経済・政治・国際

2014年12月 9日 (火)

フッサール心理学(27):現象学は民主主義の原理であると、改めて自覚するの巻

12月4日。年の瀬となったので、今年関わった学会シンポジウムを振り返っておきたい

・まず、「社会的認知と現象学」日本心理学会2014年度大会(9月12日、京都)。
 企画者・話題提供者:田中彰吾、話題提供者:植田喜好子、ラングドリッジ(Darren Langdridge)、指定討論者:私こと渡辺恒夫、という顔ぶれ。実は日本人三人は、ラングドリッジさんの『現象学的心理学』(仮題)の翻訳作業中なのであった。
 ラングドリッジさんが来日できず、やむなくスカイプを介して討論したことは前にも書いたが、面白い経験だった。
 ここで記事にするのはシンポジウムの中身ではない。来日できないラングドリッジさんの代わりに送られてきた発表原稿を訳していて、シンポジスト共通のバックボーンであるフッサール現象学こそ、民主主義の根本原理にほかならないと気付いたことを、述べなくてはならない。
フッサール現象学の出発点はデカルトの「我思う、ゆえに我あり」である
 フッサール現象学の出発点は、新デカルト主義と自称しているように、「コギト・エルゴ・スム(われ思う、ゆえにわれ在り)だ。目の前の花瓶の存在は錯覚かもしれないが、私にそれが見えるように思われる、という、私の主観的体験自体は疑いえない。だから、私が存在してみたり聞いたり考えたり喜んだり悲しんだりしているという現象こそ、あらゆる知識と世界観構築の出発点とならなければならない。
 至極当然な説だが、どうしたことか反対者が少なくない。どうやら反対者の多くは、政治的動機からそうしているように思われる。
全体主義の温床となった「虚偽意識」の説
 反対論の一つの典型に、「虚偽意識」の理論がある。ドイツの社会学者マンハイムが、マルクス主義の影響下に1930年代に唱え、ハンガリーの哲学者ルカーチなどを通じて、西欧型マルクス主義に大きな影響を与えた。日本でいわゆる70年安保世代の間で流行した疎外論のバックボーンの一つにもなっている。
 10年ほど前、お付き合いでした翻訳の仕事の中で、虚偽意識の理論を訳していて、この説の恐ろしさに吐き気がするほど気分が悪くなったことがある。
 「オマエが花瓶を見ていると思っているという意識そのもの、主観的経験そのものが、虚偽だ」というのだから。
 これがなぜ恐ろしいかというと、主観的体験、意識現象が虚偽だというためには、どこかに「真の正しい意識」を知っている人間がいなければならないからだ。当然、この説の歴史的文脈では、「真の正しい意識」を知っているのはマルクスでありレーニンであり、毛沢東ということになってしまうからだ。これが全体主義に直結するのは明らかだろう。
オマエが幸福か否かはオマエ自身ではなく毛沢東思想が判断する
 例をあげよう。これまた2,30年前になるが、図書館で、戦前に台湾から日本にわたり、苦労の末に日本社会に定着した人物の自伝を手にしたことがある。その最後の頁は「こうして私はささやかな幸福を手に入れたのです」という意味の文章で結ばれていた。
 ところでこの本は、毎日新聞社刊である。そして、さる全国紙編集委員の肩書の人物が「解説」を書いていて、その中で、「‥‥さんは本当に幸福なのでしょうか?」と、ケチをつけているのだ。
 私は何とも不快な気分になった。幸不幸というものは痛みや快感と同じく主観的なもので、他人が判定するものではない。
 今から思えばこれは、全国紙編集委員氏による、虚偽意識理論の実践であることは明白だろう。つまり、この記者の(多分)奉じている毛沢東思想を学習すれば、自分が「日帝」の犠牲者であり、つまり幸福だと思っていても幸福ではないことが分かるはずだ、と言いたいのだから。これでは、南洋の島に出かけて行って、お前たちの幸福は神を知らない以上、真の幸福ではない、とお説教した西洋の宣教師たちと変わるところがないではないか。
マルクス主義は最後の世界宗教である
 毛沢東思想などと、いつの時代のことか、といわれるかもしれない。
 今年の8月に明るみに出た朝日新聞の従軍慰安婦報道は、誤報だということがだいぶ前から社内的には分かっていたのに、今年になるまで公表できなかったのは(それゆえ「誤報」が「捏造報道」になってしまったのは)、朝日本社の主筆だった若宮啓文氏が定年退職するのを待っていたからだという。若宮元主筆は、まだ現職の時期に自著の出版記念会を北京で中国共産党の肝いりで盛大に開いて貰い、(週刊誌報道によると)公費で北京に赴いて出席したというから、確信犯的な毛沢東主義者というほかない。40年以上前に、朝日の秋岡北京特派員が、北京当局肝いりの文革礼賛報道を垂れ流して世界に恥をさらし、挙句の果てに定年退職後はさっさと人民日報日本支社長に就任した時代以来、この新聞の体質は変わっていないと言うほかない。
 マスコミ界ならずとも、大学などという場に長いこと居ると、マルクス=毛沢東原理主義者が、しぶとく生き残っていることにいやでも気づかざるをえない時がある。数年前にもある学会のパーティで、国立教育系大学の准教授氏が、「やっぱり貨幣を廃止すべきですね」とのたまうのにのけぞったことがある。貨幣廃止を実行しようとしたポルポト派(カンボジャ共産党毛沢東派)が、自国民200万人の虐殺に至った歴史の教訓など、まるで見えていないらしい。
 マルクス主義は、仏教・キリスト教・イスラム教に次いで出現した、最後の世界宗教であるというのが私の持論だが、とりわけ日本の毛沢東主義者には、新興宗教の信者にも似た非合理な精神構造の持主が多い。私は宗教を全否定するわけではなく、神秘主義を中心とした個人宗教には意義を認めるし、マルクスの偉大さからも学んできたつもりだ。ただ、日本の毛沢東主義者は、自分は「科学的」と思っているのが困るのだ。
民主主義の原点は「自己崇拝」である
 毛沢東主義といえば思い出すが、学生時代、友人に勧められて赤旗を購読していたことがある。おかげで、日本共産党が文化大革命に反対して中国共産党とケンカを始めた事情も、リアルタイムでつぶさに知る機会を得た。
 日本共産党の文革批判の的の一つは、異常なまでの毛沢東崇拝、個人崇拝にあった(知らない人は、北朝鮮のキム首領様崇拝を想起すればよい)。これに対して、文革を支持して日本共産党から離れた日本の毛沢東派が機関誌を出して反論していた。その一節が妙に記憶に残っている‥‥
 「個人崇拝をしないという人は、自分を崇拝しているのです。」
  今回、47、8年ぶりに思い出して、逆説的に、自己崇拝こそは民主主義の原点であることに思い至らずにいられない(私は別に日本共産党に加担しているわけではない。ただ、自主独立路線以後、外国の全体主義勢力の影響を断ち切っただけ、社民党などより可能性が開けたことだけは言える。なお、これも知らない人は驚くだろうが、日本共産党と朝日新聞はあまり仲がよろしくない)。
 自己崇拝などというと聞こえが悪いが、要は、「我思う、ゆえに我あり」のことだ。最終的には自分で感じ自分で考え自分で判断し自分で責任を取るほかない、という当たり前の事実から出発することだ。「第一人者」(オーウェル作『1984年』に出てくる独裁者)によって自分は「本当に幸福か」を判断してもらう必要など、毛頭ないのだから。
現象学運動はいたるところで「過ぎない教」と対決する
 私は、講義で現象学のことを説明する際には、次のように言うことにしている。
 ‥‥20世紀を通じて現象学運動は、いたるところで「過ぎない教」と対決してきた。
 ・私の主観的経験は「社会的生産関係という下部構造の反映に過ぎない」というマルクス主義。
 ・私の主観的経験は「無意識的な欲動の偽装に過ぎない」というフロイト精神分析。
 ・私の主観的経験は「神経の興奮に過ぎない」という神経科学的な唯物一元論。
 さらに、最近ではこれに、「コトバによって社会的に構成されたものに過ぎない」という、社会的構成主義が加わる(幻滅した社会主義者の最後の避難所?)
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2009年4月19日 (日)

麻生太郎の著書を注文するの巻。小沢一郎の20年前のマスコミ批判論文の巻

●4月19日。
■ アマゾンから麻生太郎『とてつもない日本』がようやく届いたの巻■
 
 生協で注文したが品切れなのかナシのつぶてなので、改めてアマゾンで取り寄せたもの。特に読みたかったわけではないが、マスコミの言われなき麻生バッシングに抗議するという、インターネット上での祭りの趣旨に共鳴したのだ。
 大学のようなところでずっと生きていると特に感じるのだが、日本で政府や首相を批判することは、北朝鮮で金正日主席の前で足を高く上げて行進するのと同じくらい、たやすくて、しかも保身に役立つのだ。自分を安全地帯において、口先だけ反権力を唱えることが、明らかに保身に役立つのだ。
 以前、図書館で読んだ、名前は忘れたがある評論家の、大江健三郎批判が印象に残っている。
 本当に日本と世界を良くしようというのなら、自分を安全地帯において役にも立たない状況分析などやっていないで、日本の首相を目指したらどうか、できればアメリカの大統領が良い、といった文章だった。
 もちろん、「批判」を専らにする人士からは、向き不向きがある、といった反論が来るだろう。けれども、指導者は向き不向きではなく、最も優れた人物がなるべきものなのだ。向いていないという言い訳は、自分には能力がない、と認めるに等しいではないか。
 若い頃は、首相など人間離れしたモンスターの極悪人ぐらいに(もちろんマスコミのマインドコントロールで)思っていたものだ。ところが、今のように同世代になってくると、何のことはない、日本の首相だろうがアメリカの大統領だろうが、自分と同じような人間で、しかも(当たり前だが)私など足元にも及ばない高い能力の人間だと分かってくる。
 身の回りに居る指導者たちー学長や学部長ーの毎日の仕事振りの大変さを見聞きするにつれ、足を引っ張るようなことをいわず、批判をするにも建設的批判を心がけよう、と思うのだ。
 マスコミで自国の首相への悪口雑言に余念のない人々を観察していて、連想するのは、突飛なようだが、この前の紅白歌合戦で森進一の歌った、オフクロサン、という歌の歌詞だ。
 雨の日に傘を持って迎えに来てくれた母が、大人になったら世のため人のための傘になれ、と諭す、といった意味の歌詞だった。
 これに対して、マスコミで麻生バッシングに余念のない人々は、傘どころか、生涯にわたって天に向かって唾することを続ける人々、と言ってよい。しかも、それが保身に役立つどころか、メシの種になっているのだ。

■小沢一郎の15年前のマスコミ批判論文の巻■
 こう書くと、麻生太郎vs小沢一郎の対立構図で、麻生太郎に加担するもの、と思われるかもしれない。けれども、私は以前から、小沢一郎は一段スケールの大きい政治家だという印象を持っていた。
 15年ほど前、朝日の紙上で、マスメディアの役割についての小沢一郎vs朝日新聞編集部の論争というものがあった。
 朝日の主張は、相も変らぬマスメディアの公権力監視の使命を強調するものだったが、これに対する小沢一郎の反論を一読して、私は勝負あった、と思った。
 小沢によると、公権力の権力源泉は国民の主権に他ならない。その公権力を「監視」することを専らとするような巨大な組織が存在すること自体、国民主権に対する侵害である、という。
 では、公権力は監視されなくとも良いのかというと、決してそうではない。公権力の監視は、まさに公権力の権力源泉である私たち国民一人一人の責務なのだ。それを勝手に、巨大メディアのような私権力に、横取りされてはたまったものではないではないか。
 私がもっとも腹が立つのは、新聞人によく見かける、「国民の言論を預かっている」「国民の知る権利を代行する」といった言い草だ。いったい、いつ、誰が、預かってくれだの、代行してくれだのと、頼んだか。代行するというのなら、巨大メディアの記者や編集責任者は、読者や視聴者の選挙によって選ばれるべきではないか。

 情報三権というものがある。
・知る権利
・知らせる権利(=表現の自由)
・知られない権利(プライヴァシー権を含む自己情報のコントロール権)
 情報三権は、私一人一人の個人としてのかけがえのない権利であって、誰にも代行してもらう訳にはいかないのだ。
 もちろん、かつて、個人に情報能力が欠如していた頃は、マスコミに頼るのも致し方なかった面もある。けれども、今ではインターネットというものがあり、私のような非力な人間でも、こうして発信できるのだ。
 
■天に向かって唾を吐き続けた代償■
 その小沢一郎も、西松建設の件で、総理の座は遠くなったようだ。元々、小沢が総理の座に及び腰なのは、総理大臣になったとたんに、自民党幹事長時代のスキャンダルを暴かれるからに違いないとは思っていた。その時が、ワンテンポ早く来だだけのことかもしれない。
 とにかく、これでまた、麻生も小沢もダメで、永田町にはカスしかいないといった、論調がマスコミを賑わすことになってしまった。
 気がついていないのかな。人材払底しているとしたら、それは、マスコミに操られた日本人が、長年にわたり、天に向かって唾を吐き続けた、その報いなのだということを。

■終りにーー私の好きな言葉■
・汝、罪なき者のみ、石を投げよ。
・汝、天に向かって唾することなかれ。

■■■【お願い】ブログにも著作権があります。引用の際は、本ブログの著者名(渡辺恒夫)を明記し、併せてURLも必ず書き添えてください。■■■

2008年4月29日 (火)

チベット問題に寄せて

         【チベット語版だけが残っている謎の仏典『他人の存在の証明』】

 サンスクリット原典が散逸し、チベット語訳しか残されていない仏典が多数ある。

 7世紀の仏教論理学者ダルマキールティ(法称)の論書『他人の存在の証明』もその一つだ。私の書棚にも、大学院生のころ、大谷大学の隣の洋書屋でアルバイトをしていた時に手に入れた、思い出深い一冊がある。

 その後チベット語を学ぶ機会は残念ながらなかったので、英訳("Establishment of Others")で読んだ。正確に言うと、チベット語版をロシアの仏教学者ストルバツコイがロシア語訳し、さらに現代のインド人学者が英訳したという、地球を一回りしたような代物だ。

 ,ところが、それでも、私の西洋化した頭でもあるていど理解できる(私的サイト中の電子出版「時代精神としての自我体験・独我論的体験(2007)」の 13 頁で紹介しておいた)。これが、仮に漢訳を経ていたならば、なかなかそうは行かなかっただろうと思われる。チベット訳仏典は、サンスクリット原典に忠実で、しかも、インドでは原典が散逸してしまった多くの経典・論書類を含むということで、価値がある。

 そこで、明治の頃、京都のある禅寺の僧侶だった河口慧海という人が、大変な苦労をしてヒマラヤ越えし、当時は鎖国も同然だったチベットに潜入し、僧院でチベット仏教を学びつつすべての仏典を筆写して、20年の後に日本へ持ち帰った。これが有名なチベット大蔵経だ。

 ちなみに河口慧海の『チベット旅行記』は、今では文庫本で読める(河出文庫だったかな?) 一読すれば、チベットがいかに中国とは別個の独立した文化圏を形成しているかがわかるだろう。

       【チベット問題に沈黙する日本サヨクの異様さ】

 私がチベットに触れるのは、もちろん、最近、長野で北京五輪聖火への抗議行動をめぐる事件があったからだ。ただし、ここでのテーマは、チベット問題そのものではない。

 欧米の人権団体が北京政府に対する抗議の先頭に立っているのに対し、日本の人権派、リベラル、と目される人々やマスコミが沈黙を続けている、その異様さを問題にしたいのだ。

 人権派というものは、元々、左翼的反権力的だというイメージが強い。国境なき記者団の事務局長メナール氏など、その典型だ。ところがチベット問題に関する限り、欧米の人権派と日本のそれとでは、まるっきり対応に差が出てしまっている。

 なぜか?

 私にはわかる。日本の人権派・サヨクは、困惑しているのだ。なぜなら、日本のサヨクには、チベット問題のような問題を適切に理解するための、解釈格子(=パラダイム)がないからだ。

 日本のサヨクは元々、マジョリティ(多数派)の代弁者であって、マイノリティ(少数派)への視点を欠いているからだ。

  この二十数年ばかりの、日本サヨクのたび重なる醜態と凋落ぶりを目の当たりにして、私には、日本サヨクとは何だったのか、その精神構造(メンタリティ)を心理学者の端くれとして解明してみたいという思いが強くなっている。

 もちろんサヨクに義理があるわけではない。ただ、大学生だった頃の、右も左もサヨク・マルキシストだらけといった時代を生き抜いてきた者として、当時から抱いていた疑問に、ここで答えてみたいと思うのだ。

 彼らの多くは、「いいひと」であった。けれども、彼らの内面には何か見えない型枠が嵌っているようで、思考回路がステレオタイプなのである。ひとことで言えば、思考が「主人持ち」なのだ。それは、なぜなのだろうか。

   【マルクス主義のピラミッド型権力論】

 日本サヨクがというよりマルキシズム一般が、少数派への視点を欠いている理由の一つは、マルクス主義のピラミッド型権力構造論にある。虐げられた多数派であるブルジョア階級が少数派の貴族階級を打倒し、さらに、ブルジョア階級は、真の多数派であるプロレタリア階級に打倒されねばならない。……ピラミッドの下層を成す多数派が頂点をなす権力者である少数派によって虐げられているがゆえに革命が起こるというタイプの権力論では、確かに、その多数派によって更に差別される少数派への眼差しは出てきにくい。

 だから、旧ソ連の有力者の談話として伝えられてるように、「ソ連には少数民族問題は存在しない」だの、「ソ連には同性愛者は存在しない」だのといった見解になってしまう。

 サヨクが敵視する「西側資本主義諸国」でかえって少数派の解放運動が成果を出しているという皮肉な事実や、日本でも少数派の人権運動が、最初は左翼勢力と結んでいたが、途中で決別してしまうなどの事態も、マルクス主義の権力構造論に一因があると思わざるをえない。 

      【日本サヨクの権威主義的メンタリティ】

 サヨクな人々に精神的自立性がなく、主人持ちの未解放な思考になってしまう理由に、サヨクの本家たるマルクス主義が、権威主義的パーソナリティの持主によって創始されたことがあろう。私は十代の頃からマルクスを読んできたが、結局好きになれなかったのは、断定調で威圧的な権威主義的文体のためだ。翻訳が悪いと言う人もいるが、それはそのような翻訳をする日本のマルクス学者が権威主義的だということだろう。

 最近、サヨクな人々の心理学的解明の一助にと、『現実的な左翼に進化する』(ピーター・シンガー、新潮社)を読んだ。シンガーは動物解放論者で、生命倫理学や環境倫理学でも知られた人物だ。その、左派を自認するシンガーでさえ、「共産主義運動は、そもそもマルクスその人以来、権威主義的な人物が支配し続けていた」と書いているのには笑えた。

 日本サヨクの場合、マルクス主義の権威性に加えて、拝外主義(外国崇拝)の問題がある。遣唐使の頃から明治の文明開化に至るまで、日本では権威は外国から来るのである。日本サヨクにとって最大の権威は、かくして、毛沢東ということになる。その最大の権威が作り上げた北京政府が、少数民族を弾圧するなど、信じたくないのは無理もない。

 いくら信じたくなくとも、事実として認めざるを得なくなると、そのうちサヨクな人々は、変質した中国はもはや社会主義とは何の関係もない、などと言い出すかもしれない。現に、北朝鮮は社会主義とは何の関係もない、という「社会主義者」が、拉致事件以来、出現している。

 こういうのを、トカゲの尻尾切り、というのだろう。北朝鮮は極端としても、世界にかつて出現した社会主義国で、独裁的全体主義的にならなかった例が皆無だということからしても、心理学的に見て、独裁と全体主義は社会主義の必然と言わねばならない。帝政ロシアのツアーリズムや朝鮮王朝の儒教的封建的風土のせいにする向きもあるが、そもそも、封建主義と社会主義の間に、精神構造に共通点あったからこそ、そのような国で社会主義革命が成功したのだと、見るべきだろう。 

     【社会主義ではなく多元主義を!】

 数年前、カナダにいたころ、leftist(左派)を自認する青年と議論したことがあるが、「北京政府は世界最悪の政府だ」と言っていたのが、印象に残った。その当時はちょっとびっくりしたが、今から思えば、その当時から、欧米の左翼の間では、北京政府によるチベットや東トルキスタンへの弾圧が批判の的になっていたと腑に落ちる。

 ところで、左派(leftist)の定義だが、シンガーによると、虐げられた弱い立場の人々の側に常に居ようとする人が左派で、「マアしょうがない」と肩をすくめるのが右派だそうだ。この定義に従えば、チベット国旗を買い求めて長野に行ったインターネット市民の若者たちが左派で、沈黙を守り続ける日本の「人権派」「平和団体」や、進歩的マスコミ幹部などは右派だという結果になるのが笑える。

 このままでは日本サヨクは、博物館送りになればまだマシな方で、抑圧者への加担の咎で、末永く悪名をとどめてしまうだろう。少数派の側に立ちつつ、昨日よりも今日、今日よりも明日と、少しでもよりよき社会を目指すために、サヨク的社会主義的な思想・メンタリティがかえって障害となるとすれば、いったいどうしたらよいだろう。

 多元主義(pluralism)にその答えがありそうな気がする。

 多元主義については、上記のシンガー的意味での真の左派であった生物学者の柴谷篤弘氏の著書で教えられたのだった。社会主義では、名称に社会を個人より上位に置くという意味合いが暗に含まれてしまうために、どんなに注意しても全体主義を呼び込んでしまうというのだ。

 私なりの解釈では、多元主義の真髄は、Nous ne sont pas sous le meme ciel.(私たちは同じ空の下にはいない)の一句で言い表される。「話せば分かる」というのは大間違いなので、話せば話すほど、お互いが同じ空の下にいないことが明白になって、最初の相互理解の意気込みが、しまいに憎悪に変ってしまうのだ。殺し合いにさえ、発展しかねない。

 だから、「私にはあなたが理解できないが、あなたも私のことが理解できないのだから、勘弁して欲しい。理解できないことを、お互いに認め合い、理解できないものをお互いに尊重しあって、別々に生きることにしましょう」というのが賢明ということになる。

    【多元主義の発生論的基礎づけ】

 多元主義は発生論的かつ超越論的に基礎づけることが可能だ。多元主義の基礎は、人間一般などというものは存在せず、自己と他者が存在するのみだという、現象学的に自明な事実にある。しかも、他者一般などというものも存在せず、親しい他者と見知らぬ他者が存在するだけだから、人間は、自己、親しい他者、見知らぬ他者という、3種にきっぱり類別されることになる。

 私たちのいう「人間」一般という概念は、これら3種の互いに還元不可能な異質な概念の、雑種的混成物にすぎない。しかも、私たちひとりひとりが、異なった種類の雑種的混成物を、たぶん、8~10歳までに形成し、その後は異質の発展を遂げる。これを称して、多型分岐型発達モデルという。

 最近、カナダの若手理論心理学者に誘われて、心理学における多元主義に関する論考を書いているが、その末尾を、多元主義の発生論的基礎付けは、単に心理学や人間科学一般ばかりでなく、日常生活や政治的多元主義にとっても重要であるといった言葉で、結ぼうと考えている。 (2008年5月24日)

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