心理学

2018年10月20日 (土)

フッサール心理学(51):涼宮ハルヒは自我体験の夢を見たか

■涼宮ハルヒは自我体験をしたか?

ハルヒワールドのことを考えながら歩いていると、擦れ違う高校生の集団の中にもふつうにSOS団の面々がまじっているような錯覚に襲われる今日この頃です。
 などというと、それっていつの時代のこと?なんて突っ込みが入るかもしれません。でも、先日三浦(俊彦)さんからの連絡で、原作ハルヒシリーズに続編が、7年ぶりで出ることになったことを知りました。↓

https://mainichi.jp/articles/20180925/dyo/00m/200/005000c

「ザ・スニーカーLEGEND発売日は10/23。(あさってのことじゃないか!) 

 だからハルヒネタも、もうすぐ再びアップトゥデートなトピックスになるのです。
 さて、『涼宮ハルヒの憂鬱』のDVDシリーズを見ていて4巻目か5巻目で、不意打ちを食らって仰天したエピソードがあります。
 ハルヒが珍しく内省的になって小学6年の時の思い出を語るのですが、野球場に行って余りの人の多さに驚き、自分が今まで何か特別の存在だと思っていたという思い込みを覆され、それ以来世の中が面白くなくなってしまったというのです。
 この回想に私は、自我体験っぽいところを感じました。
 そもそも私にハルヒシリーズを薦めてくれた三浦さんの近著『エンドレスエイトの驚愕:ハルヒ@人間原理を考える』(春秋社、2018)を読んでいて、このエピソードを引用しつつ、自我体験に絡めて考察しているくだりがあったので、まず紹介しておきます。
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 「私は野球なんかに興味なかったけど、着いて驚いた‥‥見渡す限り人だらけなのよ。
‥‥私なんてあの球場にいた人ごみの中のたった一人でしかなくて、あれだけたくさんに思えた球場の人たちも、実は一掴みでしかないんだってね。
 それまで私は、自分がどこか特別な人間のように思っていた。‥‥でも、そうじゃないんだってその時気づいた‥‥
 私が世界で一番楽しいと思っているクラスの出来事も、こんなの日本のどの学校でもありふれたものでしかないんだ。日本全国のすべての人間から見たら、普通の出来事でしかない。そう気づいたとき、私は急に私の周りの世界が色褪せたみたいに感じた。‥‥途端に何もかもがつまらなくなった。そして、世の中にこれだけの人がいたら、その中にはちっとも普通じゃなくて面白い人生を送っている人もいるんだ。そうに違いないと思ったの。それが私じゃないのは何故?‥‥」
 ‥‥
 ハルヒのこの「覚醒」は、発達心理学でいう「自我体験」の反転型である。自我体験では、「たくさんいる人間の中でなぜこの人間だけが私なんだろう」‥‥というふうに、「私の特殊性」「私の一回性」が不思議感をもって体験される(渡辺 2009、コーンスタム 2017、天谷 2011)。自意識の覚醒の一形態と言えるだろう。ハルヒの体験では、逆に「たくさんいる人間の中でなぜこの私は特別でないんだろう」という「私の平凡性」が不満のタネである。これは自我体験の文献に明確な報告のある症例ではないようだが、自意識の覚醒の一種には違いない。(同書、pp80-81)
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■ハルヒの体験に似たオランダ人女性の体験例
 拙著と拙訳書も参考文献に挙がっているのは光栄ですが、拙訳の方にオランダ人女性の似たような事例が一つだけあるので、お目にかけます。
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【およそ八歳 他の場所にも人が、物凄く大勢の人がいた】
私がほぼ八歳の頃のことでした。おばあちゃん・おじいちゃんの家に滞在した帰りのこと。父と母と妹と私で車に乗って家路についていました。夕方で外はすでに暗くなっていました。私はうとうとしながら、ときおり車窓から外を眺めていました。‥‥車窓の外にたくさんの灯が見えた時のことでした。最初私は、街灯かと思ったのですが、数が多すぎました。私は両親に、どうしてあんなに灯がいっぱいあるのか尋ねました。あれは家々の(高層住宅の?)灯で、人々がそこに住んでいるのだ、という答が返って来ました。私は大きな衝撃を受けました。だって、そんなことってあるかしら。その瞬間まで、私の世界は、ヘーネマイデン村と、おじいちゃんおばあちゃんの住む小さな地域に限られていたのですから。もっともっとずっと沢山あったのだ!このことは私には脅威に感じられもしましたが、同時に好奇心を掻き立てられることでもありました。(コーンスタム著『子どもの自我体験』渡辺恒夫・高石恭子(訳)、金子書房、2014、pp.162-163)
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 ハルヒ事例とこのオランダ人女性の事例を改めて見比べて、両者とも自我体験と言うには微妙なところかな、という気がします。
 参考までに、私が自我体験調査のために作成して使用していた、自我体験の定義と判定基準を掲げます。
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表 自我体験の定義と判定基準(渡辺恒夫『自我体験と独我論的体験』北大路書房、2009、p,95、表4-2より抜粋)
・自我体験の定義(def):なぜ私は私なのかという問いを中心に,それまでの自己の自明性が疑問視される体験,および,この疑問に解決を与えようとする思索の試みであって,自己の独自性・唯一性の強い意識を伴うこともある.
・判定基準:①を含む2つ以上の基準を満たしていること。基準②以下の完全詳細は第3章参照のこと。
①自己が何らかの形で主題となっていること。
②突発性 普段の生活とは連続しない特殊なエピソードとして回顧されていること。具体的には「ふと」「突然」「瞬間」などの表現によって,その体験が生じたときの「唐突さ」や「脈絡のなさ」が記述されていること。……
③違和感 何か理解しがたいことが生じている,あるいは,その体験が普通でない,という独特の感じが伴うこと。……
④孤立と隔絶 自分という存在が,全ての他者,さらには世界全体と対置され,自己の孤立性や例外性が強く意識されていること。……
⑤自己の分離 自分という存在が2つに分離して感じられたり考えられたりしていること。……なおこの基準の適用に際しては,定義に基づき,それまでの自己の自明性に対する違和や懐疑が認められるかどうかをチェックした。……
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 この定義・判定基準に照らすと、オランダ女性事例は自我体験未満になります。自己の自明性が揺らいだわけでもないし、体験自体、常識的に言って理解できなくはないのですから。
 これに対してハルヒの体験は、何となく常識では理解しがたいところがあります。「自分がどこか特別な人間のように思っていた」にしても、「それが私じゃないのは何故?‥‥」にしても、そんな風に考える子どもが、そこらにいるものでしょうか。
 他方、ハルヒ体験を自我体験に入れるのに躊躇するのは、「なぜ私は私なのか」という問いが見られないからです。
 ここで、自我体験とオモテウラの関係にある、「独我論的体験」の判定基準を見てみます。
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表 独我論的体験の判定基準(同上書、p. 表5-1より抜粋)
下記基準中、①④を含む2つ以上の基準を満たしていること。
①自己が何らかの形で主題となっていること。
②突発性 普段の生活とは連続しない特殊なエピソードとして回顧されていること。具体的には「ふと」「突然」「瞬間」などの表現によって,その体験が生じたときの「唐突さ」や「脈絡のなさ」が記述されていること。
③違和感 何か理解しがたいことが生じている,あるいは,その体験が普通でない,という独特の感じが伴うこと。
④孤立と隔絶 自分という存在が,全ての他者,さらには世界全体と対置され,自己の孤立性や例外性が強く意識されていること。
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 この判定基準に照らすと、ハルヒの体験は、独我論的世界から脱却することで、それまでの世界が独我論的として意識された体験、ということになります。
 独我論と言えばふつう、自分以外の他人が意識無きゾンビだという世界観を意味します。
 けれども私は、自我体験・独我論的体験の調査をしていくうちに、心理学的な意味での独我論的体験に独自の体験構造は、他者に意識がないと思う処にあるのではないと気づいたのです。
 すべての他者に意識がない世界でなら自分にだけ唯一、「意識」がある。すべての他者に意識がある世界でなら自分にだけ唯一、意識だけではなく「超意識」がある‥‥というように、すべての他者とは一段レベルの高い意識を、自分一人だけに設定するという、自己の唯一性の自覚にこそ、独我論的体験の本質があるのです(拙著『フッサール心理学宣言』講談社、2013)。
 従って、イエス・キリストのように、無時間的な唯一神が時間的世界に人間として生誕したという化身教義の世界観もまた、独我論的体験として解しうるのです。誰にでもある「意識」に加えて、自分には唯一神であるという「超意識」がある、とイエスが自覚していたらの話ですが。独我論的体験という語がふさわしくないというのであれば、「自己の唯一性体験」と言い換えてもいいです。自我体験も独我論的体験も、この体験から派生したものとして、統一的に理解できますから。
 ハルヒもまた、他人はゾンビだなんて考えたことすらないでしょう。けれども、「自分がどこか特別な人間のように思っていた」という幼少期の思い込みが覆されてもなお、「それが私じゃないのは何故?」と新たに執拗に問いかけるところに、自己の唯一性の根深い自覚が潜んでいるように思うのです。
 そのように考えれば、ハルヒシリーズで、古泉君ら超能力者の機関が、世界が3年前にハルヒによって創造された故に、ハルヒを神とみなしていることとも、付合するのです。創造神は世界の外部にいなければならないわけではありません。化身教義によれば、永遠の唯一神だって、人として生まれて世界の内部で人として死ぬことがありうるのですから。
<この項、続く>
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2018年10月 5日 (金)

夢の現象学(149):「現実世界での過去の夢」が「夢世界での現実の過去」になるの巻/大聖堂様式の三越のファサードで重量を支えるスフィンクスが立ち上がるの巻

■2018年9月22日(土)。早朝。(11月下旬のはずの)質的心理学会沖縄大会に参加していた。なぜか一家4人揃っていた。

 そこは大きな日本旅館のホールのようなところだった(過去の夢で見覚えがあったような)。入場してくる顔見知りに挨拶をしていたが、「なぜかみんな精神科医だ」と思った。私の企画したシンポジウムのタイトルに「精神医学と現象学的心理学から見た‥‥」という文句がはいっていたからだろうか。同じシンポジストの新山さん(精神科医)もいたような。
 前後がはっきりしないが、やはり精神科医で、夢の中では知り合っていることになっている人物に挨拶された。
 名前がなかなか出てこない。
 それでも、頑張って何とか思い出して、「安田先生‥‥」とか言った。スピリチュアル系の研究会が、東海地方の山間の合宿形式であった時に見た顔だ(目覚めてからは、見知らぬ顔だと思った。研究会合宿というのも、「夢世界の中の現実の過去」にあったことになっているが、現実世界から見たら過去の夢のことだ)。
 そのあと、私がいる一画の群では、40年前に超心理学会で知り合ったやはり精神科医の長崎鋼典先生(故人)がいて、別の群の、やはり精神科医の誰かと引き合わせているところだった。その誰かが「安田先生」だったかもしれない。
 その後、家族が席を占めているテーブルに行き、長女と何やら出された料理の中の食べ物について話していた。後は思い出せない。
 (午前十時半。図書館側の喫茶にて)。
■2018年10月5日。京都にいた。人生の最終段階を迎え、京都で有料老人ホームに入っていたのだった。
 ホームは大部屋で、入居者同士が大勢で雑魚寝をするのだった。(かつて高知大に勤めていた頃によく利用していた宇高連絡船や、高知大阪南港間のフェリーの船室に似ていた)。そこで私は、寝言か譫言に見せかけて自分の死生観を、つまり遍在転生観を語ってやろうか、などと思っていた。
 次に憶えている場面では、ホームから外出して京都の町を散策していた。すると、右手に(地理的に北白川あたりだったと目覚めてから思ったが)、デパートが見えてきた。三越だった。現実の三越とは無関係の、ノートルダム大聖堂のような形をしたビルだった。建物のファサードの下部には、牛だか獅子だかの巨像が、スフィンクスのように蹲って建物を支えていた。
 さらに足を伸ばすと(地理的に下賀茂の辺りだったと目覚めてから思ったが)、やはり右手にまた三越があった。ほぼ同じ様式の建築だった(この辺で、三越1から三越2まで冬の夜になったら明かりに照らされて‥‥歩くのもいいな等と、ファイナルステージにそぐわないことを考えていた)。
 ただ一つ、違ったところがあった。ファサードの下部に蹲っていた牛頭スフィンクス巨像が、ここでは立ち上がっているのだった。
 私は(誰かはっきりしない)連れに、「あれ、このスフィンクスは、がんばって立ち上がってるよ」と言った。
 記憶では前の三越1でと同じく、この三越2でも、蹲った姿勢で巨大な建築を支えていたはずなのに。もしほんとうに、「がんばって」立ち上がったのだったら、超常現象じゃないか‥‥などと、考えたか連れに話したかした。
 そのうち目が覚めた。
■人生のファイナルステージという設定は、別件で2年ばかり抗ホルモン療法で治療を続けている上に、今週初めの病院の検査でポリープ摘出術を勧められたりして、いよいよその時期が近いなと実感したことが下敷きになっているのだろう。
 老人ホーム云々は、亡母を東京から同じ市内の老人ホームに入れて、訪問するごとに散策に連れ出した経験がもとになっているようだ。小奇麗なホームで、自分もその時になったら入れれば、などと思っていた。それも10年前のことになってしまったが。
 スフィンクスが立ちあがっていたというのは、故・横山光輝作の名作『バビル二世』の続きという設定の『バビル二世リターナー』というマンガで、そんな場面があったのが連想される。けれども、ノートルダム寺院の建築様式の三越デパートというのには心当たりがない。目ざめて思い起こすと、パリのノートルダムよりは、車で通って観光をしただけのベルギーの古都ゲントで目にした黒ずんだ古い聖堂建築の方に似ていた気がする。
 北白川から下賀茂上賀茂にかけての、つまり京都の北東の区画を歩いている夢は、何度も見ている。実際に京都に住んでいたのは十代末から二十代を通じてだったが、夢の中の京都は現実に記憶の中にある京都とは色々と異なっている。現実の京都とは独立に夢世界の京都がいつもどこかに存在していて、それが時々夢に出てくる、という感じだ。
 けれども、なぜ京都の老人ホームに入居して、外出すると大聖堂建築様式の三越が二つもあり、ファサードの下部で牛頭スフィンクスが建物の重量を支えていたりするのだろう。
 理解しがたいとしかいいようがない。
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2018年9月14日 (金)

フッサール心理学(50):『涼宮ハルヒの消失』に感動し、「優しい忘却」の歌詞を掲げるの巻/コミュ障の現象学から見た長門有希

■劇場版『涼宮ハルヒの消失』をDVDで月曜の夜に見て以来、3日。いまだ感動から醒めやらずにいます。

 ことの発端は、『人文死生学宣言』(春秋社、2017)を共に編集した三浦俊彦氏から、新著の『エンドレスエイトの驚愕』(春秋社、2018)を贈られたこと。
 「涼宮ハルヒの憂鬱シリーズ」論なのですが、今までこのアニメシリーズを見たことがなく、それじゃ見なくちゃ、と世田谷に泊まり込みに行くたびにツタヤから借り出して、9巻目か10巻目。まがうことなき名作に出会ったのです。

 ハルヒシリーズは、宇宙人と未来人と超能力者しか興味がないという女子高生涼宮ハルヒが、退屈しのぎに超常現象を見つけ出すために結成した、SOS団という北高サークルが中心となって進行します。
 団員は他に4人ですが、語り手のキョンだけが普通の男子高校生で、他はハルヒの願望通り、宇宙人(長門有希)と未来人(朝比奈みくる)と超能力者(古泉)から成ります。宇宙の進行を乱す潜在能力を秘めたハルヒを監視するために、それぞれの「組織」から遣わされたのです。
 キョンはその正体を打ち明けられています。現にハルヒの巨大な潜在能力のせいで、閉鎖空間に閉じ込められて透明巨人が暴れたり、夏休みの期間が回帰して終わりなき夏休みになったりします。そのたびに、宇宙人と未来人と超能力者の必死の修復作業で元に戻るのですが、ハルヒだけは気づいていません。退屈な学園生活が続いていると思い込んでうんざりしているのです。だから「憂鬱」とタイトルについているのです。

■10巻目ぐらいに現れる『劇場版涼宮ハルヒの消失』では、ある朝、キョンが登校すると、ハルヒの姿がないばかりか、誰もハルヒも古泉君も知らない、ということになっている所から始まります。
 上級のクラスにいる朝比奈みくるに会いに行っても、SOS団のことなど知らない、と言われる始末です。

 やがてハルヒと古泉君は、北高ではなく別の高校の生徒になっていたことが分かります。やはり二人とも、SOS団のことなど知らないというのです。

 最後の望みをかけて、キョンはSOS団の部室に向かいます。そこは元々文芸部の部室でしたが、唯一の部員だった長門有希もろとも、「元の世界」のハルヒが乗っ取って、SOS団の部室にした部屋だったのです。
 ドアをあけると、居ました。眼鏡をかけた長門有希が、いつもの通り本に読みふけっています。無口で非社交的で鬱なキャラもそのままに。
 やがて、キョンは大変なことに気づきます。
 元々、長門有希の正体は、銀河を統括する情報統合思念体のヒューマノイド型端末だったはずです。ところが今や、人間になっていることに気づいたのです。無感情なアンドロイドだったはずが、感情豊かで内気な文学少女になっているのです。そして、「文芸部入部届」という書類を恥ずかしそうにキョンに渡します‥‥

■元の宇宙人長門有希が残していった手がかりを辿って、キョンにも真相がつかめてきました。
 SOS団の騒がしい団長、ハルヒのいないこの世界は、長門有希の巨大な能力によって元の世界から分岐した時間流だったのです。
 でも、何のために任務に背いてまでそんなことをしたのでしょうか。
 元々、長門の能力は三人の中でもぬきんでていました。その能力によって世界の崩壊を防ぎキョンを守ってきたのです。けれどもキョンの関心は派手なハルヒや朝比奈みくるに向かい、無口で無表情の長門の働きは当然視され、存在も無視されてしまっていたのです。
 そこに、アンドロイド型端末だった筈の長門の感情が、自我が目覚めたのです。
 きっと長門有希は、ハルヒのいない世界で、キョンに恋してみたかったのでしょう。
 でも、キョンは、元の、ハルヒとSOS団の、てんやわんやの世界の方を選びました。元の世界の長門がキョンに選択肢として残していった鍵を使って。
 せっかく長門有希が人間の少女として生き始めた世界は、こうして消え去ったのです。

■やがて感動のラストシーンが来ます。
 元のアンドロイドに戻った長門と並んで、雪が舞い出す中で、キョンは「ゆき」と口走ります。これまで長門有希を、「長門」としか呼んで来なかったキョンがです。でも、続けて、「ゆきが降ってる」と言うのです。
 この場面で長門有希役の茅原実里によって歌われるエンディングソングを引用しておきます。有希の切ない想いそのままの歌詞ですね。「消える世界にもわたしの場所がある」なんて。インターネット上では、この場面で泣きましたという記事が少なからず検索できますが、同感です(なんだかアンデルセンの「人魚姫」を思わせる話だし)。

「優しい忘却」
望むことは何?
わたしが問い掛ける
なにもいらない 嘘ではなかった
消える世界にも
わたしの場所がある
それをしらない 自分でさえも
閉じ込めた意識は

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時を結び
願いを繰り返す
また会うまで 忘れないで
巡る日々の中
わたしに残るのは
記憶 それとも 忘却だろうか
やがて世界には
眠りが訪れて
ひとり ひとりの あしたに帰る
選ばれた未来を
見送る扉
願いが叶っても
忘れないで 忘れないで
消える世界にも
わたしの場所がある
それを知らない 自分でさえも
思い出すまでは…
(作詞:畑亜貴
作曲:伊藤真澄
編曲:虹音
歌詞原案:谷川流
歌:長門有希[茅原実里])
(『公式ガイドブック 涼宮ハルヒの消失』ニュータイプ編、角川書店、2010、pp.172-173)
:
■「コミュ障の現象学」から見た長門有希
 三浦さんのような分析哲学的アプローチとは別になりますが、私は長門有希という魅力的なキャラに、始めたばかりの「コミュ障の現象学的当事者研究」の視点から*、深甚なる興味を覚えました。
  *「コミュ障(人づきあいが苦手)の批判的ナラティヴ現象学」(渡辺恒夫著)という論文が、『質的心理学研究』(№18)に掲載予定です。2019年3月、新曜社より発売予定。
 ラスト近く、すべてが長門有希の暴走の結果だと知ったキョンは、こう独白します。
 記憶をたどって引用するとーー「なんで情報統合思念体ともあろうものが、長門にもっとちゃんとした設定をしてやらなかったんだよ。あんな無口で鬱な娘なんかでなくって、朝倉涼子(註:情報統合思念体反主流派が送り込んだヒューマノイド型端末)みたいに、社交的でクラスでも人気者にだって設定できたのに‥‥」(註1)
 グサリときました。どんなに長門有希が「ルックスはA-級」に描かれ、しかもオタクたちの間でハルヒもみくるも及ばない人気を誇っているからといって、「ふつう」の高校生のキョンからしたら、「ちゃんとした設定ではない」としか見えないなんて。
 また、朝比奈みくるの大人ヴァージョンが、美貌で有能な時間パトロールとしてしばしば現れるのですが、その彼女にもまた、長門は、「あのひとちょっと苦手なんですけど」と評されます。
 なぜ苦手かを解釈すると、長門はガールズトークができないからです。
 ガールズトークに限らず雑談の会話というものは、録音してテープ起こしてみると、ほとんど意味をなしていないことが分かるそうです。だから会話の機能は情報を伝達することではなく、絆を確かめ合うことにある、というのが最近の学説です。
 長門は3年前に地球に「舞い降りた」のだから、絆などあるわけありません。
 それならなぜ、キョンとの間にコミュニケーションが成り立つのかというと、彼女は今まで、身を挺してキョンを護って来ました。それが任務だからです。
 コミュ障の特徴として、他愛のない雑談はできないが、仕事の上の会話はしっかりできる、ということがあります。
 長門はいわば仕事を通してキョンとの間に絆を作ったのでしょう。
 でも、ハルヒのいる世界では、彼女にとってキョンとのそれ以上のコミュニケーションは、極めて困難です。コミュ障は、三人という組み合わせを特に苦手とするからです‥‥
■長門有希に未設定の社交性機能って何?
 色々、考察をならべてきましたが、同じようなインターフェイス用ヒューマノイド型端末である、朝倉涼子は違っています。
 設定が違うのです。
 ウィキペディアを読んでいて、続編(涼宮ハルヒの驚愕)の紹介で、長門には社交性機能が設定されていず、自分でも残念に思っているらしい、といった記載が目に留まりました。
 社交性機能っていったいなんでしょう。
 これは、私自身への問いかけでもあります。なぜなら私もまた、社交性機能未設定のままで生涯を終えることになりそうだから。現象学的に厳密に言えば、「社交性機能未設定の渡辺恒夫が私である世界はそのまま遠からず終了になる」のだから)。
 だから「コミュ障の現象学的当事者研究」を始めたのです。

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2018年8月18日 (土)

夢の現象学(148):教祖一代記を夢みてもう一つの現実を生きていた充実感が残ったの巻

■2018年8月1日。

 夢記録ノートから写す。ノートに日付がないが、見たのは7月下旬だったはず。
 カルト宗教(オウム真理教のような)の教祖の一代記を夢みた。富士山のような高山での修行。その頂上付近は大文字山の山頂を連想させる斜面となっていて、そこを歩いていた記憶。
 それ以外に思い出せることが何もないのに、目覚めた直後には、もう一つの現実を生きていたという、ずっしりした充実感があった。
■2018年8月17日(金)。
 夢の中では大学の開講日だった。開講日なのに時間割が分からず、自分の担当授業がどの教室になっているかも分からず、あせっていた(この種の夢はよく見る)。事務室の前の露台のような場所に時間割が並んで置いてあるという情報があったので(視覚的に見えた)、行こうとしていた。
 気がつくと私は、パジャマの上にガウンを羽織っただけの姿だった。家に引き返すか、間に合わないようならこのまま押し通すか、等と迷った。小野学部長の姿があった(ここから目覚めてから東邦大学だったと解釈したらしい)。
 私の教える科目は(心理学ではなく)哲学になっていた。初めての科目なので、死について話そうか、等と考えた。そのうち目が覚めた。
■最後の死について話す云々は、11月で沖縄である質的心理学会のシンポ「人文死生学宣言の誕生」で話すことを考えていることに関係がある。
 前回のブログにも書いたが、死は生に比べて無限に悪いという死の害の説は、生の日常性と死の非日常性の距離が無限であるところに由来している。
 対策としては、生の非日常化を図ることだーーと、ここまで前回のブログで書いた。
 最近考えていることは、
 死の非日常化には二つの途があります。
 1)同時代の全ての他者がゾンビであることに気づくこと。でも、これはあまり薦められません。なによりも難しいし、下手に気づいたら人間関係がうまくいかなくなる危険性がある。
 2)夢日記を付けること。これなら誰でもできるかもしれません。夢日記を続けているうちに、夢と夢とがおもったよりつながり合っていて、現実の生に劣らぬ実在性を秘めていることに気がつく可能性があります。こうして、現実世界も夢世界の一種に過ぎないことが実感されてくる。生が非日常化されるのです。
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2018年8月 8日 (水)

フッサール心理学(49):質的心理学会(沖縄)での「人文死生学シンポジウム」での企画趣旨案の巻

■今年(2018)の質的心理学会大会(沖縄県名護市、11月24日)で、「『人文死生学宣言』の誕生」という副題のシンポジウムを行うことが決まったが、私は話題提供を遠慮したので、代りに「企画趣旨」を限られた時間でいかに有効に語るかを考えている。


 順序としてはこうだ。
→まず自己紹介として、大会受付で展示販売中の『質的心理学研究』最新号に、「他者になる夢の現象学的解明ーーフッサール志向性論による主題分析」という論文を載せていることを紹介した後、次のように論理を進める。
→この論文は、現実では他者になれないのになぜ夢では他者になれるかを、フッサール現象学によって解明したものです。
→解明の結果、驚くべきことが判明しました。
→他者になる方法は、夢を見る以外に、もう一つあることが分かった。
→それは、
→私が死ぬことである。
→といったことが、『人文死生学宣言』の私が執筆した第4章「他者とは時間を異にする私なのか」に書いてあります。
■次に、死ぬことは生きることより無限に悪いという「死の害」の説について一言する。この説は、自然科学万能の風潮に追随し続けている現代英米哲学で流行っているらしいが。
→生よりも死の方が無限に悪いという感覚は、科学技術的合理性に貫かれた現代にあっては、生の日常性と死の非日常性の間の距離が無限となっている所に由来する。
→したがって生を非日常化することが、有効な「感性的」反駁となる。非日常性同士で、生と死の距離が縮まるから。
→生の非日常化は(私の場合)次のような道筋をたどる。
1)自己の唯一性の自覚(→他者のゾンビ化)。=非日常化!
2)それでも、自他の等根源性の要請を断念しない。
3)1+2→人間的世界経験の根源的パラドックスへの直面=非日常化!
4)パラドックス解決としての、「他者とは時間を異にする私」という死生観の展開
■最近、福島県の亡母の実家の叔母の葬式に行ってきた。
焼香から始まって出棺、焼場での骨拾い、斎場に戻っての酒宴と、伝統に則った式次第に参加して思ったことは、葬式仏教などと悪口を言われながらも、結構、生の非日常化に貢献しているのではないかということだった。
 葬儀のセレモニーは、確実に生を非日常化して死との距離を縮める。
 これは貴重な文化的伝統というべきだろう。
●●●新感覚のオープンアクセスジャーナル『こころの科学とエピステモロジー』は、創刊に向けて原稿募集中です。詳しくは下記サイト参照
エピステモロジー (épistémologie)」はフランス語圏では、科学的知の批判検討を意味します。心理学を始め、精神医学、認知科学、脳神経科学、人工知能など、こころの科学と総称される領域全般に対して、批判的検討を加えることを主目的とします。詳しくは上記サイトよりダウンロードできる『創刊準備号』巻頭の「エディトリアル」を参照してください。
原著論文、研究企画、翻訳(以上は査読あり)、ブックレビュー、映像メディア時評、学会・研究会参加印象記、その他随想など幅広いジャンルの投稿を期待しています。投稿は無料です。詳しくは上記サイト中「Call for Papers」の「投稿・執筆規定」をご覧ください。

2018年7月25日 (水)

フッサール心理学(48):アンドレ・ジッドの自我体験(?)

■サルトルは『ボードレール』の中でこう書いている。

‥‥誰でも幼年時代に突発的で、圧倒的な自意識の目覚めを経験する。ジードはそのことを『一粒の麦』で書いた。彼のあとではマリア・ル・アルドアン夫人が『黒い帆』で書いている。だが『ジャマイカ島の颱風』を書いたヒューズほどこのことを巧みに語った者はいない。‥‥(p.11)

  サルトルは、ヒューズの例しか具体的には引用していない。けれども、この記述を受けてSpiegelberg (1961)が、マリア・ル・アルドアンの例とヒューズの例を引用考察し、さらにコーンスタムが『子どもの自我体験』(金子書房、2016)の中で引用考察している。ところが、ジードの例は、サルトルが名を出しているだけで、誰も引用していない。

 今回、ジードの『一粒の麦もし死なずば』を改めて読み返して見て、サルトルを含めて誰も具体的に引用していないわけが分かった。自我体験であることが分かりにくいのだ。

 とにかく、該当すると思われる一節を、下記に書き出しておこう。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 数年後、父の死の直後のこと。つまり僕は十歳になっていたわけだ。舞台はまたしても朝の食事の食卓だ。ただし、今度は、母と僕とは差し向いの二人きり。その朝、僕は学校へ行ってきたのだった。何ごとがあったものか?何ごともなかったものらしい‥‥・。それなのになぜ僕は、急に泣きくずれて、母の膝に倒れ、すすり泣いたり、痙攣(ひきつけ)たりしたのだろうか。あの幼い従弟が死んだときとまったく同じな、あの説明しがたい苦悶を感じたものらしかった。とにかく、僕のうちにある見知らぬ海の特別な閘門が急に開きでもしたかのように、波が僕の心の中におびただしく流れこんでくるのだった。僕はさびしいというようむしろ恐ろしかった。だが、僕がすすり泣きながら絶望的にくり返しているつぎの言葉を、わずかに聞くだけの母に、どうしてこれを説明することができよう?
 「僕は皆と同じでないんだ!僕は皆と同じでないんだ」

 (アンドレ・ジッド『一粒の麦もし死なずば』(堀口大学/訳、新潮文庫)p.137)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 確かに、この最後の行の意味はわかりにくい。念のため原文をみると次のようになっている。
--Je ne suis pas pareil aux autres! Je ne suis pas pareil aux autres!
(André Gide: Si le grain ne meurt. Éditions Gallimard, 1955, p.133.
 これでは堀口大学以外に、訳しようがないと思われる。あるいは自我体験というより、独我論的体験が入った体験だったかもしれないが。
 ともあれ、Spiegelbergのように質問紙調査をやったわけではないが、サルトルは「事例」を3つあげている。事実上、自我体験研究の先駆者といえるのではないだろうか。
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エピステモロジー (épistémologie)」はフランス語圏では、科学的知の批判検討を意味します。心理学を始め、精神医学、認知科学、脳神経科学、人工知能など、こころの科学と総称される領域全般に対して、批判的検討を加えることを主目的とします。詳しくは上記サイトよりダウンロードできる『創刊準備号』巻頭の「エディトリアル」を参照してください。
原著論文、研究企画、翻訳(以上は査読あり)、ブックレビュー、映像メディア時評、学会・研究会参加印象記、その他随想など幅広いジャンルの投稿を期待しています。投稿は無料です。詳しくは上記サイト中「Call for Papers」の「投稿・執筆規定」をご覧ください。

2018年7月 4日 (水)

夢の現象学(147):夢を思い出そうとしているうちに一昨日の「フランス語圏発達心理学文献を原典で読む会」のことを思い出したの巻

■7月2日(月)。早朝、夢を見た。スケールの大きな物語が進行していたが、ほとんど思い出せない。なにやら着流し姿の江戸の侍がいたような憶えがある。侍は巨大な力を秘めているようだった。けれども、途中から「妥協」があったような。

 記憶の緒をたぐり寄せようとしているうちに、夢ではなく土曜日に早稲田であった、「フランス語圏発達心理学文献を原典で読む会」のことが思い出されてきた。
 その会での中心人物の加藤義信さんの配布資料「フランス語圏発達心理学をフランス語で学ぶ効用(と限界)」にあった、「今世紀初頭以来、日本の大学や研究機関で進行している事態は‥‥「制度化」と「国際化」の急速な進展として理解できる」という部分が、印象に残っている。
 「「制度化の進展とは?」
 ・多くの研究者が専門分化した共通の学会に組織され、
 ・共通の専門用語が教科書的に体系化され、それによっ「て互いのコミュニケーションが可能となり、
 ・問題意識とっ方法における研究パラダイムを他の研究者と共有して、
 ・そのパラダイムの範囲内での「累積科学」への貢献と見なされ得るデータを産出し、
 ・それを共通のフォーマットに則った論文にまとめて、
 ・専門の学術誌に発表することによってプライオリティを競い、
 ・そうした専門家集団を再生産する学位・資格制度が整備された体制。
 「国際化」の進展とは?
 ・こういう「制度化」が、英語を唯一の共用語としつつ地球規模で進むこと。」(加藤、2018、p.1)
 確かに、こういう風潮から見れば、加藤さんは自分でも言っているように、「辺境人」かもしれない。すると、私はどうなるのか。研究会冒頭、自己紹介を加藤さんの次にする破目になって、「加藤さんが辺境人なら自分は宿無しの放浪者だ」といったことを言ったのだったが。今から考えれば、自己規定としては「異世界人」とでも言っておけばよかったのだ。
■フランス中世文学に親しむの巻
 フランスついでだが、今日は図書館で『フランス中世文学集』の第2巻を借りだし、クレチャン・ド・トロワ作「荷車のランスロ」を(もちろん翻訳で)読み始めたが、めっぽう面白い。ランスロとは、英国版アーサー王物語に出てくるランスロットのこと。アーサー王物語の定本ともいえる、15世紀のマーロウ作「アーサー王の死」の最も主要な種本でもある。12世紀のクレチャン・ド・トロワの方は、ロマンス、つまり中世のロマン語で書かれた叙事詩の作者の中で最も有名な人物。いわば、吟遊詩人(トゥルヴァトーレ)の総元締めというところか。
 最近よく思うのだが、私の教養の原点は、10代に親しんだヨーロッパ近代文学にある。その中でも10代前半で特にお気に入りだったのが、ゲーテの「ミニヨンのうた」やノヴァーリスの「青い花」に代表されるロマン派の文学だった。そのロマン派の源流となった12世紀のロマンスの作者の中でも名前だけは憶えていた、クレチャン・ド・トロワの物語詩を、散文訳とはいえ手軽に読める日が来るとは思わなかった。
 まだまだ、読みたい物語、読まずに死んだら心残りだろう物語はいくらでもありそうだ。この本の中でも、同じ作者の聖杯物語が収められているし。
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2018年7月 3日 (火)

夢の現象学(146):夢3題(天文学の科学社会学/トイレの研究/巨大蛇が襲う)の巻

■2018年6月12日。夢を見た。天文学の科学社会学という講座を主催していた。白鳥座のデネブが云々といった中味が思い起こされる。

 そのうち、二つの提案を学生たちに提示したのだった。それは、(1)理学部天文学専攻の見学、(2)隣の、やや似たような傾向の、S氏がやっている講座との連携、であった。ところが反対する学生(男子)が二名ほどいた。(起きてから思い起こしても、顔は見覚えがない)。それでも、反対をものともせずに決行しよう、などと考えた(午前10時。世田谷のS駅近くの喫茶にて)。

  天文学の科学社会学に関しては、だいぶ前にそのような研究を読んで(ラトゥールだったかな)、こんなことをやるよりは天文学そのものをやった方が良かっただろうに、と率直な感想を抱いたことが思い出される。S氏は質的心理学会の幹部だが、科学社会学をやっているわけではない。よく分からぬ夢だった。
■2018年6月13日(水)。早朝4時ごろ。夢を見た。
 トイレの研究(?)をやっていた。C駅から私鉄のK駅のまでのガード下にショッピングモールが複数続いていて、一つずつトイレがあったが、そんな構造の建物にいた。
 一番奥まった建物のトイレが最も居心地がよさそうだった。
 その、4つ並んだ個室トイレの最も奥の部屋に住む工夫を、いろいろしていた気がする。(午前11時。喫茶とドールにて。)
■2018年6月23日(土)。早朝、スケールの大きい夢を見た。
 夢の認知科学のO氏が出てきて、何やらの研究集会に出てくれと言われたような、その逆に出てくれと云ったような、気がするが、どちらかはっきり思い出せない。そのうち、どこやらの大学か研究機関で飼育していた巨大蛇が逃げ出したという情報が入った(どうやって知ったのかハッキリしないが、情報として直接入ってきたのかもしれない)。
 これまた思い出せない理由で、巨大蛇は我々の研究グループを襲撃するらしいという。雑木林の生えた丘陵を越えて逃げる。同行者がいたかははっきりしないが、合流点には国際総合研究機構のKさん(女性)もいたような。
  川のほとりに出た。これで逃げ切ったと安堵していると、また、巨大蛇は川の近くに向かっているという情報が入った。ただし、蛇のターゲットは我々ではない別のグループらしい。が、とにかくまた逃げ出さなければならない。
 この辺で目が覚めた。
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2018年6月 9日 (土)

夢の現象学(145):拙著『夢の現象学・入門』のエピグラフに、よりふさわしかったボルヘスの詩の巻

■2018年6月8日。図書館で、『ボルヘス詩集』を何気なくめくっていると、「夢」という作品が目に留まった。一読して、これこそ、一昨年に出版した『夢の現象学・入門』のエピグラフにふさわしかったのに、と思った。

 ちなみに実際のエピグラフには、ホフマンスタールの「世界の秘密」から抜粋して使ったのだった。
 こんな具合だ。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
深い泉はよく知っている、
かつてはだれもが深く、おしだまり、
だれもがそれを知っていた。
深い泉はそれをよく知っている、
泉に身をかがめ、一人の旅人がそれをとらえ、
とらえてまたそれを失くした。
深い泉はよく知っている、
かつてはだれもが知っていた、
いまは夢が、輪をかいてふるえめぐるばかり。
――ホフマンスタール「世界の秘密」(一八九四)より、一部を改変・省略して引用。
  (『夢の現象学・入門』渡辺恒夫著、講談社選書メチエ、2016、p.2)
;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;
 この引用で気になっていたのは、原詩の全12連のうち3連しか引用していないし、おまけに最後の行に出てくる「夢」と、本のテーマである「夢」とでは意味がずれていることだった。
 その点、ボルヘスの詩は、本の内容にもふさわしい。
 以下に全体を引用する。
■ボルヘス作「夢」
 そこここの時計が惜しげもなく
 時を振る舞うころ、
 わたしはウリッセースの舟子らを遥かに越えて、
 人間の記憶の及ばない、
 眠りの地へと赴くだろう。
 そしてその海中に没した土から、いまだに謎の解けない遺物を拾い上げる。
 素朴な植物学の草花、
 いかにも雑多な動物、
 死者たちとの対話、
 実は仮面である顔、
 非常に古い言語に属する言葉、
 白昼がわれわれに与えるものとは
 比べられない、たまさかの恐怖。
 私は万人であるか何者でもないかであり、
 それと知らずにわたしである他者であり、あの別の夢、
 わたしの目覚めを見た者であるのだろう。彼はそれを、
 諦めの微笑を浮かべながら裁いていくのだ。
   (『ボルヘス詩集』 鼓直/訳編、思潮社、1998、p.90)
;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;
 ところがこの詩集には、下に引用したように、更にいっそうエピグラフ向きだった作品がある。いまからェピグラフを差し替えるわけにもいかないので、次に出す本には、ぜひボルヘスから拝借したいものだ。といっても、目下計画しているコミュ障本は、ボルヘス向きでもないのだが。
:
■ボルヘス作「デカルト」
 わたしは地上で唯一の人間である。おそらく、地上も人間も存在しないのだろう。
 おそらく、ある神が私を欺いているのだろう。
 おそらく、ある神が罰として時を、あの大きな幻影をわたしに与えたのだ。
 わたしは月を夢みる。月を捉えるわたしの眼を夢みる。
 わたしは最初の日の夕べと朝を夢みた。
 わたしはカルタゴとカルタゴを劫略した軍団を夢みた。
 わたしはルーカーヌス〔註 ボルヘスの友人〕を夢みた。
 わたしはゴルゴダの丘とローマの十字架を夢みた。
 わたしは幾何学を夢みた。
 わたしは点と線、平面と体積を夢みた。
 わたしは黄と青と赤を夢みた。
 わたしは虚弱な少年時代を夢みた。
 わたしは地図と王国、あの夜明けの決闘を夢みた。
 わたしは想像を絶する苦痛を夢みた。
 わたしは剣を夢みた。
 わたしはボヘミアのエリザベートを夢みた。
 わたしは疑念と確信を夢みた。
 わたしは昨日という日を夢みた。
 おそらく、わたしに昨日はなく、おそらく、わたしはまだ生まれていない。
 おそらく、わたしは夢みたと夢みている。
 わたしは少し寒気がする。少し不安である。
 ダニューブ河に夜が訪れている。
 わたしはデカルトを、彼の両親の信頼を夢み続けることにしよう。
           (『ボルヘス詩集』 鼓直/訳編、思潮社、1998、p.115-116)
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2018年6月 8日 (金)

夢の現象学(144):核攻撃を受けた夢から覚めた後も10秒程本当だと思い続けたの巻/三連続続きの夢を見たの巻

■2018年5月19日朝。会議室のような所にいた。何かの研究会らしかった。と、なにやら、窓の外を見て誰かのアーッという叫びが上がった。

 つられて窓外を見ると、東京の、高層ビルから眺望した風景が広がっていたが、その地平のビルの一画に、黒い煙がモクモクと上がっていた。たちまちキノコ雲になった。
 核攻撃だ。テロかもしれない。
 キノコ雲はどんどん広がってくる。
 窓の外は見ない方がいい。目を焼かれる。カーテンも下すべきか。この研究会には科学技術に詳しい人もいるから、アドヴァイスが受けられたらいいい‥‥などと考えた。
 目が覚めても、半睡状態で、これからは家族四人でいよう、などと(私にしては殊勝な)ことを思ったような。(朝6時59分)。
 目覚めてから暫くの間(といっても十数秒だろうが)、核爆発は本当だという、「夢世界信憑」が残っていたような。
■6月2日(土)。早朝、目覚めてはまた眠りして、三連続続きの夢を見た。
 新しく始まった‥‥のものはない。そのうち、焦りが高まって、眼が覚めた。
 また眠りに落ちて、夢の続きを見た。今度は首尾よく‥‥その後、コピー室にいたような映像が思い出せるがはっきりしない。はっきりしていることは、夢の中の焦りがまたしても高まって、目を醒ましたことだった。
 また眠りに落ち、夢の続きをまた見た。今度はほとんど思い出せない。きっと前の二つの夢のように、夢が続いているうちに急速に覚醒して記憶が鮮明に残る、ということがなかったからだろう。土曜日のことで8時15分にかけていたアラームが鳴るまで、眠ってしまったのだった。
 三連続つづきの夢を見たのは、思い出せる限り初めてだ。‥‥(午前10時半)。
*註 「‥‥」など公開をはばかる部分は、「裏ブログ記事」に回しておいた。
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