映画・テレビ

2017年2月11日 (土)

夢の現象学(116):『君の名は。』を見て夢の現象学者として考えるーー他の誰かになる夢・意識の超難問・可能世界

『君の名は。』を見て夢の現象学者として考えるーー他の誰かになる夢・意識の超難問・可能世界(by 渡辺恒夫)
■ひと月遅れになるが、正月に噂のアニメ『君の名は。』(新海誠監督)を見たが、噂にたがわぬ傑作と思った。
 東京の男子大学生と飛騨の山村の神社の娘である女子高生とで、心が入れ替わるという、マンガでよくある話ということに(世評では)なっているが、実際はかなり複雑だ。
 まず、両人とも最初は、「他の誰かになる夢」を見たと思い込むのである。「いやにリアルな夢だな」と、両人とも「夢」の中で呟く場面もある。そのうち、3年前に隕石の落下で飛騨のある山村が全滅したことが原因で、時間がねじれ‥‥というように、SF風の展開になるが、これ以上はネタバレになるのでやめておく。ただ、「君の名は。」という題名の由来については一言しておきたい。
 お互いの実在を知って現実世界で会おうとするのだが、それまではよく知っていたはずの相手の名が、急速に忘却の彼方に消えてしまうので、「君の名は‥‥」と心に叫ぶのだ。これなど、夢をみた後の忘却体験に似ている。製作者は、夢というものをよく知っていると感じた。
■他の誰かになる夢の発生頻度
 この、「他の誰かになる夢」だが、そんな夢を見たことのないという人にはお伽話としか思えないだろう。けれども私が自分自身の夢を調査した「当事者研究」では、この8年ほどの間にブログに書いた100例を超える夢記録の中で、13例を「他の誰かになる夢」としてカウントしている(1)。
 「他の誰か」の内訳は、大学の同僚のような「実在他者」になる夢が3例、名探偵金田一耕助のような「虚構他者」になる夢が5例、あとの5例は「虚実不明他者」に分類された。
 「虚実不明他者」の中で最も印象深かったのは、見知らぬアパートに「別人」として住んでいるという夢である。別人というのは、夢の中では自分の名前を自覚していて、それが「渡辺恒夫」ではないことが確かだと、醒めてから判断したからだ。『君の名は。』と同じで夢の中の名前は思い出せないながら、奇妙なリアリティがあった。
 見知らぬアパートに住んでいる「実在の誰か」であったかのような現実感。だから「虚実不明他者」に分類した。
■他の誰かに入れ替わるという小説『私があなたなら』(ジュリアン・グリーン作)
 このように、夢の中では他の誰かになることが可能である。けれど、『君の名は。』では、夢ではなく現実に、実在の他者と入れ替わっているのだということが、おいおい分かってくる、という設定になっている。
 入れ替わり、特に男女の入れ替わりネタは、最近のマンガの一つのジャンルになっているくらいで、さして珍しくないかもしれない。けれども、正統的なヨーロッパ文学の中では珍しい。そんな珍しい本格的な入れ替わりものを、昨年、読んだ。『私があなたなら"Si j'etais vous"』というタイトルが付いている。1946年の出版だ(2)。作者のジュリアン・グリーンはフランスのカトリック文学を代表する作家で、日本でも全集が白水社から出ているが、それほど一般に知られているわけではない。
 孤独で貧しい青年が、ある晩、魔法使いの老人に、謎のパーティに誘われる。パーティの主は、悪魔の化身としか思えないのだが、青年に、唱えて相手の身体に触ると、その相手と心が入れ替わってしまうという呪文を授ける。
 青年は翌朝さっそく出勤すると、社長と入れ替わって銀行に行き、大金を引き出して大金持ちになる。ところが老人の身体なので内臓が痛む。そこで行き当たりばったりに屈強そうな若者に入れ替わる。ところがその狭小な脳髄では、呪文はおろか自分が誰だったかさえも憶えていられず、「情婦」の家に押しかけて口論の果てに誤って絞め殺してしまう。追われる身になった青年の前に魔法使いの老人が現れ、もっと入れ替わる相手を選べとお説教する。
 こうあらすじを書くと、なにやら筒井康隆風のドタバタSFみたいだが、驚いたのは、「序文」に、この小説の構想は、子どもの頃、「なぜ自分はジュリアン・グリーンであって他の誰かではないのか」という謎の疑問に悩まされたからだ、とあったからだ。
  この疑問は、意識研究や心の哲学では「意識の超難問」と呼ばれる(3)。発達心理学や臨床心理学では、子どもの頃にこのような問いに悩まされる子どもが一定の割合でいることが明らかにされており、「自我体験」という名で調査研究が進められているのである(4)。
■「意識の超難問」の意義に反発する学生たち
 この自我体験の調査では苦い思い出がある。二十年ばかり前、理科系大学の教養クラスで、自我体験のアンケート調査を行ったことがある。「なぜ私は私であって隣町の他の誰かや違う時代の他の誰かとして生まれなかったのか、といったことを考えたことがありますか」といった質問項目を十個ばかり並べて、Yes回答の場合は最初に考えた頃の記憶を(たいていは子どもの頃の)、できる限り詳しく思い出して記述してもらうというものだ。
 ところが、中に、「なぜ他の誰かとして生まれなかったのかだのと、そんな問い自体、身体と心が別であることを前提とした無意味な問いだ~」という反発が、二つほどあった。ともに生物系学科の女子学生からの回答だったと思う(5)。
 私は考え込んでしまった。そして思ったのは、それは逆ではないか、ということだった。心身が別という二元論的な観念から他の誰かに生まれるという想像が出てくるのではない。むしろ、他の誰かに生まれるという想像が可能だからこそ、心身が別という観念が、その想像の可能な帰結の選択肢の一つとして出てくるのではないだろうか、と。
 他の誰かになる夢に私が注目するのは、夢の中で他の誰かになることがあるからこそ、現実世界の中でも、「もしも私が他の誰かとして生まれていたら」という想像が可能になり、そのような想像が「なぜ私は他の誰かではないのか」という意識の超難問を呼び起こすのではないか、と考えるからだ。
■可能世界論と「他の誰かになる夢」
 自分が他の誰かである想像の有意味性は、分析哲学の最新潮流である「可能世界論」によっても論証することができる(6)。
 可能世界論とは、元々、「偶然」「必然」といった、日常語にはあっても論理学では扱えなかったような様相概念を、論理記号で扱えるように発展した、分析哲学の最先端領域だ。
 「A=A」、「1+2=3」といった論理的数学的言明は、「必然的に真」である。それが偽となるような世界は想像可能でないからだ。これに対して、
 「2011年に東日本大震災が起こった」という言明は「偶然的」に真である。2011年でなく2012年に起こったような世界は想像可能だし、そのような想像には論理的矛盾はないからだ。可能世界論ではこれを、
必然的に真: 全ての可能世界においてそれは真である。
偶然的に真: それが真あるような可能世界が少なくとも一つは存在する。
と定義し、論理演算のできる式で表現する。
 「偶然的に真」ということはまた、別の角度から見れば、反実仮想が可能、ということでもある。「もしも東日本大震災が起こらなかったら」「もしも私がもっと背が高かったなら」といったことを、私たちは有意味なこととして口にする。そのような時は、反実仮想の世界を、可能な世界として思い描いているのである。
 英語に反事実的条件法という構文があることを、知っている人も多いだろう。"If I were you, I would ....."という形式の文で、もっぱらアドヴァイスをする時に使われる。「もし私があなたなら、進路先には電通でなく公務員を選ぶだろう」といった具合だ。先ほど紹介したジュリアン・グリーンの『私があなたなら"Si j'etais vous"』という本の題名も、そのフランス語版に他ならない。
 だから、「他の誰かに生まれていたなら‥‥」という想定は、可能世界論からみても十分有意味な言明ではないか。
■他の誰かになる夢とは、可能世界の現実化である
 私が「他の誰かとして生きている」世界が可能世界として存在する。すると、他の誰かとして生きているような夢とは、そのような可能世界をかいまみた夢、ということなのだろうか。
 否。「かいまみた」などという言葉を使うと、「こちら側」の現実界から「あちら側」を覗くという、此岸と彼岸の二分法に陥ってしまう。
 直截に、他の誰かになる夢とは可能世界の現実化である、と言うべきではないか。
 そんなことを、『君の名は。』を見てから考えた。
:
■参照文献
 (1)渡辺恒夫『夢の現象学・入門』講談社選書メチエ, 2016。
 (2)ジュリアン・グリーン『私があなたなら』原田武/訳、青山社、1979 (Julian Green: "Si j'etais vous", Minui, 1946)。
  (3)三浦俊彦「意識の超難問の論理分析」 『科学哲学』35-2, 69-81.2002.
 (4) ドルフ・コーンスタム『子どもの自我体験ーーヨーロッパ人における自伝的記憶』渡辺恒夫・高石恭子/訳、金子書房、2016。
 (5)渡辺恒夫「『私は5億分の1の確率で生まれた』は本当か?」 『科学基礎論研究』  24, 13-19, 1997.
 (6)三浦俊彦『可能世界の哲学』NHK出版、1996。
 

2014年3月22日 (土)

フッサール心理学(22):最近世を去ったアラン・レネ監督の『去年マリエンバートで』は、世界の迷宮性を体験させてくれる名作だの巻

■2014年3月6日。昨日、アラン・レネ監督死去のニュースを見た。

 高校の頃、当時、新宿文化シアターで、アラン・レネ監督の『夜と霧』『二十四時間の情事(註、原題の「ヒロシマ、わが恋人」は魅力的なのに、なんてひどい邦訳題!』、『去年マリエンバートで』を、立て続けに見たことがある。
 特に『マリエンバートは、私が見た範囲では映画史上の最高傑作であることは疑えない。ストーリーらしいストーリーもない。ルードヴィッヒ三世(だったかな?)が建てたマリエンバート城の迷宮のような内部を、ナレーションに合せてカメラがゆっくりと移動してゆくだけなのだが。そのナレーションが、「迷路の奥の扉の奥には秘密の部屋が待ち、壁の扉からまた別の迷路が始まり、さらに秘密の部屋に続き‥‥」といった調子だった。ヌーボーロマンの旗手、アラン・ロブグリエが脚本を担当していた。
 私は完全に魅せられて、陶酔状態になってしまった。映画館を出ても、ビルの壁に秘密の扉が隠されて迷路につづき、地下鉄の入り口の中にも迷路が続き別の秘密の扉が開、というように感じられた。陶酔は4,5日は続き、そのあいだ世界が迷宮と感じられた。
  ちょうど半世紀の後の今日、世界の迷宮性はいよいよ増してきていると感じられる。遍在転生観を、形而上学的にではなく語る言葉を見出せない限り、私は迷宮のなかで死を迎える運命にあるのだから。
 <この項、未完>
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