者になる夢の現象学的解明ーーフッサール志向性論による主題分析」という論文を載せていることを紹介した後、次のように論理を進める。
→この論文は、現実では他者になれないのになぜ夢では他者になれるかを、フッサール現象学によって解明したものです。
→解明の結果、驚くべきことが判明しました。
→他者になる方法は、夢を見る以外に、もう一つあることが分かった。
→それは、
→私が死ぬことである。
→といったことが、『人文死生学宣言』の私が執筆した第4章「他者とは時間を異にする私なのか」に書いてあります。
■次に、死ぬことは生きることより無限に悪いという「死の害」の説について一言する。この説は、自然科学万能の風潮に追随し続けている現代英米哲学で流行っているらしいが。
→生よりも死の方が無限に悪いという感覚は、科学技術的合理性に貫かれた現代にあっては、生の日常性と死の非日常性の間の距離が無限となっている所に由来する。
→したがって生を非日常化することが、有効な「感性的」反駁となる。非日常性同士で、生と死の距離が縮まるから。
→生の非日常化は(私の場合)次のような道筋をたどる。
1)自己の唯一性の自覚(→他者のゾンビ化)。=非日常化!
2)それでも、自他の等根源性の要請を断念しない。
3)1+2→人間的世界経験の根源的パラドックスへの直面=非日常化!
4)パラドックス解決としての、「他者とは時間を異にする私」という死生観の展開
■最近、福島県の亡母の実家の叔母の葬式に行ってきた。
焼香から始まって出棺、焼場での骨拾い、斎場に戻っての酒宴と、伝統に則った式次第に参加して思ったことは、葬式仏教などと悪口を言われながらも、結構、生の非日常化に貢献しているのではないかということだった。
 葬儀のセレモニーは、確実に生を非日常化して死との距離を縮める。
 これは貴重な文化的伝統というべきだろう。
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2018年7月25日 (水)

フッサール心理学(48):アンドレ・ジッドの自我体験(?)

■サルトルは『ボードレール』の中でこう書いている。

‥‥誰でも幼年時代に突発的で、圧倒的な自意識の目覚めを経験する。ジードはそのことを『一粒の麦』で書いた。彼のあとではマリア・ル・アルドアン夫人が『黒い帆』で書いている。だが『ジャマイカ島の颱風』を書いたヒューズほどこのことを巧みに語った者はいない。‥‥(p.11)

  サルトルは、ヒューズの例しか具体的には引用していない。けれども、この記述を受けてSpiegelberg (1961)が、マリア・ル・アルドアンの例とヒューズの例を引用考察し、さらにコーンスタムが『子どもの自我体験』(金子書房、2016)の中で引用考察している。ところが、ジードの例は、サルトルが名を出しているだけで、誰も引用していない。

 今回、ジードの『一粒の麦もし死なずば』を改めて読み返して見て、サルトルを含めて誰も具体的に引用していないわけが分かった。自我体験であることが分かりにくいのだ。

 とにかく、該当すると思われる一節を、下記に書き出しておこう。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 数年後、父の死の直後のこと。つまり僕は十歳になっていたわけだ。舞台はまたしても朝の食事の食卓だ。ただし、今度は、母と僕とは差し向いの二人きり。その朝、僕は学校へ行ってきたのだった。何ごとがあったものか?何ごともなかったものらしい‥‥・。それなのになぜ僕は、急に泣きくずれて、母の膝に倒れ、すすり泣いたり、痙攣(ひきつけ)たりしたのだろうか。あの幼い従弟が死んだときとまったく同じな、あの説明しがたい苦悶を感じたものらしかった。とにかく、僕のうちにある見知らぬ海の特別な閘門が急に開きでもしたかのように、波が僕の心の中におびただしく流れこんでくるのだった。僕はさびしいというようむしろ恐ろしかった。だが、僕がすすり泣きながら絶望的にくり返しているつぎの言葉を、わずかに聞くだけの母に、どうしてこれを説明することができよう?
 「僕は皆と同じでないんだ!僕は皆と同じでないんだ」

 (アンドレ・ジッド『一粒の麦もし死なずば』(堀口大学/訳、新潮文庫)p.137)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 確かに、この最後の行の意味はわかりにくい。念のため原文をみると次のようになっている。
--Je ne suis pas pareil aux autres! Je ne suis pas pareil aux autres!
(André Gide: Si le grain ne meurt. Éditions Gallimard, 1955, p.133.
 これでは堀口大学以外に、訳しようがないと思われる。あるいは自我体験というより、独我論的体験が入った体験だったかもしれないが。
 ともあれ、Spiegelbergのように質問紙調査をやったわけではないが、サルトルは「事例」を3つあげている。事実上、自我体験研究の先駆者といえるのではないだろうか。
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2018年7月 4日 (水)

夢の現象学(147):夢を思い出そうとしているうちに一昨日の「フランス語圏発達心理学文献を原典で読む会」のことを思い出したの巻

■7月2日(月)。早朝、夢を見た。スケールの大きな物語が進行していたが、ほとんど思い出せない。なにやら着流し姿の江戸の侍がいたような憶えがある。侍は巨大な力を秘めているようだった。けれども、途中から「妥協」があったような。

 記憶の緒をたぐり寄せようとしているうちに、夢ではなく土曜日に早稲田であった、「フランス語圏発達心理学文献を原典で読む会」のことが思い出されてきた。
 その会での中心人物の加藤義信さんの配布資料「フランス語圏発達心理学をフランス語で学ぶ効用(と限界)」にあった、「今世紀初頭以来、日本の大学や研究機関で進行している事態は‥‥「制度化」と「国際化」の急速な進展として理解できる」という部分が、印象に残っている。
 「「制度化の進展とは?」
 ・多くの研究者が専門分化した共通の学会に組織され、
 ・共通の専門用語が教科書的に体系化され、それによっ「て互いのコミュニケーションが可能となり、
 ・問題意識とっ方法における研究パラダイムを他の研究者と共有して、
 ・そのパラダイムの範囲内での「累積科学」への貢献と見なされ得るデータを産出し、
 ・それを共通のフォーマットに則った論文にまとめて、
 ・専門の学術誌に発表することによってプライオリティを競い、
 ・そうした専門家集団を再生産する学位・資格制度が整備された体制。
 「国際化」の進展とは?
 ・こういう「制度化」が、英語を唯一の共用語としつつ地球規模で進むこと。」(加藤、2018、p.1)
 確かに、こういう風潮から見れば、加藤さんは自分でも言っているように、「辺境人」かもしれない。すると、私はどうなるのか。研究会冒頭、自己紹介を加藤さんの次にする破目になって、「加藤さんが辺境人なら自分は宿無しの放浪者だ」といったことを言ったのだったが。今から考えれば、自己規定としては「異世界人」とでも言っておけばよかったのだ。
■フランス中世文学に親しむの巻
 フランスついでだが、今日は図書館で『フランス中世文学集』の第2巻を借りだし、クレチャン・ド・トロワ作「荷車のランスロ」を(もちろん翻訳で)読み始めたが、めっぽう面白い。ランスロとは、英国版アーサー王物語に出てくるランスロットのこと。アーサー王物語の定本ともいえる、15世紀のマーロウ作「アーサー王の死」の最も主要な種本でもある。12世紀のクレチャン・ド・トロワの方は、ロマンス、つまり中世のロマン語で書かれた叙事詩の作者の中で最も有名な人物。いわば、吟遊詩人(トゥルヴァトーレ)の総元締めというところか。
 最近よく思うのだが、私の教養の原点は、10代に親しんだヨーロッパ近代文学にある。その中でも10代前半で特にお気に入りだったのが、ゲーテの「ミニヨンのうた」やノヴァーリスの「青い花」に代表されるロマン派の文学だった。そのロマン派の源流となった12世紀のロマンスの作者の中でも名前だけは憶えていた、クレチャン・ド・トロワの物語詩を、散文訳とはいえ手軽に読める日が来るとは思わなかった。
 まだまだ、読みたい物語、読まずに死んだら心残りだろう物語はいくらでもありそうだ。この本の中でも、同じ作者の聖杯物語が収められているし。
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2018年7月 3日 (火)

夢の現象学(146):夢3題(天文学の科学社会学/トイレの研究/巨大蛇が襲う)の巻

■2018年6月12日。夢を見た。天文学の科学社会学という講座を主催していた。白鳥座のデネブが云々といった中味が思い起こされる。

 そのうち、二つの提案を学生たちに提示したのだった。それは、(1)理学部天文学専攻の見学、(2)隣の、やや似たような傾向の、S氏がやっている講座との連携、であった。ところが反対する学生(男子)が二名ほどいた。(起きてから思い起こしても、顔は見覚えがない)。それでも、反対をものともせずに決行しよう、などと考えた(午前10時。世田谷のS駅近くの喫茶にて)。

  天文学の科学社会学に関しては、だいぶ前にそのような研究を読んで(ラトゥールだったかな)、こんなことをやるよりは天文学そのものをやった方が良かっただろうに、と率直な感想を抱いたことが思い出される。S氏は質的心理学会の幹部だが、科学社会学をやっているわけではない。よく分からぬ夢だった。
■2018年6月13日(水)。早朝4時ごろ。夢を見た。
 トイレの研究(?)をやっていた。C駅から私鉄のK駅のまでのガード下にショッピングモールが複数続いていて、一つずつトイレがあったが、そんな構造の建物にいた。
 一番奥まった建物のトイレが最も居心地がよさそうだった。
 その、4つ並んだ個室トイレの最も奥の部屋に住む工夫を、いろいろしていた気がする。(午前11時。喫茶とドールにて。)
■2018年6月23日(土)。早朝、スケールの大きい夢を見た。
 夢の認知科学のO氏が出てきて、何やらの研究集会に出てくれと言われたような、その逆に出てくれと云ったような、気がするが、どちらかはっきり思い出せない。そのうち、どこやらの大学か研究機関で飼育していた巨大蛇が逃げ出したという情報が入った(どうやって知ったのかハッキリしないが、情報として直接入ってきたのかもしれない)。
 これまた思い出せない理由で、巨大蛇は我々の研究グループを襲撃するらしいという。雑木林の生えた丘陵を越えて逃げる。同行者がいたかははっきりしないが、合流点には国際総合研究機構のKさん(女性)もいたような。
  川のほとりに出た。これで逃げ切ったと安堵していると、また、巨大蛇は川の近くに向かっているという情報が入った。ただし、蛇のターゲットは我々ではない別のグループらしい。が、とにかくまた逃げ出さなければならない。
 この辺で目が覚めた。
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2018年6月 9日 (土)

夢の現象学(145):拙著『夢の現象学・入門』のエピグラフに、よりふさわしかったボルヘスの詩の巻

■2018年6月8日。図書館で、『ボルヘス詩集』を何気なくめくっていると、「夢」という作品が目に留まった。一読して、これこそ、一昨年に出版した『夢の現象学・入門』のエピグラフにふさわしかったのに、と思った。

 ちなみに実際のエピグラフには、ホフマンスタールの「世界の秘密」から抜粋して使ったのだった。
 こんな具合だ。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
深い泉はよく知っている、
かつてはだれもが深く、おしだまり、
だれもがそれを知っていた。
深い泉はそれをよく知っている、
泉に身をかがめ、一人の旅人がそれをとらえ、
とらえてまたそれを失くした。
深い泉はよく知っている、
かつてはだれもが知っていた、
いまは夢が、輪をかいてふるえめぐるばかり。
――ホフマンスタール「世界の秘密」(一八九四)より、一部を改変・省略して引用。
  (『夢の現象学・入門』渡辺恒夫著、講談社選書メチエ、2016、p.2)
;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;
 この引用で気になっていたのは、原詩の全12連のうち3連しか引用していないし、おまけに最後の行に出てくる「夢」と、本のテーマである「夢」とでは意味がずれていることだった。
 その点、ボルヘスの詩は、本の内容にもふさわしい。
 以下に全体を引用する。
■ボルヘス作「夢」
 そこここの時計が惜しげもなく
 時を振る舞うころ、
 わたしはウリッセースの舟子らを遥かに越えて、
 人間の記憶の及ばない、
 眠りの地へと赴くだろう。
 そしてその海中に没した土から、いまだに謎の解けない遺物を拾い上げる。
 素朴な植物学の草花、
 いかにも雑多な動物、
 死者たちとの対話、
 実は仮面である顔、
 非常に古い言語に属する言葉、
 白昼がわれわれに与えるものとは
 比べられない、たまさかの恐怖。
 私は万人であるか何者でもないかであり、
 それと知らずにわたしである他者であり、あの別の夢、
 わたしの目覚めを見た者であるのだろう。彼はそれを、
 諦めの微笑を浮かべながら裁いていくのだ。
   (『ボルヘス詩集』 鼓直/訳編、思潮社、1998、p.90)
;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;
 ところがこの詩集には、下に引用したように、更にいっそうエピグラフ向きだった作品がある。いまからェピグラフを差し替えるわけにもいかないので、次に出す本には、ぜひボルヘスから拝借したいものだ。といっても、目下計画しているコミュ障本は、ボルヘス向きでもないのだが。
:
■ボルヘス作「デカルト」
 わたしは地上で唯一の人間である。おそらく、地上も人間も存在しないのだろう。
 おそらく、ある神が私を欺いているのだろう。
 おそらく、ある神が罰として時を、あの大きな幻影をわたしに与えたのだ。
 わたしは月を夢みる。月を捉えるわたしの眼を夢みる。
 わたしは最初の日の夕べと朝を夢みた。
 わたしはカルタゴとカルタゴを劫略した軍団を夢みた。
 わたしはルーカーヌス〔註 ボルヘスの友人〕を夢みた。
 わたしはゴルゴダの丘とローマの十字架を夢みた。
 わたしは幾何学を夢みた。
 わたしは点と線、平面と体積を夢みた。
 わたしは黄と青と赤を夢みた。
 わたしは虚弱な少年時代を夢みた。
 わたしは地図と王国、あの夜明けの決闘を夢みた。
 わたしは想像を絶する苦痛を夢みた。
 わたしは剣を夢みた。
 わたしはボヘミアのエリザベートを夢みた。
 わたしは疑念と確信を夢みた。
 わたしは昨日という日を夢みた。
 おそらく、わたしに昨日はなく、おそらく、わたしはまだ生まれていない。
 おそらく、わたしは夢みたと夢みている。
 わたしは少し寒気がする。少し不安である。
 ダニューブ河に夜が訪れている。
 わたしはデカルトを、彼の両親の信頼を夢み続けることにしよう。
           (『ボルヘス詩集』 鼓直/訳編、思潮社、1998、p.115-116)
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エピステモロジー (épistémologie)」はフランス語圏では、科学的知の批判検討を意味します。心理学を始め、精神医学、認知科学、脳神経科学、人工知能など、こころの科学と総称される領域全般に対して、批判的検討を加えることを主目的とします。詳しくは上記サイトよりダウンロードできる『創刊準備号』巻頭の「エディトリアル」を参照してください。
原著論文、研究企画、翻訳(以上は査読あり)、ブックレビュー、映像メディア時評、学会・研究会参加印象記、その他随想など幅広いジャンルの投稿を期待しています。投稿は無料です。詳しくは上記サイト中「Call for Papers」の「投稿・執筆規定」をご覧ください。

2018年6月 8日 (金)

夢の現象学(144):核攻撃を受けた夢から覚めた後も10秒程本当だと思い続けたの巻/三連続続きの夢を見たの巻

■2018年5月19日朝。会議室のような所にいた。何かの研究会らしかった。と、なにやら、窓の外を見て誰かのアーッという叫びが上がった。

 つられて窓外を見ると、東京の、高層ビルから眺望した風景が広がっていたが、その地平のビルの一画に、黒い煙がモクモクと上がっていた。たちまちキノコ雲になった。
 核攻撃だ。テロかもしれない。
 キノコ雲はどんどん広がってくる。
 窓の外は見ない方がいい。目を焼かれる。カーテンも下すべきか。この研究会には科学技術に詳しい人もいるから、アドヴァイスが受けられたらいいい‥‥などと考えた。
 目が覚めても、半睡状態で、これからは家族四人でいよう、などと(私にしては殊勝な)ことを思ったような。(朝6時59分)。
 目覚めてから暫くの間(といっても十数秒だろうが)、核爆発は本当だという、「夢世界信憑」が残っていたような。
■6月2日(土)。早朝、目覚めてはまた眠りして、三連続続きの夢を見た。
 新しく始まった‥‥のものはない。そのうち、焦りが高まって、眼が覚めた。
 また眠りに落ちて、夢の続きを見た。今度は首尾よく‥‥その後、コピー室にいたような映像が思い出せるがはっきりしない。はっきりしていることは、夢の中の焦りがまたしても高まって、目を醒ましたことだった。
 また眠りに落ち、夢の続きをまた見た。今度はほとんど思い出せない。きっと前の二つの夢のように、夢が続いているうちに急速に覚醒して記憶が鮮明に残る、ということがなかったからだろう。土曜日のことで8時15分にかけていたアラームが鳴るまで、眠ってしまったのだった。
 三連続つづきの夢を見たのは、思い出せる限り初めてだ。‥‥(午前10時半)。
*註 「‥‥」など公開をはばかる部分は、「裏ブログ記事」に回しておいた。
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2018年4月27日 (金)

フッサール心理学(47):ボーヴォワールの自我体験(意識の超難問体験)の巻/夢の現象学(143):恐竜のような長い首の列車に乗って高知に行くの巻

■シモーヌ・ド・ボーヴォワールの自伝シリーズ『決算のとき』の冒頭に、深い自我体験、しかもその中核となる「意識の超難問体験」を発見したので、引用しておく。

 毎朝、私は目をひらく前にすでに私の寝台、私の部屋をそれと認める。しかし私の住居で午後に眠る場合は、目を覚ます際に子供っぽい驚きを感じることがある。いったい、私はなぜ私なのだろうか、と。私をおどろかせるのはーー子供が自分の自己同一性を自覚するときのようにーー自分が現在ここに、ある別の人生のなかにではなく、この人生のなかにいるのを見出すことなのだ。どういう偶然からそうなのだろうか。自分の人生を外から眺めるとき、私にはまず自分が生まれたことがありそうもないことに思われる。一定の精子と卵子の合体、それが私の両親そして彼らのあらゆる祖先たちのまず生誕を、ついで出会いをもたらしたのだが、それはそれぞれ何億に一つも実現する可能性はなかったのだ。また、科学の現状ではまったく予見しえない偶然によって私は女に生まれた。ついで、私の過去の各瞬間においても何千という異なる未来が可能だったと考えられる、たとえば病気にかかって学業を中断するとか、サルトルに出会わなかったとか、その他なんでもよい。この世界に投げ出されて、私はその諸法則、その偶発的諸事件に従属し、他者たちの意志、そのときどきの情勢や歴史に左右されてきた。したがって私が自分という存在の偶然性を感じるのは正当である。私に眩暈を起こさせるのは、それでいて同時にそれが正当でないことなのだ。かりに私が生まれていなかったとすれば何の問題もないはずだから、私は自分が存在するという事実から出発しなければならない。そしてもちろん、私が、かつてそうであった者の未来は、私を現在とはちがった者にすることも可能であっただろう。しかしその場合は、その別の私が自己についてせんさくすることになるわけだ。これが私だ、と自分に向かって言う者にとって、〔別の私という〕同時併存の可能性は存在しないのだ。主体とその歴史とのこの必然的な一致は、しかし私の当惑を解消するのに充分ではない。親しくてしかも遠い私の人生、それは私を定義・限定すると同時に私はその外にある。この奇妙なもの〔私の人生〕は正確にいって何なのだろうか?(『決算のとき 上』(朝吹三吉・二宮フサ/訳、紀伊国屋書店、1973), p.9(Simone de Beauvoir: Tout compte fait. Gallimard, 1972))
 ボーヴォアールといえば『第二の性』が有名だが、そんな表向きのイメージとは別の、こんな深い形而上学的な体験を記していたなんて。ますますボーヴォアールが好きになった。
 もっとも、同様の体験を出発点としているジュリアン・グリーンは読んでいたと思うが。
■2018年4月27日。夢を見た。恐竜のような長い首の列車にのって、高知に行ったのだった。首は多数の節から成っていて、ロボットの恐竜といった趣だった。
 場面が変わり、喫茶店にいた。トイレが店内にないことが分かっている。女性客が、トイレに行くのか、店を出る。続いて私も出る。店の両隣とも、店ではなく普通の民家だが、普通というより京都の紅殻格子の民家のようだ。先の女性客の姿は見当たらない。そのうち目が覚めた。
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2018年3月17日 (土)

夢の現象学(142):北極圏の街にいた夢の巻/ダライラマの花嫁の夢の巻/

■2018年3月15日。朝。北極圏の街にいた。アラスカらしい(と思ったのはひょっとして目覚めてからの推測かもしれない。夢の中で分かっていたのは北極圏だということだけ)。街中で、女の人ふたりが立ち話をしているところに、野良犬が来て、後足で立ち上がり、一方の女の人の胸に鼻先を押し付ける。明らかに、飼ってくれという意思表示だ。相手にされないとみると、二人が別れた後、もう一方の女の人の後を追い、やはり後足で立ち上がって、今度は前足を突き出して押し付けながら付いてくるのだった。そんな光景を見て、家に帰って家族に話したような‥‥

 北極圏の街にはまったく心当たりがない。数日前、家でテレビを見ていて、北欧の街でオーロラを見る話が出てきた位だろうか。野良犬の仕草も見たことがない。以前、戦後すぐの闇市にいるという、他人の人生の一コマを覗き込んだような夢を見て、『夢の現象学・入門』に載せて考察したことがあった。この夢にも、他人の人生の一コマを覗き込んだような薄気味悪さがある。

■「ダライラマの花嫁」という題がピッタリの奇想天外な夢。

 2018年3月17日。早朝。私は、次代のダライラマ何世だかを生む定めになって、現ダライラマの元を訪問することになったのだった。ダライラマの側近(?)と、もう一人日本側の代理人(?)の二人が同行していた。大きなホールのような建物に入り、ダライラマ側の側近が、その建物にいた係員(?)に、来意を告げる。私は恥ずかしかったが、これも宗教的にして政治的でもある聖なる儀式の一環なのだと自分に言い聞かせて、気を取り直した。

 前後関係がもう思い出せないが、ホールでは、最終的な筆記テストを受け、無事、次期ダライラマを産む資格が、公的に付与された。

 ホールの内部は薄暗く、ひと気がほとんどない。大きなホールの内部にさらにいくつか小規模のホールがあるという、映画館と云うかシネマックスのような構造をしていた(ということに、眼が覚めてから気付いた。)他に思い出せることはもはやないが、妙にリアルな夢だった。後で、「ダライラマの花嫁」という題がピッタリだと思いついた。それにしても、次代のダライラマを産む定めになって現ダライラマの元に行くだのと、こんな突拍子もない夢はさすがに見たことがない。目が覚めている限り、逆立ちしても出てこない奇想天外ぶりだ。ダライラマのことなど、普段は考えないので、連想しても出てくるものがないのだが。

 シネマックスに関しては、一月ほど前に、運転免許証を返上しに試験場に行った後に東京湾岸沿いのシネマックスまで足を延ばし、「The Promise君への誓い」という映画を見たことが思い出される。百年以上前の、第一次世界大戦が始まったころのオスマントルコ領で起こった、アルメニア人虐殺を題材とした映画だった。家族全員を殺された主人公のアルメニア人医学生が、「復讐したい」と呟く。それを聞いた友人が、「生き延びることが復讐になる」と答えるのが印象に残った。このやり取りが伏線となって、その後はアメリカに渡ってかの地で成功したらしい主人公が、最後は養女(やはり虐殺の中で孤児となった少女)の結婚式に、同じくアメリカに逃れてその地に根を張ったアルメニア系の一団が大勢つめかけて、祝福をしてフィナーレとなる。生き延びたのだ。

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