書籍・雑誌

2018年4月27日 (金)

フッサール心理学(47):ボーヴォワールの自我体験(意識の超難問体験)の巻/夢の現象学(143):恐竜のような長い首の列車に乗って高知に行くの巻

■シモーヌ・ド・ボーヴォワールの自伝シリーズ『決算のとき』の冒頭に、深い自我体験、しかもその中核となる「意識の超難問体験」を発見したので、引用しておく。

 毎朝、私は目をひらく前にすでに私の寝台、私の部屋をそれと認める。しかし私の住居で午後に眠る場合は、目を覚ます際に子供っぽい驚きを感じることがある。いったい、私はなぜ私なのだろうか、と。私をおどろかせるのはーー子供が自分の自己同一性を自覚するときのようにーー自分が現在ここに、ある別の人生のなかにではなく、この人生のなかにいるのを見出すことなのだ。どういう偶然からそうなのだろうか。自分の人生を外から眺めるとき、私にはまず自分が生まれたことがありそうもないことに思われる。一定の精子と卵子の合体、それが私の両親そして彼らのあらゆる祖先たちのまず生誕を、ついで出会いをもたらしたのだが、それはそれぞれ何億に一つも実現する可能性はなかったのだ。また、科学の現状ではまったく予見しえない偶然によって私は女に生まれた。ついで、私の過去の各瞬間においても何千という異なる未来が可能だったと考えられる、たとえば病気にかかって学業を中断するとか、サルトルに出会わなかったとか、その他なんでもよい。この世界に投げ出されて、私はその諸法則、その偶発的諸事件に従属し、他者たちの意志、そのときどきの情勢や歴史に左右されてきた。したがって私が自分という存在の偶然性を感じるのは正当である。私に眩暈を起こさせるのは、それでいて同時にそれが正当でないことなのだ。かりに私が生まれていなかったとすれば何の問題もないはずだから、私は自分が存在するという事実から出発しなければならない。そしてもちろん、私が、かつてそうであった者の未来は、私を現在とはちがった者にすることも可能であっただろう。しかしその場合は、その別の私が自己についてせんさくすることになるわけだ。これが私だ、と自分に向かって言う者にとって、〔別の私という〕同時併存の可能性は存在しないのだ。主体とその歴史とのこの必然的な一致は、しかし私の当惑を解消するのに充分ではない。親しくてしかも遠い私の人生、それは私を定義・限定すると同時に私はその外にある。この奇妙なもの〔私の人生〕は正確にいって何なのだろうか?(『決算のとき 上』(朝吹三吉・二宮フサ/訳、紀伊国屋書店、1973), p.9(Simone de Beauvoir: Tout compte fait. Gallimard, 1972))
 ボーヴォアールといえば『第二の性』が有名だが、そんな表向きのイメージとは別の、こんな深い形而上学的な体験を記していたなんて。ますますボーヴォアールが好きになった。
 もっとも、同様の体験を出発点としているジュリアン・グリーンは読んでいたと思うが。
■2018年4月27日。夢を見た。恐竜のような長い首の列車にのって、高知に行ったのだった。首は多数の節から成っていて、ロボットの恐竜といった趣だった。
 場面が変わり、喫茶店にいた。トイレが店内にないことが分かっている。女性客が、トイレに行くのか、店を出る。続いて私も出る。店の両隣とも、店ではなく普通の民家だが、普通というより京都の紅殻格子の民家のようだ。先の女性客の姿は見当たらない。そのうち目が覚めた。
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2017年9月 6日 (水)

フッサール心理学(46):アレクサンドリアの女性哲学者ヒュパティアを描いた『ハイペシア上・下』(春秋社文庫、昭和10年刊行)をついに読んだの巻

■『ハイペシア(上・下)』(チャールズ・キングスレー作、村山勇三訳、春秋社文庫、昭和10年刊行)を、ついに読んだ。

 東邦大学図書館を通じて上智大図書館から借り、館外不出というので三日間図書館に通い、ぶ厚い2巻本を通読した。期待以上の素晴しい傑作だった。

Hypeciacover1

この小説のことは、『心の科学史』(高橋澪子著)で知った。1年ほど前、文庫版の解説を頼まれてゲラ刷りを読んでいるうちに、「‥‥女流数学者。新プラトン主義的神秘思想の持ち主。キリスト教徒たちによって殺害された。この事件を題材としたキングズリー(C. Kingsley, 1819-75) の小説Hypatia (1853)の中で、彼女は非常に魅力的な女性として描かれている」という短い註に出会って以来、ぜひ読みたいと思っていた。やがて戦前に春秋社から翻訳が出ていることが分かり、このたびようやく借り出して読んだというわけだった。
 ローマ帝国モノとしては、あのシェンキヴィッチの名作『クオ・ヴァディス』にも劣らない。むしろ、ネロのキリスト教徒迫害のような比較的よく知られた事件ではなく、キリスト教化してゆくローマ帝国の辺縁にあって最後までギリシャ文化の法灯を伝えていたアレクサンドリアという、あまり知られていない時代を背景にしているだけ、かえって興味深かった。
 ナイル川の上流に位置する岩窟の修道院で育った若き修道僧が、広い世界を学ぶためにアレクサンドリアに出てくる、という冒頭の設定も巧みだ。その修道士の目を通して、本作では「ハイペシア」という発音で出てくる女性哲学者や、彼女と並び「アレクサンドリアの二大美人」と称される妖艶な舞姫や(修道士の生き別れた実の姉だと後に判明する)、ゴート族戦士の一団や、賢く豪胆なユダヤの青年商や、後にその母親と判明する妖術使いの老婆や、ユダヤ人追放とハイペシア虐殺を指揮するアレクサンドリアのキリスト教徒総本山やといった、多彩な人物像が、さながら絵巻物のように絢爛と、それでいて精神的な深さをも備えて、描き出されている。終りの方ではアウグスチヌスまで登場する。ゴート人老戦士が朗誦する、ゲルマンの古謡も味わいがある。訳も、昭和10年にしては古風な文体というべきだが、かえって知られざるこの時代の趣が出ている。
 途中で気がついたのだが、この小説の真の主人公はハイペシアではない。若き修道僧が、いったんはハイペシアに惹かれてキリスト教を捨ててまで弟子入りしたが、最後に信仰に戻って姉を連れて岩窟の修道院に還る。その魂の成長と遍歴が真の主題をなしているのだった。なぜハイペシアの目を通しての物語にしなかったかというと、その理由はラスト近くで自ずと明らかになる。ただの殺され方ではない。大集団によってたかって貝殻で肉をこそぎ落とされ、その間悲鳴を上げ続けるのだから。こんな最後を当人の目を通して描いたら、サドかマゾッホになってしまうだろう。そんな妙な感情移入を防ぐためもあってか、事件の前夜にハイペシアと言葉を交わした若き修道僧に、「あの人は娼婦には慈悲の心を見せなかった」と述懐させ、「汝ら罪なき者のみこの女に石を投げよ」と言ってマグダラのマリアを庇ったイエスと対比させている。
 そんな名作を書いたキングズレーに他の作品が知られていないのは不思議なことだ。ウキペディアを見ると、ダーウィンの友人で、小説家で歴史家で大学教授で司教、とある。道理で教会史に通暁しているわけだ。
 ちなみに、昨年、まだこの小説を発見する前に、同じ事件を題材とした映画『アレクサンドリア』をDVDで見たが、これはあまり面白くなかった。やはり、小説の方が、想像力にものを言わせて果てしなき「地平」をひらくのに適しているようだ。
 それにしても、時々思うのだが、小説とはなんという不思議な装置なんだろう。紙の上にのたくる黒い模様を眺めているちに、ローマ時代のアレクサンドリアにタイムトラヴェルして別人の生を生きることができるなんて。読み終わって三日たった今でも、修道僧の大群が荒れ狂うアレクサンドリアの喧噪が耳の底に残っているような気がする。
 夢世界が現実世界と別個で対等なモナドなら、優れた小説もまた、現実世界と別個で対等なモナドと言うべきではないだろうか。
〇〇オープンアクセスジャーナル『こころの科学とエピステモロジー』の創刊準備号が発行されたので、宣伝リーフレット「Vol0Leaflet.pdf」をダウンロードできるようにしておきました。
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詳しくはこのサイトもご参照ください。
https://sites.google.com/site/epistemologymindscience/
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2017年2月11日 (土)

夢の現象学(116):『君の名は。』を見て夢の現象学者として考えるーー他の誰かになる夢・意識の超難問・可能世界

『君の名は。』を見て夢の現象学者として考えるーー他の誰かになる夢・意識の超難問・可能世界(by 渡辺恒夫)
■ひと月遅れになるが、正月に噂のアニメ『君の名は。』(新海誠監督)を見たが、噂にたがわぬ傑作と思った。
 東京の男子大学生と飛騨の山村の神社の娘である女子高生とで、心が入れ替わるという、マンガでよくある話ということに(世評では)なっているが、実際はかなり複雑だ。
 まず、両人とも最初は、「他の誰かになる夢」を見たと思い込むのである。「いやにリアルな夢だな」と、両人とも「夢」の中で呟く場面もある。そのうち、3年前に隕石の落下で飛騨のある山村が全滅したことが原因で、時間がねじれ‥‥というように、SF風の展開になるが、これ以上はネタバレになるのでやめておく。ただ、「君の名は。」という題名の由来については一言しておきたい。
 お互いの実在を知って現実世界で会おうとするのだが、それまではよく知っていたはずの相手の名が、急速に忘却の彼方に消えてしまうので、「君の名は‥‥」と心に叫ぶのだ。これなど、夢をみた後の忘却体験に似ている。製作者は、夢というものをよく知っていると感じた。
■他の誰かになる夢の発生頻度
 この、「他の誰かになる夢」だが、そんな夢を見たことのないという人にはお伽話としか思えないだろう。けれども私が自分自身の夢を調査した「当事者研究」では、この8年ほどの間にブログに書いた100例を超える夢記録の中で、13例を「他の誰かになる夢」としてカウントしている(1)。
 「他の誰か」の内訳は、大学の同僚のような「実在他者」になる夢が3例、名探偵金田一耕助のような「虚構他者」になる夢が5例、あとの5例は「虚実不明他者」に分類された。
 「虚実不明他者」の中で最も印象深かったのは、見知らぬアパートに「別人」として住んでいるという夢である。別人というのは、夢の中では自分の名前を自覚していて、それが「渡辺恒夫」ではないことが確かだと、醒めてから判断したからだ。『君の名は。』と同じで夢の中の名前は思い出せないながら、奇妙なリアリティがあった。
 見知らぬアパートに住んでいる「実在の誰か」であったかのような現実感。だから「虚実不明他者」に分類した。
■他の誰かに入れ替わるという小説『私があなたなら』(ジュリアン・グリーン作)
 このように、夢の中では他の誰かになることが可能である。けれど、『君の名は。』では、夢ではなく現実に、実在の他者と入れ替わっているのだということが、おいおい分かってくる、という設定になっている。
 入れ替わり、特に男女の入れ替わりネタは、最近のマンガの一つのジャンルになっているくらいで、さして珍しくないかもしれない。けれども、正統的なヨーロッパ文学の中では珍しい。そんな珍しい本格的な入れ替わりものを、昨年、読んだ。『私があなたなら"Si j'etais vous"』というタイトルが付いている。1946年の出版だ(2)。作者のジュリアン・グリーンはフランスのカトリック文学を代表する作家で、日本でも全集が白水社から出ているが、それほど一般に知られているわけではない。
 孤独で貧しい青年が、ある晩、魔法使いの老人に、謎のパーティに誘われる。パーティの主は、悪魔の化身としか思えないのだが、青年に、唱えて相手の身体に触ると、その相手と心が入れ替わってしまうという呪文を授ける。
 青年は翌朝さっそく出勤すると、社長と入れ替わって銀行に行き、大金を引き出して大金持ちになる。ところが老人の身体なので内臓が痛む。そこで行き当たりばったりに屈強そうな若者に入れ替わる。ところがその狭小な脳髄では、呪文はおろか自分が誰だったかさえも憶えていられず、「情婦」の家に押しかけて口論の果てに誤って絞め殺してしまう。追われる身になった青年の前に魔法使いの老人が現れ、もっと入れ替わる相手を選べとお説教する。
 こうあらすじを書くと、なにやら筒井康隆風のドタバタSFみたいだが、驚いたのは、「序文」に、この小説の構想は、子どもの頃、「なぜ自分はジュリアン・グリーンであって他の誰かではないのか」という謎の疑問に悩まされたからだ、とあったからだ。
  この疑問は、意識研究や心の哲学では「意識の超難問」と呼ばれる(3)。発達心理学や臨床心理学では、子どもの頃にこのような問いに悩まされる子どもが一定の割合でいることが明らかにされており、「自我体験」という名で調査研究が進められているのである(4)。
■「意識の超難問」の意義に反発する学生たち
 この自我体験の調査では苦い思い出がある。二十年ばかり前、理科系大学の教養クラスで、自我体験のアンケート調査を行ったことがある。「なぜ私は私であって隣町の他の誰かや違う時代の他の誰かとして生まれなかったのか、といったことを考えたことがありますか」といった質問項目を十個ばかり並べて、Yes回答の場合は最初に考えた頃の記憶を(たいていは子どもの頃の)、できる限り詳しく思い出して記述してもらうというものだ。
 ところが、中に、「なぜ他の誰かとして生まれなかったのかだのと、そんな問い自体、身体と心が別であることを前提とした無意味な問いだ~」という反発が、二つほどあった。ともに生物系学科の女子学生からの回答だったと思う(5)。
 私は考え込んでしまった。そして思ったのは、それは逆ではないか、ということだった。心身が別という二元論的な観念から他の誰かに生まれるという想像が出てくるのではない。むしろ、他の誰かに生まれるという想像が可能だからこそ、心身が別という観念が、その想像の可能な帰結の選択肢の一つとして出てくるのではないだろうか、と。
 他の誰かになる夢に私が注目するのは、夢の中で他の誰かになることがあるからこそ、現実世界の中でも、「もしも私が他の誰かとして生まれていたら」という想像が可能になり、そのような想像が「なぜ私は他の誰かではないのか」という意識の超難問を呼び起こすのではないか、と考えるからだ。
■可能世界論と「他の誰かになる夢」
 自分が他の誰かである想像の有意味性は、分析哲学の最新潮流である「可能世界論」によっても論証することができる(6)。
 可能世界論とは、元々、「偶然」「必然」といった、日常語にはあっても論理学では扱えなかったような様相概念を、論理記号で扱えるように発展した、分析哲学の最先端領域だ。
 「A=A」、「1+2=3」といった論理的数学的言明は、「必然的に真」である。それが偽となるような世界は想像可能でないからだ。これに対して、
 「2011年に東日本大震災が起こった」という言明は「偶然的」に真である。2011年でなく2012年に起こったような世界は想像可能だし、そのような想像には論理的矛盾はないからだ。可能世界論ではこれを、
必然的に真: 全ての可能世界においてそれは真である。
偶然的に真: それが真あるような可能世界が少なくとも一つは存在する。
と定義し、論理演算のできる式で表現する。
 「偶然的に真」ということはまた、別の角度から見れば、反実仮想が可能、ということでもある。「もしも東日本大震災が起こらなかったら」「もしも私がもっと背が高かったなら」といったことを、私たちは有意味なこととして口にする。そのような時は、反実仮想の世界を、可能な世界として思い描いているのである。
 英語に反事実的条件法という構文があることを、知っている人も多いだろう。"If I were you, I would ....."という形式の文で、もっぱらアドヴァイスをする時に使われる。「もし私があなたなら、進路先には電通でなく公務員を選ぶだろう」といった具合だ。先ほど紹介したジュリアン・グリーンの『私があなたなら"Si j'etais vous"』という本の題名も、そのフランス語版に他ならない。
 だから、「他の誰かに生まれていたなら‥‥」という想定は、可能世界論からみても十分有意味な言明ではないか。
■他の誰かになる夢とは、可能世界の現実化である
 私が「他の誰かとして生きている」世界が可能世界として存在する。すると、他の誰かとして生きているような夢とは、そのような可能世界をかいまみた夢、ということなのだろうか。
 否。「かいまみた」などという言葉を使うと、「こちら側」の現実界から「あちら側」を覗くという、此岸と彼岸の二分法に陥ってしまう。
 直截に、他の誰かになる夢とは可能世界の現実化である、と言うべきではないか。
 そんなことを、『君の名は。』を見てから考えた。
:
■参照文献
 (1)渡辺恒夫『夢の現象学・入門』講談社選書メチエ, 2016。
 (2)ジュリアン・グリーン『私があなたなら』原田武/訳、青山社、1979 (Julian Green: "Si j'etais vous", Minui, 1946)。
  (3)三浦俊彦「意識の超難問の論理分析」 『科学哲学』35-2, 69-81.2002.
 (4) ドルフ・コーンスタム『子どもの自我体験ーーヨーロッパ人における自伝的記憶』渡辺恒夫・高石恭子/訳、金子書房、2016。
 (5)渡辺恒夫「『私は5億分の1の確率で生まれた』は本当か?」 『科学基礎論研究』  24, 13-19, 1997.
 (6)三浦俊彦『可能世界の哲学』NHK出版、1996。
 

2017年1月26日 (木)

フッサール心理学(43):最終講義を「分生社会」の構想で締めくくるの巻

■2017年1月26日

前回にも書いたように、今週1月23日は明治大学での学部の最終講義となった。
「認知科学」という科目名だが、テーマを「自己と他者の認知科学」に設定し、このテーマでの根本問題を分かりやすく扱ってきたつもりだ。いずれこのブログでも講義ノートを公開したい。
 その最終講義の最後は次のようなパワポ画面で締めくくっておいた。
++++++++++++++++++++++++++++++++
フッサール現象学(=モナド論)から導き出される社会理念
・Nous ne sont pas sous le mēme ciel(私たちは同じ空の下にはいない)
・他者を深く理解しようとすればするほど、お互いに別の世界に住んでいることに気づく。
⇒分生社会の構想(アマゾンブックレヴュー『隠された障害:漫画家山田花子と非言語性LD』)(⇔共生社会)
・私はあなたを理解していないかもしれないが、あなただって私を理解していないのだから、勘弁してほしい。
・だから、なるべく分かれて生きよう。
++++++++++++++++++++++++++++++++
そして、アマゾンブックレヴューを示しながら、
「今から分生社会という社会理念を構築するには、私は年を取りすぎています。諸君の中から興味を持つ人が出てくることを期待しています。」と述べて、5年間にわたる明治大学講義の最後の言葉としたのだった。
 そのアマゾンブックレビューを、かなり長いが引用しておく。
  山田花子の作品と生涯の意義を考えさせられる本書からの「分生社会」へのヒント(2013/10/3)
 とても印象に残る本でした。
 山田花子について知ったのは、彼女の死の直後くらいかな。20歳も年下の友人に薦められて、マンガ作品と『自殺寸前日記』を読みました。「私は絶滅寸前種族」「‥‥とは共存不可能」という表現がリフレインのように出てきたことが、特に記憶に残っています。それ以来、山田花子は私のうちで一つの謎だったのが、この本の分析で謎の一端が解けたような気がしました。カルテと入院記録と本人の日記で構成した中盤は読者によっては冗長とも感じられるでしょうが、著者が精神科医だからこそ書けた章で、自死へと向かう臨場感が出て読み応えがありました。特に、後半の第5章と「あとがきに代えて」に著者の主張が強く打ち出されて、いくつか印象に残る文章になっています。
 一つだけ、例を挙げておきますー「‥‥学校では、『差別をしてはいけません』という言葉での教育が行われる。(実際に被差別の体験がある場合は別だが)適応の良い多くの健康な子どもは、『「差別というものは(世の中に)存在するべきではない」と考えているようにみせる』ことが最も重要であると認識する。」(p.234)
 この文章は、彼女の作品に出てくる、「表問題児」に対する「裏問題児」としての自己規定を論じた部分に出てくる。表問題児は知的障害児として描かれており、いじめを受けると先生が、差別をしてはいけませんと厳しくクラスメートを叱ってくれる。ところが裏問題児がいじめられる理由は容易には可視化できないので、自分のせいだと思ってしまう。山田花子のような抜群の記憶力と表現力の持ち主にして初めて、いじめられる理由が生き生きと描写され、そしてそれを元にして著者は非言語性学習障害という診断を下すことができた、というわけです。ちなみに、裏問題児は表問題児を羨み、辛辣な視線を投げかけます。これが、ヒキオタ(=成人後の裏問題児)によるネットでの差別発言にもつながります。
 私も以前から、なぜか仲間外れにされてしまうという体験が日常的だったことから、可視的な差別に対する見えざる差別ということを考えてきました。可視的なマイノリティに対する不可視のマイノリティ問題ともいえます。障害や肌の色や国籍や出身階級といった可視的要因によらない差別は、結局、自分の性格のせい、というように考えてしまいます。現今の就活でコミュ力がなにより重視されるように、性格による差別が最後に残る差別になるのかもしれません。そこで本書のように、アスペルガー障害もカヴァーしきれない例を、非言語性LDとして早期に診断して対処することで差別を可視化する、という「医療化」もまた、救いにはなるかもしれません。でも、そういう医療化が現にDSM改訂のたびに生じているように際限なく拡大すると、医療化には薬の開発が相伴うので、行き着く先は「幸福薬」が支配する社会、ということになりそうなのが怖いです。
 「あとがきに代えて」を読んでいる時に閃いたことがあったので、忘れないうちに書いておきます。そこには山田花子が幼いころ、ボロボロになるまで読んだという『やっぱりおおかみ』という絵本が紹介されています。世界で最後の一匹になってしまったオオカミは、友達が欲しくてヤギやブタや牛の集団に近づくたびに手ひどく拒絶され、最後にビルの屋上から地平を見渡して「やっぱり俺はおおかみだもん、おおかみとして生きるしかないよ」と呟き、なんだか愉快な気持ちになるのです。著者も感動したと書いていますが、私もあらすじだけを読んだだけで感動しました。そして閃いたのは、「分生社会」という理念です。「共生社会」の反対概念です。”Nous ne sont pas sous le meme ciel” と言うフランス語があります(アクサン記号省略して済みません)。私たちは同じ空の下に居るのではない。だから私はあなたを理解できないが、あなただって私を理解できないのだから勘弁して欲しい。せめて、これからは分かれて生きることにしようではないか。
 いい加減、共生だのコミュニケーションだのといった偽善はやめて、分生社会の実現を目標にしませんか。今の科学技術力をもってすれば、決して難しいことではない筈です。そんなことを、本書を読み終えて考えました。
+++【ブログの主の関連する新刊】『夢の現象学・入門』(渡辺恒夫著、講談社新書メチエ、2016年7月刊)+++

2017年1月 1日 (日)

フッサール心理学(42):ジュリアン・グリーン作『ヴァルーナ』は自我体験と輪廻転生観の関連を示唆するの巻

■2017年1月1日『ヴァルーナ』(ジュリアン・グリーン全集3、高橋たか子訳、白水社、1979) を一昨日から読んでいて、案の定、というか、次のような自我体験("I-am-me"experience )事例に巡り合いました。

 ジュリアン・グリーン(1900-1980?)はフランスのカソリック作家ですが、拙訳『子どもの自我体験』の第2章に、自伝からの引用事例が収録されていることもあり、注目していました。

 実際、『Si j'etais vous(もしもあなたが私なら)』の序文には、幼少期の自我体験がこの作品のアイデアの元になったと記されていることは、本ブログの「フッサール心理学(32)」にも詳しく記しておいたし、アマゾンブックレヴューにも再録して置きました。

 この『ヴァルーナ』ですが、題名がインド神話の最高神から借りてきていることからも察せられるように、時代を超えた輪廻転生の話で、ユーミンの「リインカネーション」の歌詞そっくりの物語なのです。

 以下に引用するように、本作では自我体験は(正確には「意識の超難問体験」は)、16世紀フランス、ヴァロア王朝時代に生きる裕福な商人の娘、エレーヌに仮託されています。

「‥‥じつに奇妙な考えが頭に浮かぶので、そのことで自分の抱くのが恐怖なのか、認めることのはばかれる秘かな喜びなのかが、みきわめがつかなかった。『どうして、と彼女は考えた。どうして、私はベルトラン・ロンバールの娘であって、ジャム作りのとき台所を手伝いに来る水門管理人の娘フィネット・ルジュウールではないのだろう。同じように、私は、子どものころビール屋に拾われたジャクリーヌとか通りを物乞いに歩くあのベルトであっても、かまわなかったのではないだろうか。私が、ほかならぬ私だというのは奇妙なことではないだろうか』。」(p.92)
「ーーおにいさま、ふしぎではないでしょうか。私がエレーヌ・ロンバールであって、さっき共同牧場でいっしょに輪になって遊んだフィネット・ルジュウールでないというのは、私が男の人で、海を越えていく舟乗りでないというのも変じゃないでしょうか。暗い小さな部屋で書き方を習っている小娘ではなしに。
 ーーなるほど、これは奇妙なことを考える、とウスターシュ・クロシュは言った。青緑色の目が輝きだした。おまえの心をとらえているその神秘のことは、いつか説明してやろう。いや、話を聞けば聞くほど、おまえは鋭いところがあるみたいだ。なあ言ってごらん、そんな気の利いた考えが、ほかにもその頭にあるのかね。
 --ありますとも、とエレーヌは答えた。これほど謹厳な学のある男が注意をこめて耳を傾けてくれることに、有頂天になっていた。もっと奇妙な考えだって心に浮かぶことがあるんです。ほかの人であってもいいんじゃないかっていうのと同じように、私がまた、ほかの時代に、過去でも未来でも、生きていたかもしれないということなの。‥‥いつかお話ししてくださったダゴベール王の時代に生きたのではなく、このアンリ王さまの治世に私が生きているのは、どうしてかって、いつも考えるのです。」(pp.113-114)
■自我体験(意識の超難問体験)と輪廻転生観の関係が、ここにも示唆されています。
 「ほかの時代ではなく、外ならぬこの時代に生きているのはどうしてか」の疑問の可能な解答は、「実は私はほかの時代にも生きていたけれど、憶えていないのだ」というものだから。
 このような論理的関係が明瞭に示唆される事例としては、稲垣足穂事例に次ぐものといえます。
 それにしても、ジュリアン・グリーンにはこのような豊富な自我体験事例が見つかるのに、自我体験事例を集めて史上初めて報告したジャン・ポール・サルトル『ボードレール』に、グリーンからの引用がないのは解しがたいことです。5歳しか違わない先輩作家のことを、読んでいなかったはずはないと思うのですが。

2013年3月31日 (日)

フッサール心理学(「独我論の現象学」改め)(13):30年以上前に出した短編集が「SF奇書天外」なる本の中で紹介されていたの巻

■30年以上前に仮名で出版した『楕円の鏡:幻想小説集』が、『SF奇書天外』なる本の中で紹介されていた! 

 という、私にとっては驚天動地の話を今回はする。フッサールとも独我論とも直接関係がないようだが‥‥
 先日、近くの市立図書館で借りた『SF奇書天外』(北原尚彦、東京創元社、2006)という本を何気なくめくっていた。著者のことも、この本のことも、それまで知らなかった。単に、題名にひかれたのだった。
 内容は、横田順也の『SFこてんこてん』の戦後版ということで、戦後すぐから始まって、1950年代、60年代、70年代と、これはと思う「SF奇書」を片っ端から紹介していく。SF好き、奇書好きの私としては、けっこう楽しめた。
 ところが、80年代に入って、嬉野泉という、なにやら見覚えのある作家名を目にするころから、不吉な予感がしてきた。嬉野泉さんとは、私が一人でSF同人誌を出していたちょうど同じころ、やはり一人でSF同人誌を出していた、本業は医師のアマチュア作家ではなかったか。
 不吉な予感は、次の頁で的中した。なんと、私にとっては処女出版であったが、その後さしたる反響もなく忘却の霧の中に置き去りにしてきたつもりだった作品集が、表紙の写真入りで紹介されているではないか!
 紹介文を抜粋すると‥‥
 ++++
 渡辺恒人『楕円の鏡』(近代文藝社、1982年)は「幻想小説集」と副題の付された短編集。解説はなんと荒巻義雄。(中略)
 「新・セラフィタ」は、未来世界の両性具有者を描いたジェンダーSF。非常に美しい両性具有のセイラは、ひと月の半分を女性として、残り半分を男性として生きていた。セイラは「反対側の性の自分」を愛するあまり、異常な計画を思いつく。
 それから時を経て、セイラは伝説の人となっていた。ひとりの少年ミチルは、小さな頃の記憶がなかった。そして、ルミエという少女の幻を見る。やがて、隠された秘密が明らかになる‥‥。背景として、性的に現在と異なる社会が描かれているが、この時期にこのようなジェンダーSFが、同人作家によって書かれていたとは。(中略)
 本書も、≪SFアドベンチャー≫で書評され、また≪幻想文学≫第11号(1985年6月刊)の「幻想SF50選」に選ばれている。
 作者は高知の人で、1986年の第13回星群祭(前述のSF同人誌≪星群≫が主催していた年次大会)では、ゲストの一人ともなったらしい。(pp.252-253)
 ++++
 というわけだ。
  いやあ、ホントにびっくりしました。あの作品集が、SF的な幻想小説だとは思っていても、SF奇書の範疇に入るなんで、夢にも思っていませんでした。とにかく、自分では忘れたつもりだった30年まえの作品集を、ちゃんと取り上げて紹介してくれる人がいることに、感謝、です。
 けれど、悪いけど、どうもこの人、少し取材力が足りないな、と思わないではいられない。確かに、私はこの本の中では、個人の同定につながるような、略歴などの手がかりを、一切残していない(これは同人作家の中ではどうやら例外的だったらしい)。けれども、ペンネームといっても「夫」を「人」にしただけの一字違いだし、今ならグーグル検索で容易に、正体を暴けるハズなのだから。「この時期にこのようなジェンダーSFが、同人作家によって書かれていたとは」という謎も、簡単に解けた筈なのだから。
 そう、その4年後に、ジェンダー論を本名で出版しているのだから。
 
■独我論と関係のある「新・セラフィタ」
 とここまで書いてきて、「新・セラフィタ」は独我論と大いに関係があることに、我ながら今頃だが気付いた。つまり、独我論的な愛の形を描いているのだから。
 
≪この項、未完≫
+++【お願いェブサイトにも著作権があります。引用の際はこのウェブの著者名:渡辺恒夫を明記の上、このURL名も必ず併記して下さい。+++
 

2009年1月 4日 (日)

コミュニケーション障害・社会不安障害・対人恐怖・独我論的体験(その7):優れた臨床心理学者とは

 2009年1月4日 

■図書館にて
2,3ヶ月前のこと、市の図書館でたまたま『「臨床心理学」という近代』(大森与利子著、雲母書房)という本を手にとって、パラパラとめくっているうちに、次のような一節が目にとまった。

   以前、筆者は短大の講義の中で、学生たちにひとつのビデオを視聴させた。どうしても人の輪の中に入れず戸惑っている幼稚園児が、次第に溶け込み、果ては自己主張するまでに至る経過を克明に記録した調査ビデオである。そのビデオを視聴した感想文の中に、「なぜひとりでいることは駄目なのですか。このビデオは、ひとりでいること=悪、人の中にいること=善、という大前提で作られていて、ひとりでいることが好きな私には、とても抑圧的な思いだけが残りました」という印象深い記述があった。ほとんどの学生が、幼稚園児への安堵感と共感という《無難な感想》を記したわけだが、この学生の問題提起は、筆者の既成概念に楔を打ってくれたのである。例の『心のノート』だが、この学生が抱いたようなきわめて本来的な懐疑や批判精神を育成していくことが可能だろうか。(p.316)

 「同感!」と言いたいところだが、いろいろひっかかるところがある。こんなビデオ、作る方も作る方だが、学生の感想文を読むまで気づかないで見せるほうも見せる方だ。私は自分の講義では、「自分の性格が良くないから改善したいという人が時々いるが、そもそも性格に優劣はないので改善するという考え方じたいが間違っている」と言うことにしている。
 もちろん、適応的な性格と適応的でない性格があるが、何が適応的で何がそうでないかは、時代と場所とによって変化する。その典型が「オタク」で、20年前には幼女連続殺人事件の宮崎勤が代名詞だったが、今では世界に誇る文化に成長した。

■コミュニケーション・スキルというアイデア

  もっとも、時代が変化するのを待っているわけにもいかないし、就職難のご時世では自分に適した職業に就けるとは限らない。そこで、よいアイデアだと思うのが、「コミュニケーション・スキル」というヤツだ。性格は自己に属するので、変えようとすると自分で髪の毛を持ち上げて宙に浮かぼうとするようなことになってしまうが、スキルならば訓練でレベルアップできる。また、コミュニケーション・スキルなどというと、とかくおしゃべりの能力だと思われがちだが、英語で電子メールをやり取りする能力など、現代ではたいへん重要なコミュニケーションスキルだろう。

■心のノートと河合隼雄氏

 話を元に戻すと、引用した文章の中でもう一つひっかかるのは、終りの方で『心のノート』が槍玉にあがっていて、文章全体が「心のノート」を批判する構造になっていることだ。ここに、「政府・自民党」(笑)のやることならとりあえず(口先だけでも)反対しておこうという、インテリの世界を支配する体制化した反体制意識を感じてしまう、というのは言いすぎだろうか。
 さて、「心のノート」を作成するのに中心となったのは、当時、文化庁長官だった河合隼雄氏だと言われている。人間的にも学問的にも色々問題のある人物だと思うが、ユング心理学を日本に導入した功績だけは、認めなければならない。25年ほど前、けっこう臨床心理学の勉強をしていた頃、その河合隼雄が主任教授をしていた京大の臨床心理教室に、1年間だけだが内地留学をしていたことがある。その時の印象深い経験を書いておきたい。

■内向性が外向性より高く評価される世界

 大学院のゼミで、ある院生がアメリカ人の論文を紹介したところ、河合教授の下で当時、助教授をしていた山中康裕さんが、論文を批判して、「このヒト(=論文の著者)、外向性なんじゃないですか」と言ったのだ。院生たちは、爆笑した。その時、私は悟った。この教室は、内向性が外向性よりも高く評価されるという、現代ではまことに稀有な世界であることを。
 少しでもユングを齧った人なら周知のことだが、内向ー外向というのはユングの作った性格概念だ。ユングは、愛人を何人も作ったりとなかなか社交的な人物だったが、関心が内面にもっぱら向いているという意味で、自分自身を典型として「内向性introversion」という性格類型を象ったと言われている。そんな内向性の概念が、アメリカ心理学に導入されて変質し、今では世間のイメージとして自閉性だの引きこもりだのと同一視され、あげくにSAD(社会不安障害)などと病名を付けられ投薬治療の対象になりつつあるなどと、もしユングに予測できたら腰を抜かしただろう(もっとも、アメリカ旅行の経験を通じ、アメリカ社会が外向性に傾きすぎていると、警告を鳴らしてはいたが)。

■伊東博さんのニューカウンセリングの想い出

 似たような体験を、それから数年の後、伊東博さんの主催するニューカウンセリングの講習会でしたので、それも付け加えておく。湯河原のホテルに4泊5日で泊り込んでの講習で、参加者には看護婦(当時の名称)の方も何人かいられた。ちなみにニューカウンセリングとはロジャースのエンカウンターグループに、ヨーガとネイティヴアメリカンの儀式を混ぜたような身体技法を加えたもの、といったらよいだろうか。その最後の日に、参加者一人一人が感想を述べる段になって、20代後半とおぼしい女性が、「内向的な自分の性格を外向的に変えたいと思って参加したけど、終わる今となって、やっぱり自分は内向的なんだなアと感じています」といった発言をしたのだった。
 私は、オヤオヤ、外向性=善、内向性=悪という既成概念を絵に描いたような発言だなあと、内心のけぞったものだ。伊東さんの方を盗み見ると、無表情のまま、(他の人の感想には一言コメントをしていたのに)何も言わず、すぐに次の人の感想に移っていった。
 ひょっとしたら、当時70歳の高齢だった伊東先生は、内心、少しばかり悲しんでいたのかもしれない。身体感覚への気づきを通して自分を世界へとひらいてゆくというニューカウンセリングが、内向性を外向性に「改善」するなどという、皮相な適応目的で期待されていただなんて。

■優れた臨床心理学者とは

 2例だけを出したが、その他の色々な経験を併せて、私は、優れた臨床心理学者は、「ひとりでいること=悪、人の中にいること=善、という大前提」とは無縁なばかりか、そのような既成概念と闘ってきた人たちだ、と思っている。今でこそ臨床とはすっかり無縁になってしまったが、学生のころにフロイト、ユングから多くを学び、今でも尊敬の念を抱き続けている一人として、臨床心理学の名誉のためにも、これだけは言っておきたい(ちなみに、『図解深層心理が面白いほどわかる本』(中経出版)は、題名がやたら通俗的だが、中身は夢を中心にフロイト、ユングのエッセンスを取り出して現代科学へ結びつけた「超・読みやすい学術書」であり、私なりのフロイト・ユングへのオマージュだ。)
 それが、冒頭の引用文にあるような、トンデモビデオが作られるなんて。私が臨床とは無縁になったこの20数年の間に、日本の臨床心理学界に何かが起きていたのだろうか。

 なお、冒頭の引用だが、全体を完読せずに一節だけ取り出しての批判なので、いささか公正さを欠いていたかもしれない。的外れなところがあったら著者にはお詫びしたいし、この記事の読者には、私の批判が当たっているかどうか、実物に当たって確かめることをお勧めしておく。とにかくこのところ、分厚い本を通読するような余裕がまったくなくなってしまっているから困ったものだ。

 ++++++この項続く+++++++

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2008年6月10日 (火)

石山寺詣、あるいは物語・夢・現実

2008年6月9日。   

 昨日は、滋賀の石山寺に行った。080608_1008

 正確に言うと、滋賀大での学会のついでに、そこからバスで5分ほどの石山寺を訪れたのだった。(左写真:多宝塔)

 石山寺といえば、紫式部が滞在していた処という位しか知識がなかったが、本堂の背後の山全体が、蓬莱山さながらの池あり堂宇あり菖蒲園ありの迷宮になっていて、想像していたより規模の大きなお寺だった。

080608_1034  中腹にある別院で、源氏物語の絵巻物類の展示も見た。説明書にとても興味の引かれるくだりがあった。(左写真:紫式部像)

 紫式部は虚構を描いて人を惑わした罪で地獄に堕ちたという説が一方であるが、それに対抗して石山観音の化身説があるという。源氏物語を書いたのも、この世は夢だということを人に悟らせるための方便だという。080608_1049

 これは、私がかつて、二、三十年前に幻想文学に耽っていた頃に考えたことに似ている。すぐれた物語には、この現実以上の現実性を感じることがある。「この本の中には、第二の現実が、もう一つの人生が、この現実世界以上に真実性のある現実が、詰まっている……。」(左写真:無憂園)

 080608_1042 したがって、物語と実人生の関係は、夢と昼間の世界の関係に似ている。ただし、誰か他の人になって現実よりも真実性のある人生を生きる夢から覚めた時に、ときおり、新たな、よりつまらない夢に入り込んでしまったと感じるように、優れた物語を読み終えて我に還ったときには、よりつまらない(真実度の低い)別の物語がまた始まってしまったかのように、感じるのだ。(写真:八大竜王社)

 これはけっして比喩ではない。

 私が宇宙の中のいま、ここにいる特定の知的生命体として生きる世界が終れば、他の特定の知的生命体として生きる世界が新たに始まるという、輪廻転生の唯心論的解釈によると、夢と現実とは対等の存在権能を持つのだから。

 生まれ、死ぬことを無限に、くりかえすことは、めざめても目覚めても無限に目覚めても、また新たな夢の中にいることなのだ。

 ****************この記事、未完*************

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2008年2月21日 (木)

コミュニケーション障害・社会不安障害・対人恐怖・独我論的体験(その6):『会話分析・ディスコース分析』の著者よりの返事

2007/12/31付の記事(コミュニケーション障害・社会不安障害・対人恐怖・独我論的体験:その4)で、『会話分析・ディスコース分析』(新曜社、2007)を取り上げたところ、著者の鈴木聡志氏からメールがあった。以下に、鈴木氏の了解を得て、全文を引用させていただく。

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渡辺恒夫先生

東京農大の鈴木です。

この度はブログに拙著の感想をお書き頂きありがとうございます。今年に入って公私ともに忙しくなり,返事が遅くなりましたことをお詫び申し上げます。

>ようやく、日本人の手になる本格的な研究書が出たのは>、ともあれ喜ばしい。

お誉めいただき恐縮です。

>けれども、この学派に対する違和感は、もとのままだ。>つまり、会話分析を通じて心的概念が構成される現場を>押さえるというこの潮流は、元々、おしゃべりな人間
>向きのものではないかという疑いを、抱かないではいら>れないのだ。

同様の疑念は私ももっています。ディスコース心理学の提唱者たちにとって言葉とは第一に話し言葉のようです。しかし私を含めて東アジア人は書き言葉を重視してきました。この点で書家の石川九楊氏の考えがずっと気になっています。氏によると人間が書くのではなく,書くことによって人間主体がつくられるのだそうです。拙著の計画段階では,書くことによる主体や自己の形成も論じるつもりでしたが,力が及びませんでした。
 この問題が,先生のブログ中にある,「テクストから抽出された自己」と関係あるかどうかはわかりません。ただ,ラスコー洞窟の壁画を描いた人は描くことによって以前とは違う自己になったように思えます。

>「間」を構成する感覚要素は何なのかは分からない。少>なくとも、会話を録音して記号に移して分析するという>、ディスコース心理学の網にはかかってこないことは確>かと思える。

2つ異論があります。第一に,「間」はディスコース心理学の網にかかるかもしれません。先生は若い女性と外国人男性講師との間にコミュニケーションが成り立ったのを見たとのこと。ディスコース心理学や会話分析の研究者なら,どのようにしてコミュニケーションが成立したのかを分析すると思われます。拙著では妄想症患者のコミュニケーションを分析した研究を紹介しましたが,健康な者が統合失調患者にもつとされるプレコックス感とは木村敏氏のいう「間」が崩壊した感覚と思われます。コミュニケーションの成立も崩壊も,ディスコース心理学の網にかかる可能性があると私は考えています。
 第二に,もしディスコース心理学が新しい心理学の体系をつくろうとしていると先生がお考えなら,それは誤解です。認知革命以後の心理学が内面によって心理現象を説明しようとしてきたことに対する異議申し立てが,その提唱者たちの動機のようです。内部にあるとされている認知や自己を対人関係の領域に引っ張り出してみよう,それでどこまで説明できるかやってみよう,という試みが彼らがやっていることだと私は理解しています。ですから彼らは認知や自己で心理現象のすべてを説明しようとする傾向には批判的ですが,それらの存在を否定しているわけではありません。
 同様に生物学的基盤も否定していません。

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<![endif]>ーーこの項、続くーー

2007年12月31日 (月)

コミュニケーション障害・社会不安障害・対人恐怖・独我論的体験(その4)

 2007年12月31日

 先日、『会話分析・ディスコース分析』(鈴木聡志著、新曜社、2007)という本を、著者よりいただいた。先日といっても、もう何ヶ月か前のことで、冬休みに入ってようやく一読の機会をえて、ここに記すのである。
 心的概念とは社会的に構成されるものではないかというヴィトゲンシュタインの示唆に基づいて、実際に会話記録をもとに心的概念が構成されるプロセスを示してくれるという心理学派があることを知ったのは、もう十年前のことだった。その後、外国の学会などで、この、discursivepsychology関連のシンポジウムがあれば出席してみたりしていたが、ようやく、日本人の手になる本格的な研究書が出たのは、ともあれ喜ばしい。
 けれども、この学派に対する違和感は、もとのままだ。つまり、会話分析を通じて心的概念が構成される現場を押さえるというこの潮流は、元々、おしゃべりな人間向きのものではないかという疑いを、抱かないではいられないのだ。
 電車の中で、隣で交わされている会話に耳を傾けてみることがたまにある。けれども、いったいぜんたい何が話されているか、わかったためしがない。日常会話をそのままテープに記録して聞いてみると、まるで意味をなさない、という話を聞いたことがある。つまり、会話とは意味あるやり取りではなく、単に絆を確かめ合う行為に過ぎないからだ。その意味で、会話によって心的概念が社会的に構成される以前の、サル同士の毛づくろいの機能を果たしているのだろう。会話を文章化して分析しても、コミュニケーションの現場を押さえることは難しいのではないだろうか。
 「そんなことを言うのなら、心的概念はいったいどこから来るのか。まさか、<内面>の表現が心的概念だなどと、古臭い二元論を引っ張り出そうとするのではないだろうね」----。こう反論する声が聞こえて来そうだ。私はそれに対し、心的概念は自然界に由来する、と答えたい。青空に雲が浮かんでいるのを見て、「雲が楽しそうに空を泳いでいる」と思う。幼児にとってはきっと、文字通り「雲が楽しく泳いでる」のだ。そして、自分も浮き浮きした気分になる。思わず、「タアー」といった声を出す。それが、「楽しい」という言葉の起源となる。
 同じように、今にも泣き出しそうな空を見て、自分も落ち込めば、その時発した声が「悲しい」という言葉の元になる。喜びも、悲しみも、すべての心は自然界に内在する。これは、大森荘蔵が晩年に到達した、アニミズムに他ならない。
 こういった話を、心の科学の基礎論研究会で顔を合わせる(私より若いという意味での)若手哲学研究者の水本正晴さんにしたところ、それはクオリア外在説ですね、と言われた。最近、欧米の哲学界でも力を持ち始めている説だそうだ。確かに、脳がクオリアを生み出すという説にも、クオリアとは社会的に構成された言語上の産物に過ぎないという説にも無理がある以上、クオリアは最初から世界に実在し、それを私が抽出するのだ、という説が注目されてゆくのは、当然に思える。
 ただし、自然界からはけっして抽出できない概念がある。「自己self」という概念がそれだ。私は自己という概念は、テクスト(書いたもの)から抽出された概念だと密かに考えている。すると無文字文化の人々には自己がなかったということになってしまうが、ラスコー洞窟の壁画のようなものも、広い意味でテクストと考えることができるだろう。
 コミュニケーションの話に戻るが、英会話スクールに行っていた頃、ヴォキャブラリーも貧弱で、まともにはしゃべれない筈の若い女性と、外国人男性講師の間に、突然コミュニケーションが成り立ってしまうのを見たことがある。二人の間のやり取りはまったく聞き取れなかった。何かしら目にも見えず耳にも聞こえない「場」のようなものが、二人の間に突然成立したような印象を受けた。
 後から思い返して、これが、木村敏のいう「間」というものだな、と思い当たった。「間」を構成する感覚要素は何なのかは分からない。少なくとも、会話を録音して記号に移して分析するという、ディスコース心理学の網にはかかってこないことは確かと思える。むしろ、生物学的水準の同類認知(同種認知がより正確か?)のようなものが基盤にあると私は思う。
 三人以上の集団でいて、突然、他の人々の間には「間」が成立していて、自分だけがのけ者になっている、という体験を今までくり返ししてきた。このような経験が嵩じると、次に引用するような「独我論的体験」になってくる。

【事例4-6】小学校低学年-小学校中学年-小学校高学年; きっかけ,状況などは特になく,ただ学校,都市,国,世界の中の自分一人というものを見たとき,自分以外の人間はすべてグル(仲間というか,自分以外の人間たちはすべて顔見知り)と感じ,さらに自分は自分以外のすべての人に行動を監視されているのではないか,とも感じた。これは今もごくまれに感じることがある。(<私の死>の謎:世界観の心理学で独我を超える』、p.134)
 
 これが独我論と何の関係があるのか、と思う向きもあるだろうが、最近、ようやく、哲学からの拝借を脱して心理学独自に定義するのに成功した独我論的体験の定義によれば、歴とした独我論的体験なのである。この定義については、3月刊行予定の『質的心理学研究』第7号、138-156に、「独我論的体験とは何か」(渡辺恒夫著)として論じておいた。
 独我論的体験とくれば、その類縁の自我体験、自我体験の核心部分をなす「超難問体験」、さらには自我体験と独我論的体験における色んなタイプの「自明性の破れ」のダイナミックな相互作用の結果として発展する「輪廻転生観」と来る。最近、三浦俊彦氏が、『多宇宙と輪廻転生』という力作を送ってきたので、そのうち取り上げたい。

 ■■■■■■この記事、続く■■■■■■

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