心理学

2018年11月13日 (火)

夢の現象学(151):またしてもハルヒ、というか長門物語に関係ある夢の巻

■2018年11月12日。

 夢を見た。スマホに打ち込もうとした時にはすでに、きわめてぼんやりしてしまっていた。
それでも、メモには10行ほど残っているので、それを手掛かりにして再構成してみる。
 「長門ss一人称語り」
とまず、メモにはある。
 これは、昨夜遅くまで、涼宮ハルヒシリーズのキャラで情報統合思念体によって地上に送り込まれた対人接触用人型端末である長門有希の一人称語りの形式をとった二次創作(=ss)を、インターネット上で読みふけっていたことに関係がある。
 つまり、長門ss一人称語りを読んでいたという夢だったのだ。次に、
 「兄が一人暮らし」
 後で出てくるように、この夢の中では兄がマンションで一人暮らしをしていることになっている(事実ではない)。これは、長門がマンションに一人暮らしをしていることと符合する。
 「母がオカズを持っていくのに同行」
 昨夜読みふけった長門ssでは、長門有希は雪の舞う日に無人の公園に出現して以来、北高に入学してハルヒやキョンたちと文芸部室でまみえるまでの3年間を、マンションの一室でどうやって過ごしていたかが、長門の一人称で語られている。数か月早く送られて同じマンションの別のフロアに住んでいた朝倉涼子から「人間の食べ物」を振る舞われ、料理を習ったりしていたのだ:。関係がありそうではないか。
 ちなみに母は故人。
  「高知仁井田あたりの夢でよく出てくる道
 バスを降りて母が道なき道を指し示す。「ここから行くと近い」と言いながら」
 高知大学に勤めていた頃、仁井田という海に近い辺鄙な地にある公務員宿舎に住んでいた。そのあたりの地形が時々、ゆがめられた形で夢に出てくる。
 「兄のマンションに着く。
 その部屋で、母と、持参のお赤飯を食べる。
 極めてぼんやりした夢」
■と、メモ書きの最後に書いたように、ほんとにぼんやりした夢で、ブログに載せる価値もないかもしれない。
 けれども、長門の物語(ss:二次創作)をインターネット上で読んでいたという夢の設定が珍しいから、載せておく。
 寝るまえに読みふけっていたという長門ssとは、「機械知性たちの輪舞曲」(作、輪舞の人)というもので、2007年から連載が続いている、驚くべき力作だ。
 第一回の「わたしが生まれた日」は、『涼宮ハルヒの憤慨』に出てきた、文芸部機関誌掲載の長門の幻想ホラー「無題」(鬼気迫る傑作!)を下敷きに、雪の舞う公園で生み出され、自分に「ゆき」と名づけることで情報統合思念体から分離して個体性を獲得し、住居として指定されていた高級マンションの7階にたどり着くまでの彼女の心象風景を描き出している。以降、連載は20回を超える。3年後の北高入学の日のクラスでの自己紹介のトンデモぶり。ただ一人の文芸部員として窓辺で読書しながらハルヒとキョンを待つ日々(画像は文芸部室で読書する長門有希)。朝倉涼子との不和と戦闘。SOS団の活動の中で目覚める感情、それがキョンへの恋心とハルヒへの嫉妬心の芽生えとなってゆき、12月18日の世界改変へと抗いようもなく流されてゆく。

Nagatoyuki_bungeibu

 まさに私の読みたかった、長門一人称物語だ。

 彼女の対人コミュニケーション機能未設定の意義についても同感した。できあいの社交性のコピーではなく、ゼロから自力で次第しだいに開発することこそが、他の同様の人型端末には無い、自分に与えられた唯一独自の使命なのだった。
 ここで、来年3月に『質的心理学研究』に掲載予定の拙論(「コミュ障の批判的ナラティヴ現象学」)に引き付けていうと
 <この項未完>
■付記 ハルヒシリーズファンにそっと秘密ネタを教えます‥‥
 下記の『人文死生学宣言』という本の執筆陣には、「消失世界」で涼宮ハルヒと古泉君が進学した高校のモデルとなった学校の先生が加わっています。
 今度会った時にでも、2003年ごろに涼宮ハルヒと古泉一樹という生徒が在籍していなかったか、尋ねてみるつもりです。
 もし在籍していたら、この現実世界とは「消失世界」であり、長門有希は世界を改変したのではなく元に戻したのであり、ハルヒの力によって宇宙人製有機アンドロイドにされていた自分を、元の人間に戻したのだという、「長門戻った説」(三浦、2018、p.161)が正しいことになるのです!?
●●●『人文死生学宣言:私の死の謎』(渡辺恒夫・三浦俊彦・新山喜嗣/編、春秋社、2017)好評発売中●●●
 
 

2018年11月10日 (土)

フッサール心理学(53):長門有希は輪廻転生の夢を見るか

■見えてきた!長門有希の避けられない運命......

 ブログの5つ前の記事「フッサール心理学(50)」で私は、こう書きました。

「ロボットのようなコミュ障状態から始めて、キョンら仲間たちとの交流を通じて感情を獲得し、しだいに成熟した人格を形成してゆくという、生きた実験室が長門有希なのです。そして、もしこの実験が成功すれば、それが情報統合思念体にとって、新たなる自律進化への可能性を拓くことになるのではないでしょうか。」

 ところが、よく考えれば、ここには長門の悲壮な運命が暗示されているように思われます。それに気づいたのは、『涼宮ハルヒの消失 公式ガイドブック』中の演出家座談会で、次のくだりを読んだ時の事です。

-------------------------
石原(立也) 今回の『消失』は、新しい長門が生まれる話だと思うんです。長門が成長していくことで、普通の人間に近付いていく。もしかしたら、進化の袋小路にぶつかった情報統合思念体が探している進化の可能性って、人間になることじゃないかな。まあ、原作者の谷川流さんに確認していない、僕の想像ですが。

高雄(統子) 石原さんがおっしゃったように、長門は情報統合思念体のヒューマノイド・インターフェースだから永続性があるはずなんです。でも、ただの女の子になることは、その永続性のサイクルから抜け出すという意味でもあるわけで、彼女が死を獲得するということだと思うんです。

石原  すごいことを言うね。(p.109)
----------------------------

 そう。長門は死を獲得する。でも、不死のはずのヒューマノイド・インターフェースが本当にただの女の子になったかどうかを自他ともに確認するには、実際に死ぬことしかないのではないでしょうか。ここで私はどうしても、キョンとハルヒの成長物語という幹(=メインテーマ)に絡み付いたアンドロイドの自我の目覚めというサブテーマの結末は、彼女の死しかありえないと思われてくるのです。

 長門よ、キミにハッピーエンドは似合わない。

 想像は容易です。長門はキョンとハルヒを、敵性宇宙人九曜の魔手から守って、自己犠牲的な死を遂げるのです。それによって人間になったことの証しを立てるのです(画像は敵性宇宙人九曜の攻撃で病に倒れた長門有希。『涼宮ハルヒの驚愕(前)』(角川書店、2010、p.17)より)。

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 でも、それでは自律進化は始まりません。進化は遺伝子を残さないことには生じません。しかも、彼女が「色のない世界で見つけた You are star」(長門有希キャラソン『雪、無音、窓辺にて』)とまで歌い上げたキョン以外に愛の相手はありえなかったのです。ところが、キョン(=王子様)の心はすでにハルヒ(=人間の王女様)のものでした。元アンドロイドではかないっこなかったのです。

 このジレンマを、けれども、銀河を統括する情報統合思念体は、もうひとつの方法で打開します。そう、生物学的に個体が滅んで遺伝子を残すだけが自律進化の手段ではありません。もう一つの手段があります。それは‥‥

 輪廻転生することです。

●<とりあえずパソコンを閉じて寝ます。この巻続く 乞う、ご期待!>●

 

■付記 ハルヒシリーズファンにそっと秘密ネタを教えます‥‥

 下記の『人文死生学宣言』という本の執筆陣には、「消失世界」で涼宮ハルヒと古泉君が進学した高校のモデルとなった学校の先生が加わっています。
 今度会った時にでも、2003年ごろに涼宮ハルヒと古泉一樹という生徒が在籍していなかったか、尋ねてみるつもりです。
 もし在籍していたら、この現実世界とは「消失世界」であり、長門有希は世界を改変したのではなく元に戻したのであり、ハルヒの力によって宇宙人製有機アンドロイドにされていた自分を、元の人間に戻したのだという、「長門戻った説」(三浦、2018、p.161)が正しいことになるのです!?
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2018年11月 9日 (金)

フッサール心理学(52):人文死生学研究会(番外編)のお知らせ

■■人文死生学研究会(番外編)として、以下のシンポジウムを開催します。

日本質的心理学会第15回大会(沖縄、名桜大学、2018年11月24日(土)http://www.shitsushin15.jp/
会員企画シンポジウム(15:45~17:45 講義棟110)【精神医学と現象学的心理学から死と他者の形而上学へ(第2報):『人文死生学宣言』の誕生】
【企画代表者】渡辺恒夫(東邦大学)
【企画者】小島康次(札幌保健医療大学)・浦田悠(大阪大学)
【話題提供者】新山喜嗣(秋田大学医学部)・三浦俊彦(東京大学文学部)・浦田悠
【指定討論者】小島康次・やまだようこ(立命館大学)
【企画趣旨】
3年前のシンポジウムでは、死にゆく他者を支援する技術ではない一人称的死生観を確立する必要を唱え、科学的唯物論か伝統的宗教的二元論以外により洗練された形而上学的な死生観があるのではないかという問題提起をした。その後この企画は、『人文死生学宣言』(渡辺・三浦・新山編、春秋社、2017)として形を成したので、今回はこの書が本学会会員にとってどのような意味があるかを、編者が一堂に会する場で論じあう。まず、この書の編者らの死生観が、1)いかなる体験もしくは直観に基づくか。2)それは普遍化できるものか。3)死は生に比べて無限に悪いという現代における「死の害」論に対してどう答えるか。4)対人支援従事者を含む本学会員に対するアドヴァイスは可能か。以上に編者として答えるべく試みる。さらに、死生心理学の立場からも、浦田がこれらについて論評する。指定討論は、新山を渡辺に紹介してこの書成立の陰の功労者となった発達心理学の小島と、死のイメージの調査研究を行っている質的心理学のやまだが担当する。
 詳しくは、人文死生学研究会HP
 をご参照ください。
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■付記 涼宮ハルヒシリーズのファンに秘密ネタを教えます‥‥
・上記シンポジウム話題提供者であり、『人文死生学宣言』の共編者である三浦俊彦氏は、『エンドレスエイトの驚愕:ハルヒ@人間原理』(春秋社、2018)の著者でもあります。
・また、この『人文死生学宣言』の執筆陣には、「消失世界」で涼宮ハルヒと古泉君が進学した高校のモデルとなった学校の先生も加わっています。
 今度会った時にでも、2003年ごろに涼宮ハルヒと古泉一樹という生徒が在籍していなかったか、尋ねてみるつもりです。
 もし在籍していたら、この現実世界とは「消失世界」であり、長門有希は世界を改変したのではなく元に戻したのであり、ハルヒの力によって宇宙人製有機アンドロイドにされていた自分を、元の人間に戻したのだという、「長門戻った説」(三浦、2018、p.161)が正しいことになるのです!?
●●●『人文死生学宣言:私の死の謎』(渡辺恒夫・三浦俊彦・新山喜嗣/編、春秋社、2017)好評発売中●●●

2018年10月30日 (火)

夢の現象学(150):ハルヒワールドに何やら関係ある夢を見たの巻

■2018年10月28日(日)
 夢を見たが、メモしようと思った時点ですでにぼんやりしてしまっていたので、とりあえず、ぼやけたままに以下のようにメモしておいた。

 ハルヒ 二択の一
 K(氏名) バイオ実験 黒地に白い字
 高知大正門 自転車(or車を運転か?)
 ハルヒシリーズ第3期
 ハルヒワールドが背景になっているようだった。
 二択の一というのは、『涼宮ハルヒの消失』に出てくるのだが、主人公のキョンと呼ばれる男子高校生が、ハルヒが消失して代わりに人間の少女になった長門有希との平穏な「改変世界」を選ぶか、それとも元の、銀河を統括する情報統合思念体の対有機生命体コンタクト用ヒューマノイド型インターフェース(笑)であった長門と共に、ハルヒが無意識に生み出す超常現象の解決のために奔走するてんやわんやの「元の世界」を選ぶかの、二者択一を迫られるシーンに関係していたような気がする。
  次の黒地に白い字というのも、同じ映画に出てくるシーンで、元の世界の長門が、本に挟んだ栞の裏側に、改変世界からの緊急脱出プログラムを入手する方法を書いておいた、それをキョンが読む場面を思い出させる。
 次に、なにやらバイオ実験の現場に立ち会っていたような。元の大学の同僚でバイオの専門家のK教授もいたような。
 場面が跳んだのか、バイオ実験を(K教授と私が数年前まで在籍していた東邦大ではなく)、高知大でやっていることになっていたのか、高知大正門の光景が出てきた。(今まで何度も夢に出てきた)そのだだっ広い近辺を、自転車か車を運転して走っていた。
 最後の、ハルヒシリーズ第三期というのは、アニメではこのシリーズは第二期までしか出ていないが、『消失』以後の原作は続いていて、アニメ版第三期への期待がネット世界にあるので、それに影響されたのだろう。
 あるいは、この夢自体が、ハルヒシリーズ第三期の一部、ということかもしれない(画像は西宮市立中央図書館でのキョンと長門有希)。

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■付記 ハルヒシリーズファンにそっと秘密ネタを教えます‥‥
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 もし在籍していたら、この現実世界とは「消失世界」であり、長門有希は世界を改変したのではなく元に戻したのであり、ハルヒの力によって宇宙人製有機アンドロイドにされていた自分を、元の人間に戻したのだという、「長門戻った説」(三浦、2018、p.161)が正しいことになるのです!?
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2018年10月20日 (土)

フッサール心理学(51):涼宮ハルヒは自我体験の夢を見たか

■涼宮ハルヒは自我体験をしたか?

ハルヒワールドのことを考えながら歩いていると、擦れ違う高校生の集団の中にもふつうにSOS団の面々がまじっているような錯覚に襲われる今日この頃です。
 などというと、それっていつの時代のこと?なんて突っ込みが入るかもしれません。でも、先日三浦(俊彦)さんからの連絡で、原作ハルヒシリーズに続編が、7年ぶりで出ることになったことを知りました。↓

https://mainichi.jp/articles/20180925/dyo/00m/200/005000c

「ザ・スニーカーLEGEND発売日は10/23。(あさってのことじゃないか!) 

 だからハルヒネタも、もうすぐ再びアップトゥデートなトピックスになるのです。
 さて、『涼宮ハルヒの憂鬱』のDVDシリーズを見ていて4巻目か5巻目で、不意打ちを食らって仰天したエピソードがあります。
 ハルヒが珍しく内省的になって小学6年の時の思い出を語るのですが、野球場に行って余りの人の多さに驚き、自分が今まで何か特別の存在だと思っていたという思い込みを覆され、それ以来世の中が面白くなくなってしまったというのです。
 この回想に私は、自我体験っぽいところを感じました。
 そもそも私にハルヒシリーズを薦めてくれた三浦さんの近著『エンドレスエイトの驚愕:ハルヒ@人間原理を考える』(春秋社、2018)を読んでいて、このエピソードを引用しつつ、自我体験に絡めて考察しているくだりがあったので、まず紹介しておきます。
 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 「私は野球なんかに興味なかったけど、着いて驚いた‥‥見渡す限り人だらけなのよ。
‥‥私なんてあの球場にいた人ごみの中のたった一人でしかなくて、あれだけたくさんに思えた球場の人たちも、実は一掴みでしかないんだってね。
 それまで私は、自分がどこか特別な人間のように思っていた。‥‥でも、そうじゃないんだってその時気づいた‥‥
 私が世界で一番楽しいと思っているクラスの出来事も、こんなの日本のどの学校でもありふれたものでしかないんだ。日本全国のすべての人間から見たら、普通の出来事でしかない。そう気づいたとき、私は急に私の周りの世界が色褪せたみたいに感じた。‥‥途端に何もかもがつまらなくなった。そして、世の中にこれだけの人がいたら、その中にはちっとも普通じゃなくて面白い人生を送っている人もいるんだ。そうに違いないと思ったの。それが私じゃないのは何故?‥‥」
 ‥‥
 ハルヒのこの「覚醒」は、発達心理学でいう「自我体験」の反転型である。自我体験では、「たくさんいる人間の中でなぜこの人間だけが私なんだろう」‥‥というふうに、「私の特殊性」「私の一回性」が不思議感をもって体験される(渡辺 2009、コーンスタム 2017、天谷 2011)。自意識の覚醒の一形態と言えるだろう。ハルヒの体験では、逆に「たくさんいる人間の中でなぜこの私は特別でないんだろう」という「私の平凡性」が不満のタネである。これは自我体験の文献に明確な報告のある症例ではないようだが、自意識の覚醒の一種には違いない。(同書、pp80-81)
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■ハルヒの体験に似たオランダ人女性の体験例
 拙著と拙訳書も参考文献に挙がっているのは光栄ですが、拙訳『子どもの自我体験』の方にオランダ人女性の、見かけ上似ている事例があるので、まずお目にかけます。
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【およそ八歳 他の場所にも人が、物凄く大勢の人がいた】
私がほぼ八歳の頃のことでした。おばあちゃん・おじいちゃんの家に滞在した帰りのこと。父と母と妹と私で車に乗って家路についていました。夕方で外はすでに暗くなっていました。私はうとうとしながら、ときおり車窓から外を眺めていました。‥‥車窓の外にたくさんの灯が見えた時のことでした。最初私は、街灯かと思ったのですが、数が多すぎました。私は両親に、どうしてあんなに灯がいっぱいあるのか尋ねました。あれは家々の(高層住宅の?)灯で、人々がそこに住んでいるのだ、という答が返って来ました。私は大きな衝撃を受けました。だって、そんなことってあるかしら。その瞬間まで、私の世界は、ヘーネマイデン村と、おじいちゃんおばあちゃんの住む小さな地域に限られていたのですから。もっともっとずっと沢山あったのだ!このことは私には脅威に感じられもしましたが、同時に好奇心を掻き立てられることでもありました。(コーンスタム著『子どもの自我体験』渡辺恒夫・高石恭子(訳)、金子書房、2014、pp.162-163)
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 ハルヒ事例とこのオランダ人女性の事例を改めて見比べると、やはりオランダ女性事例は自我体験未満であると分かります。
 参考までに、私が自我体験調査のために作成して使用していた、自我体験の定義と判定基準を掲げます。
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表 自我体験の定義と判定基準(渡辺恒夫『自我体験と独我論的体験』北大路書房、2009、p,95、表4-2より抜粋)
・自我体験の定義(def):なぜ私は私なのかという問いを中心に,それまでの自己の自明性が疑問視される体験,および,この疑問に解決を与えようとする思索の試みであって,自己の独自性・唯一性の強い意識を伴うこともある.
・判定基準:①を含む2つ以上の基準を満たしていること。基準②以下の完全詳細は第3章参照のこと。
①自己が何らかの形で主題となっていること。
②突発性 普段の生活とは連続しない特殊なエピソードとして回顧されていること。具体的には「ふと」「突然」「瞬間」などの表現によって,その体験が生じたときの「唐突さ」や「脈絡のなさ」が記述されていること。……
③違和感 何か理解しがたいことが生じている,あるいは,その体験が普通でない,という独特の感じが伴うこと。……
④孤立と隔絶 自分という存在が,全ての他者,さらには世界全体と対置され,自己の孤立性や例外性が強く意識されていること。……
⑤自己の分離 自分という存在が2つに分離して感じられたり考えられたりしていること。……なおこの基準の適用に際しては,定義に基づき,それまでの自己の自明性に対する違和や懐疑が認められるかどうかをチェックした。……
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 この定義・判定基準に照らすと、オランダ女性事例は、判定基準①「自己が何らかの形で主題となっていること」を充たさないので自我体験といえないことになり、『子どもの自我体験』の中の事例として収録されたのは不適当ということになります。自己の自明性が揺らいだわけでもないし、体験自体、常識的に言って理解できなくはないのですから。
 これに対してハルヒの体験は、何となく常識では理解しがたいところがあります。「自分がどこか特別な人間のように思っていた」にしても、「それが私じゃないのは何故?‥‥」にしても、そんな風に考える子どもが、そこらにいるものでしょうか。
 にもかかわらずハルヒ体験を自我体験に入れるのに躊躇するのは、「なぜ私は私なのか」という問いが見られないからです。
■ハルヒ事例・原自我体験・独我論的体験

 ここで、「それまで私は、自分がどこか特別な人間のように思っていた。‥‥でも、そうじゃないんだってその時気づいた」というハルヒの体験の中核をもう一度振り返ってみます。
 自分を特別な人間のように思っていたのは、主観的世界が、自分という唯一の視点を中心として同心円状に拡がっている世界だからです。ところが、何万と言う群集を目の当たりにして、その中では自分が大勢の人間たちの間の一人に過ぎないという客観的世界を発見したのです。
 自分がオンリーワン(唯一者)である主観的世界とワンノブゼム(多数者の一例)である客観的世界の矛盾の意識こそ、ハルヒの体験の驚きの核心なのです。
 そして、この主観的世界と客観的世界の矛盾の意識こそは、自我体験のさらに根源にある、原・自我体験ともいうべき体験なのです。
 この矛盾から、オンリーワンである自分がなぜワンノブゼムの一例に過ぎない特定の人間に結びついているのかという疑問、「たくさんいる人間の中でなぜこの人間だけが私なんだろう」という自我体験の問いが、派生します。
 けれども、原・自我体験から派生するもう一つの体験があります。
 それが、独我論的体験です(註1)
 独我論的体験では、「ワンノブゼムの一例に過ぎない特定の人間がオンリーワンである自分である理由は、この特定の人間が特別だからだ」と考えます。たくさんいる人間の中でこの人間だけが私である理由は、この人間が、「事実」特別だからなのです。
 独我論と言えばふつう、自分以外の他人が意識無きゾンビだという世界観を意味します。
 けれども私は、自我体験・独我論的体験の調査をしていくうちに、心理学的な意味での独我論的体験に独自の体験構造は、他者に意識がないと思う処にあるのではないと気づいたのです。
 すべての他者に意識がない世界でなら自分にだけ唯一、「意識」がある。すべての他者に意識がある世界でなら自分にだけ唯一、意識だけではなく「超意識」がある‥‥というように、すべての他者とは一段レベルの高い意識を、自分一人だけに設定するという、オンリーワン(自己の唯一性)の自覚にこそ、独我論的体験の本質があるのです(拙著『フッサール心理学宣言』講談社、2013)。
 従って、イエス・キリストのように、無時間的な唯一神が時間的世界に人間として生誕したという化身教義の世界観もまた、独我論的体験として解しうるのです。誰にでもある「意識」に加えて、自分には唯一神であるという「超意識」がある、とイエスが自覚していたらの話ですが。独我論的体験という語がふさわしくないというのであれば、「自己の唯一性体験」と言い換えてもいいです(註2)
 ハルヒもまた、他人はゾンビだなんて考えたことすらないでしょう。けれども、「自分がどこか特別な人間のように思っていた」という幼少期の主観的世界の思い込みが覆されてもなお、「それが私じゃないのは何故?」と新たに執拗に問いかけるところに、容易に覆されない自己の唯一性(オンリーワン)の根深い自覚が潜んでいるように思うのです。
 
註1 独我論的体験にも判定基準が用意してあります。
独我論的体験の判定基準(渡辺、2009、p.120, 表5-1より抜粋)
下記基準中、①④を含む2つ以上の基準を満たしていること。
①自己が何らかの形で主題となっていること。
②突発性 普段の生活とは連続しない特殊なエピソードとして回顧されていること。具体的には「ふと」「突然」「瞬間」などの表現によって,その体験が生じたときの「唐突さ」や「脈絡のなさ」が記述されていること。
③違和感 何か理解しがたいことが生じている,あるいは,その体験が普通でない,という独特の感じが伴うこと。
④孤立と隔絶 自分という存在が,全ての他者,さらには世界全体と対置され,自己の孤立性や例外性が強く意識されていること。
註2 そのように考えれば、ハルヒシリーズで、古泉君ら超能力者の機関が、世界が3年前にハルヒによって創造された故に、ハルヒを神とみなしていることとも、付合するのです。創造神は世界の外部にいなければならないわけではありません。化身教義によれば、永遠の唯一神だって、人として生まれて世界の内部で人として死ぬことがありうるのですから。

<次回予告 自我体験から出発して6歳にして独自の化身教義を創出した「事例エミリー」(ヒューズ『ジャマイカの烈風』)と、ハルヒ事例の比較考察を行う予定です!>
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2018年10月 5日 (金)

夢の現象学(149):「現実世界での過去の夢」が「夢世界での現実の過去」になるの巻/大聖堂様式の三越のファサードで重量を支えるスフィンクスが立ち上がるの巻

■2018年9月22日(土)。早朝。(11月下旬のはずの)質的心理学会沖縄大会に参加していた。なぜか一家4人揃っていた。

 そこは大きな日本旅館のホールのようなところだった(過去の夢で見覚えがあったような)。入場してくる顔見知りに挨拶をしていたが、「なぜかみんな精神科医だ」と思った。私の企画したシンポジウムのタイトルに「精神医学と現象学的心理学から見た‥‥」という文句がはいっていたからだろうか。同じシンポジストの新山さん(精神科医)もいたような。
 前後がはっきりしないが、やはり精神科医で、夢の中では知り合っていることになっている人物に挨拶された。
 名前がなかなか出てこない。
 それでも、頑張って何とか思い出して、「安田先生‥‥」とか言った。スピリチュアル系の研究会が、東海地方の山間の合宿形式であった時に見た顔だ(目覚めてからは、見知らぬ顔だと思った。研究会合宿というのも、「夢世界の中の現実の過去」にあったことになっているが、現実世界から見たら過去の夢のことだ)。
 そのあと、私がいる一画の群では、40年前に超心理学会で知り合ったやはり精神科医の長崎鋼典先生(故人)がいて、別の群の、やはり精神科医の誰かと引き合わせているところだった。その誰かが「安田先生」だったかもしれない。
 その後、家族が席を占めているテーブルに行き、長女と何やら出された料理の中の食べ物について話していた。後は思い出せない。
 (午前十時半。図書館側の喫茶にて)。
■2018年10月5日。京都にいた。人生の最終段階を迎え、京都で有料老人ホームに入っていたのだった。
 ホームは大部屋で、入居者同士が大勢で雑魚寝をするのだった。(かつて高知大に勤めていた頃によく利用していた宇高連絡船や、高知大阪南港間のフェリーの船室に似ていた)。そこで私は、寝言か譫言に見せかけて自分の死生観を、つまり遍在転生観を語ってやろうか、などと思っていた。
 次に憶えている場面では、ホームから外出して京都の町を散策していた。すると、右手に(地理的に北白川あたりだったと目覚めてから思ったが)、デパートが見えてきた。三越だった。現実の三越とは無関係の、ノートルダム大聖堂のような形をしたビルだった。建物のファサードの下部には、牛だか獅子だかの巨像が、スフィンクスのように蹲って建物を支えていた。
 さらに足を伸ばすと(地理的に下賀茂の辺りだったと目覚めてから思ったが)、やはり右手にまた三越があった。ほぼ同じ様式の建築だった(この辺で、三越1から三越2まで冬の夜になったら明かりに照らされて‥‥歩くのもいいな等と、ファイナルステージにそぐわないことを考えていた)。
 ただ一つ、違ったところがあった。ファサードの下部に蹲っていた牛頭スフィンクス巨像が、ここでは立ち上がっているのだった。
 私は(誰かはっきりしない)連れに、「あれ、このスフィンクスは、がんばって立ち上がってるよ」と言った。
 記憶では前の三越1でと同じく、この三越2でも、蹲った姿勢で巨大な建築を支えていたはずなのに。もしほんとうに、「がんばって」立ち上がったのだったら、超常現象じゃないか‥‥などと、考えたか連れに話したかした。
 そのうち目が覚めた。
■人生のファイナルステージという設定は、別件で2年ばかり抗ホルモン療法で治療を続けている上に、今週初めの病院の検査でポリープ摘出術を勧められたりして、いよいよその時期が近いなと実感したことが下敷きになっているのだろう。
 老人ホーム云々は、亡母を東京から同じ市内の老人ホームに入れて、訪問するごとに散策に連れ出した経験がもとになっているようだ。小奇麗なホームで、自分もその時になったら入れれば、などと思っていた。それも10年前のことになってしまったが。
 スフィンクスが立ちあがっていたというのは、故・横山光輝作の名作『バビル二世』の続きという設定の『バビル二世リターナー』というマンガで、そんな場面があったのが連想される。けれども、ノートルダム寺院の建築様式の三越デパートというのには心当たりがない。目ざめて思い起こすと、パリのノートルダムよりは、車で通って観光をしただけのベルギーの古都ゲントで目にした黒ずんだ古い聖堂建築の方に似ていた気がする。
 北白川から下賀茂上賀茂にかけての、つまり京都の北東の区画を歩いている夢は、何度も見ている。実際に京都に住んでいたのは十代末から二十代を通じてだったが、夢の中の京都は現実に記憶の中にある京都とは色々と異なっている。現実の京都とは独立に夢世界の京都がいつもどこかに存在していて、それが時々夢に出てくる、という感じだ。
 けれども、なぜ京都の老人ホームに入居して、外出すると大聖堂建築様式の三越が二つもあり、ファサードの下部で牛頭スフィンクスが建物の重量を支えていたりするのだろう。
 理解しがたいとしかいいようがない。
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●●●新感覚のオープンアクセスジャーナル『こころの科学とエピステモロジー』は、創刊に向けて原稿募集中です。詳しくは下記サイト参照
エピステモロジー (épistémologie)」はフランス語圏では、科学的知の批判検討を意味します。心理学を始め、精神医学、認知科学、脳神経科学、人工知能など、こころの科学と総称される領域全般に対して、批判的検討を加えることを主目的とします。詳しくは上記サイトよりダウンロードできる『創刊準備号』巻頭の「エディトリアル」を参照してください。
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2018年9月14日 (金)

フッサール心理学(50):『涼宮ハルヒの消失』に感動し、「優しい忘却」の歌詞を掲げるの巻/コミュ障の現象学から見た長門有希

■劇場版『涼宮ハルヒの消失』をDVDで月曜の夜に見て以来、3日。いまだ感動から醒めやらずにいます。

 ことの発端は、『人文死生学宣言』(春秋社、2017)を共に編集した三浦俊彦氏から、新著の『エンドレスエイトの驚愕』(春秋社、2018)を贈られたこと。
 「涼宮ハルヒの憂鬱シリーズ」論なのですが、今までこのアニメシリーズを見たことがなく、それじゃ見なくちゃ、と世田谷に泊まり込みに行くたびにツタヤから借り出して、9巻目か10巻目。まがうことなき名作に出会ったのです。

 ハルヒシリーズは、宇宙人と未来人と超能力者しか興味がないという女子高生涼宮ハルヒが、退屈しのぎに超常現象を見つけ出すために結成した、SOS団という北高サークルが中心となって進行します。
 団員は他に4人ですが、語り手のキョンだけが普通の男子高校生で、他はハルヒの願望通り、宇宙人(長門有希)と未来人(朝比奈みくる)と超能力者(古泉)から成ります。宇宙の進行を乱す潜在能力を秘めたハルヒを監視するために、それぞれの「組織」から遣わされたのです。
 キョンはその正体を打ち明けられています。現にハルヒの巨大な潜在能力のせいで、閉鎖空間に閉じ込められて透明巨人が暴れたり、夏休みの期間が回帰して終わりなき夏休みになったりします。そのたびに、宇宙人と未来人と超能力者の必死の修復作業で元に戻るのですが、ハルヒだけは気づいていません。退屈な学園生活が続いていると思い込んでうんざりしているのです。だから「憂鬱」とタイトルについているのです。

■10巻目ぐらいに現れる『劇場版涼宮ハルヒの消失』では、ある朝、キョンが登校すると、ハルヒの姿がないばかりか、誰もハルヒも古泉君も知らない、ということになっている所から始まります。
 上級のクラスにいる朝比奈みくるに会いに行っても、SOS団のことなど知らない、と言われる始末です。

 やがてハルヒと古泉君は、北高ではなく別の高校の生徒になっていたことが分かります。やはり二人とも、SOS団のことなど知らないというのです。

 最後の望みをかけて、キョンはSOS団の部室に向かいます。そこは元々文芸部の部室でしたが、唯一の部員だった長門有希もろとも、「元の世界」のハルヒが乗っ取って、SOS団の部室にした部屋だったのです。
 ドアをあけると、居ました。眼鏡をかけた長門有希が、いつもの通り本に読みふけっています。無口で非社交的で鬱なキャラもそのままに。
 やがて、キョンは大変なことに気づきます。
 元々、長門有希の正体は、銀河を統括する情報統合思念体のヒューマノイド型端末だったはずです。ところが今や、人間になっていることに気づいたのです。無感情なアンドロイドだったはずが、感情豊かで内気な文学少女になっているのです。そして、「文芸部入部届」という書類を恥ずかしそうにキョンに渡します‥‥

■元の宇宙人長門有希が残していった手がかりを辿って、キョンにも真相がつかめてきました。
 SOS団の騒がしい団長、ハルヒのいないこの世界は、長門有希の巨大な能力によって元の世界から分岐した時間流だったのです。
 でも、何のために任務に背いてまでそんなことをしたのでしょうか。
 元々、長門の能力は三人の中でもぬきんでていました。その能力によって世界の崩壊を防ぎキョンを守ってきたのです。けれどもキョンの関心は派手なハルヒや朝比奈みくるに向かい、無口で無表情の長門の働きは当然視され、存在も無視されてしまっていたのです。
 そこに、アンドロイド型端末だった筈の長門の感情が、自我が目覚めたのです。
 きっと長門有希は、ハルヒのいない世界で、キョンに恋してみたかったのでしょう。
 でも、キョンは、元の、ハルヒとSOS団の、てんやわんやの世界の方を選びました。元の世界の長門がキョンに選択肢として残していった鍵を使って。
 せっかく長門有希が人間の少女として生き始めた世界は、こうして消え去ったのです。

■やがて感動のラストシーンが来ます。
 元のアンドロイドに戻った長門と並んで、雪が舞い出す中で、キョンは「ゆき」と口走ります。これまで長門有希を、「長門」としか呼んで来なかったキョンがです。でも、続けて、「ゆきが降ってる」と言うのです。
 この場面で長門有希役の茅原実里によって歌われるエンディングソングを引用しておきます。長門の切ない想いそのままの歌詞ですね。「消える世界にもわたしの場所がある」なんて。インターネット上では、この場面で泣きましたという記事が少なからず検索できますが、同感です(なんだかアンデルセンの「人魚姫」を思わせる話だし)。

「優しい忘却」
望むことは何?
わたしが問い掛ける
なにもいらない 嘘ではなかった
消える世界にも
わたしの場所がある
それをしらない 自分でさえも
閉じ込めた意識は
時を結び

Nagatoyuki_madobe_megane願いを繰り返す
また会うまで 忘れないで
巡る日々の中
わたしに残るのは
記憶 それとも 忘却だろうか
やがて世界には
眠りが訪れて
ひとり ひとりの あしたに帰る
選ばれた未来を
見送る扉
願いが叶っても
忘れないで 忘れないで
消える世界にも
わたしの場所がある
それを知らない 自分でさえも
思い出すまでは…

(作詞:畑亜貴
作曲:伊藤真澄
編曲:虹音
歌詞原案:谷川流
歌:長門有希[茅原実里])
(『公式ガイドブック 涼宮ハルヒの消失』ニュータイプ編、角川書店、2010、pp.172-173)
:
■「コミュ障の現象学」から見た長門有希
 三浦さんのような分析哲学的アプローチとは別になりますが、私は長門有希という魅力的なキャラに、始めたばかりの「コミュ障の現象学的当事者研究」の視点から*、深甚なる興味を覚えました。
  *「コミュ障(人づきあいが苦手)の批判的ナラティヴ現象学」(渡辺恒夫著)という論文が、『質的心理学研究』(№18)に掲載予定です。2019年3月、新曜社より発売予定。
 ラスト近く、すべてが長門有希の暴走の結果だと知ったキョンは、こう独白します。
 記憶をたどって引用するとーー「なんで情報統合思念体ともあろうものが、長門にもっとちゃんとした設定をしてやらなかったんだよ。あんな無口で鬱な娘なんかでなくって、朝倉涼子(註:情報統合思念体反主流派が送り込んだヒューマノイド型端末)みたいに、社交的でクラスでも人気者にだって設定できたのに‥‥」(註1)
 グサリときました。どんなに長門有希が「ルックスはA-級」に描かれ、しかもオタクたちの間でハルヒもみくるも及ばない人気を誇っているからといって、「ふつう」の高校生のキョンからしたら、「ちゃんとした設定ではない」としか見えないなんて。
 また、朝比奈みくるの大人ヴァージョンが、美貌で有能な時間パトロールとしてしばしば現れるのですが、その彼女にもまた、長門は、「あのひとちょっと苦手なんですけど」と評されます。
 なぜ苦手かを解釈すると、長門はガールズトークができないからです。
 ガールズトークに限らず雑談の会話というものは、録音してテープ起こしてみると、ほとんど意味をなしていないことが分かるそうです。だから会話の機能は情報を伝達することではなく、絆を確かめ合うことにある、というのが最近の学説です。
 長門は3年前に地球に「舞い降りた」のだから、絆などあるわけありません。
 それならなぜ、キョンとの間にコミュニケーションが成り立つのかというと、彼女は今まで、身を挺してキョンを護って来ました。それが任務だからです。
 コミュ障の特徴として、他愛のない雑談はできないが、仕事の上の会話はしっかりできる、ということがあります。
 長門はいわば仕事を通してキョンとの間に絆を作ったのでしょう。
 でも、ハルヒのいる世界では、彼女にとってキョンとのそれ以上のコミュニケーションは、極めて困難です。コミュ障は、三人という組み合わせを特に苦手とするからです‥‥

註1 原作『涼宮ハルヒの消失』(谷川流著、角川書店、2004)から改めて引用するとーー

 「情報統合思念体がどれだけ高度な連中なのか‥‥
 だったらと、俺は言いたい。
 この長門有希にもっとまともな性格を与えることだってできただろうが。殺人鬼になる前の朝倉みたいに、クラスの人気者になるような、明るくて社交的で休みの日に友達とショッピングモールで買い物をしているような、そういう奴にだってできただろう。なんだって一人寂しく部屋に閉じこもって本だけ読んでそうな、鬱な娘を設定しやがったんだ。」(p.244-245)
■長門有希に未設定の社交性機能って何?
 色々、考察をならべてきましたが、同じようなインターフェイス用ヒューマノイド型端末である、朝倉涼子は違っています。
 設定が違うのです。
 ウィキペディアを読んでいて、続編(涼宮ハルヒの驚愕)の紹介で、長門には社交性機能が設定されていず、自分でも残念に思っているらしい、といった記載が目に留まりました。
 社交性機能っていったいなんでしょう。
 これは、私自身への問いかけでもあります。なぜなら私もまた、社交性機能未設定のままで生涯を終えることになりそうだから。現象学的に厳密に言えば、「社交性機能未設定の渡辺恒夫が私である世界はそのまま遠からず終了になる」のだから)。
 だから「コミュ障の現象学的当事者研究」を始めたのです。

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2018年8月18日 (土)

夢の現象学(148):教祖一代記を夢みてもう一つの現実を生きていた充実感が残ったの巻

■2018年8月1日。

 夢記録ノートから写す。ノートに日付がないが、見たのは7月下旬だったはず。
 カルト宗教(オウム真理教のような)の教祖の一代記を夢みた。富士山のような高山での修行。その頂上付近は大文字山の山頂を連想させる斜面となっていて、そこを歩いていた記憶。
 それ以外に思い出せることが何もないのに、目覚めた直後には、もう一つの現実を生きていたという、ずっしりした充実感があった。
■2018年8月17日(金)。
 夢の中では大学の開講日だった。開講日なのに時間割が分からず、自分の担当授業がどの教室になっているかも分からず、あせっていた(この種の夢はよく見る)。事務室の前の露台のような場所に時間割が並んで置いてあるという情報があったので(視覚的に見えた)、行こうとしていた。
 気がつくと私は、パジャマの上にガウンを羽織っただけの姿だった。家に引き返すか、間に合わないようならこのまま押し通すか、等と迷った。小野学部長の姿があった(ここから目覚めてから東邦大学だったと解釈したらしい)。
 私の教える科目は(心理学ではなく)哲学になっていた。初めての科目なので、死について話そうか、等と考えた。そのうち目が覚めた。
■最後の死について話す云々は、11月で沖縄である質的心理学会のシンポ「人文死生学宣言の誕生」で話すことを考えていることに関係がある。
 前回のブログにも書いたが、死は生に比べて無限に悪いという死の害の説は、生の日常性と死の非日常性の距離が無限であるところに由来している。
 対策としては、生の非日常化を図ることだーーと、ここまで前回のブログで書いた。
 最近考えていることは、
 死の非日常化には二つの途があります。
 1)同時代の全ての他者がゾンビであることに気づくこと。でも、これはあまり薦められません。なによりも難しいし、下手に気づいたら人間関係がうまくいかなくなる危険性がある。
 2)夢日記を付けること。これなら誰でもできるかもしれません。夢日記を続けているうちに、夢と夢とがおもったよりつながり合っていて、現実の生に劣らぬ実在性を秘めていることに気がつく可能性があります。こうして、現実世界も夢世界の一種に過ぎないことが実感されてくる。生が非日常化されるのです。
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2018年8月 8日 (水)

フッサール心理学(49):質的心理学会(沖縄)での「人文死生学シンポジウム」での企画趣旨案の巻

■今年(2018)の質的心理学会大会(沖縄県名護市、11月24日)で、「『人文死生学宣言』の誕生」という副題のシンポジウムを行うことが決まったが、私は話題提供を遠慮したので、代りに「企画趣旨」を限られた時間でいかに有効に語るかを考えている。


 順序としてはこうだ。
→まず自己紹介として、大会受付で展示販売中の『質的心理学研究』最新号に、「他者になる夢の現象学的解明ーーフッサール志向性論による主題分析」という論文を載せていることを紹介した後、次のように論理を進める。
→この論文は、現実では他者になれないのになぜ夢では他者になれるかを、フッサール現象学によって解明したものです。
→解明の結果、驚くべきことが判明しました。
→他者になる方法は、夢を見る以外に、もう一つあることが分かった。
→それは、
→私が死ぬことである。
→といったことが、『人文死生学宣言』の私が執筆した第4章「他者とは時間を異にする私なのか」に書いてあります。
■次に、死ぬことは生きることより無限に悪いという「死の害」の説について一言する。この説は、自然科学万能の風潮に追随し続けている現代英米哲学で流行っているらしいが。
→生よりも死の方が無限に悪いという感覚は、科学技術的合理性に貫かれた現代にあっては、生の日常性と死の非日常性の間の距離が無限となっている所に由来する。
→したがって生を非日常化することが、有効な「感性的」反駁となる。非日常性同士で、生と死の距離が縮まるから。
→生の非日常化は(私の場合)次のような道筋をたどる。
1)自己の唯一性の自覚(→他者のゾンビ化)。=非日常化!
2)それでも、自他の等根源性の要請を断念しない。
3)1+2→人間的世界経験の根源的パラドックスへの直面=非日常化!
4)パラドックス解決としての、「他者とは時間を異にする私」という死生観の展開
■最近、福島県の亡母の実家の叔母の葬式に行ってきた。
焼香から始まって出棺、焼場での骨拾い、斎場に戻っての酒宴と、伝統に則った式次第に参加して思ったことは、葬式仏教などと悪口を言われながらも、結構、生の非日常化に貢献しているのではないかということだった。
 葬儀のセレモニーは、確実に生を非日常化して死との距離を縮める。
 これは貴重な文化的伝統というべきだろう。
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2018年7月25日 (水)

フッサール心理学(48):アンドレ・ジッドの自我体験(?)

■サルトルは『ボードレール』の中でこう書いている。

‥‥誰でも幼年時代に突発的で、圧倒的な自意識の目覚めを経験する。ジードはそのことを『一粒の麦』で書いた。彼のあとではマリア・ル・アルドアン夫人が『黒い帆』で書いている。だが『ジャマイカ島の颱風』を書いたヒューズほどこのことを巧みに語った者はいない。‥‥(p.11)

  サルトルは、ヒューズの例しか具体的には引用していない。けれども、この記述を受けてSpiegelberg (1961)が、マリア・ル・アルドアンの例とヒューズの例を引用考察し、さらにコーンスタムが『子どもの自我体験』(金子書房、2016)の中で引用考察している。ところが、ジードの例は、サルトルが名を出しているだけで、誰も引用していない。

 今回、ジードの『一粒の麦もし死なずば』を改めて読み返して見て、サルトルを含めて誰も具体的に引用していないわけが分かった。自我体験であることが分かりにくいのだ。

 とにかく、該当すると思われる一節を、下記に書き出しておこう。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 数年後、父の死の直後のこと。つまり僕は十歳になっていたわけだ。舞台はまたしても朝の食事の食卓だ。ただし、今度は、母と僕とは差し向いの二人きり。その朝、僕は学校へ行ってきたのだった。何ごとがあったものか?何ごともなかったものらしい‥‥・。それなのになぜ僕は、急に泣きくずれて、母の膝に倒れ、すすり泣いたり、痙攣(ひきつけ)たりしたのだろうか。あの幼い従弟が死んだときとまったく同じな、あの説明しがたい苦悶を感じたものらしかった。とにかく、僕のうちにある見知らぬ海の特別な閘門が急に開きでもしたかのように、波が僕の心の中におびただしく流れこんでくるのだった。僕はさびしいというようむしろ恐ろしかった。だが、僕がすすり泣きながら絶望的にくり返しているつぎの言葉を、わずかに聞くだけの母に、どうしてこれを説明することができよう?
 「僕は皆と同じでないんだ!僕は皆と同じでないんだ」

 (アンドレ・ジッド『一粒の麦もし死なずば』(堀口大学/訳、新潮文庫)p.137)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 確かに、この最後の行の意味はわかりにくい。念のため原文をみると次のようになっている。
--Je ne suis pas pareil aux autres! Je ne suis pas pareil aux autres!
(André Gide: Si le grain ne meurt. Éditions Gallimard, 1955, p.133.
 これでは堀口大学以外に、訳しようがないと思われる。あるいは自我体験というより、独我論的体験が入った体験だったかもしれないが。
 ともあれ、Spiegelbergのように質問紙調査をやったわけではないが、サルトルは「事例」を3つあげている。事実上、自我体験研究の先駆者といえるのではないだろうか。
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