アニメ・コミック

2018年10月20日 (土)

フッサール心理学(51):涼宮ハルヒは自我体験の夢を見たか

■涼宮ハルヒは自我体験をしたか?

ハルヒワールドのことを考えながら歩いていると、擦れ違う高校生の集団の中にもふつうにSOS団の面々がまじっているような錯覚に襲われる今日この頃です。
 などというと、それっていつの時代のこと?なんて突っ込みが入るかもしれません。でも、先日三浦(俊彦)さんからの連絡で、原作ハルヒシリーズに続編が、7年ぶりで出ることになったことを知りました。↓

https://mainichi.jp/articles/20180925/dyo/00m/200/005000c

「ザ・スニーカーLEGEND発売日は10/23。(あさってのことじゃないか!) 

 だからハルヒネタも、もうすぐ再びアップトゥデートなトピックスになるのです。
 さて、『涼宮ハルヒの憂鬱』のDVDシリーズを見ていて4巻目か5巻目で、不意打ちを食らって仰天したエピソードがあります。
 ハルヒが珍しく内省的になって小学6年の時の思い出を語るのですが、野球場に行って余りの人の多さに驚き、自分が今まで何か特別の存在だと思っていたという思い込みを覆され、それ以来世の中が面白くなくなってしまったというのです。
 この回想に私は、自我体験っぽいところを感じました。
 そもそも私にハルヒシリーズを薦めてくれた三浦さんの近著『エンドレスエイトの驚愕:ハルヒ@人間原理を考える』(春秋社、2018)を読んでいて、このエピソードを引用しつつ、自我体験に絡めて考察しているくだりがあったので、まず紹介しておきます。
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 「私は野球なんかに興味なかったけど、着いて驚いた‥‥見渡す限り人だらけなのよ。
‥‥私なんてあの球場にいた人ごみの中のたった一人でしかなくて、あれだけたくさんに思えた球場の人たちも、実は一掴みでしかないんだってね。
 それまで私は、自分がどこか特別な人間のように思っていた。‥‥でも、そうじゃないんだってその時気づいた‥‥
 私が世界で一番楽しいと思っているクラスの出来事も、こんなの日本のどの学校でもありふれたものでしかないんだ。日本全国のすべての人間から見たら、普通の出来事でしかない。そう気づいたとき、私は急に私の周りの世界が色褪せたみたいに感じた。‥‥途端に何もかもがつまらなくなった。そして、世の中にこれだけの人がいたら、その中にはちっとも普通じゃなくて面白い人生を送っている人もいるんだ。そうに違いないと思ったの。それが私じゃないのは何故?‥‥」
 ‥‥
 ハルヒのこの「覚醒」は、発達心理学でいう「自我体験」の反転型である。自我体験では、「たくさんいる人間の中でなぜこの人間だけが私なんだろう」‥‥というふうに、「私の特殊性」「私の一回性」が不思議感をもって体験される(渡辺 2009、コーンスタム 2017、天谷 2011)。自意識の覚醒の一形態と言えるだろう。ハルヒの体験では、逆に「たくさんいる人間の中でなぜこの私は特別でないんだろう」という「私の平凡性」が不満のタネである。これは自我体験の文献に明確な報告のある症例ではないようだが、自意識の覚醒の一種には違いない。(同書、pp80-81)
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■ハルヒの体験に似たオランダ人女性の体験例
 拙著と拙訳書も参考文献に挙がっているのは光栄ですが、拙訳の方にオランダ人女性の似たような事例が一つだけあるので、お目にかけます。
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【およそ八歳 他の場所にも人が、物凄く大勢の人がいた】
私がほぼ八歳の頃のことでした。おばあちゃん・おじいちゃんの家に滞在した帰りのこと。父と母と妹と私で車に乗って家路についていました。夕方で外はすでに暗くなっていました。私はうとうとしながら、ときおり車窓から外を眺めていました。‥‥車窓の外にたくさんの灯が見えた時のことでした。最初私は、街灯かと思ったのですが、数が多すぎました。私は両親に、どうしてあんなに灯がいっぱいあるのか尋ねました。あれは家々の(高層住宅の?)灯で、人々がそこに住んでいるのだ、という答が返って来ました。私は大きな衝撃を受けました。だって、そんなことってあるかしら。その瞬間まで、私の世界は、ヘーネマイデン村と、おじいちゃんおばあちゃんの住む小さな地域に限られていたのですから。もっともっとずっと沢山あったのだ!このことは私には脅威に感じられもしましたが、同時に好奇心を掻き立てられることでもありました。(コーンスタム著『子どもの自我体験』渡辺恒夫・高石恭子(訳)、金子書房、2014、pp.162-163)
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 ハルヒ事例とこのオランダ人女性の事例を改めて見比べて、両者とも自我体験と言うには微妙なところかな、という気がします。
 参考までに、私が自我体験調査のために作成して使用していた、自我体験の定義と判定基準を掲げます。
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表 自我体験の定義と判定基準(渡辺恒夫『自我体験と独我論的体験』北大路書房、2009、p,95、表4-2より抜粋)
・自我体験の定義(def):なぜ私は私なのかという問いを中心に,それまでの自己の自明性が疑問視される体験,および,この疑問に解決を与えようとする思索の試みであって,自己の独自性・唯一性の強い意識を伴うこともある.
・判定基準:①を含む2つ以上の基準を満たしていること。基準②以下の完全詳細は第3章参照のこと。
①自己が何らかの形で主題となっていること。
②突発性 普段の生活とは連続しない特殊なエピソードとして回顧されていること。具体的には「ふと」「突然」「瞬間」などの表現によって,その体験が生じたときの「唐突さ」や「脈絡のなさ」が記述されていること。……
③違和感 何か理解しがたいことが生じている,あるいは,その体験が普通でない,という独特の感じが伴うこと。……
④孤立と隔絶 自分という存在が,全ての他者,さらには世界全体と対置され,自己の孤立性や例外性が強く意識されていること。……
⑤自己の分離 自分という存在が2つに分離して感じられたり考えられたりしていること。……なおこの基準の適用に際しては,定義に基づき,それまでの自己の自明性に対する違和や懐疑が認められるかどうかをチェックした。……
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 この定義・判定基準に照らすと、オランダ女性事例は自我体験未満になります。自己の自明性が揺らいだわけでもないし、体験自体、常識的に言って理解できなくはないのですから。
 これに対してハルヒの体験は、何となく常識では理解しがたいところがあります。「自分がどこか特別な人間のように思っていた」にしても、「それが私じゃないのは何故?‥‥」にしても、そんな風に考える子どもが、そこらにいるものでしょうか。
 他方、ハルヒ体験を自我体験に入れるのに躊躇するのは、「なぜ私は私なのか」という問いが見られないからです。
 ここで、自我体験とオモテウラの関係にある、「独我論的体験」の判定基準を見てみます。
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表 独我論的体験の判定基準(同上書、p. 表5-1より抜粋)
下記基準中、①④を含む2つ以上の基準を満たしていること。
①自己が何らかの形で主題となっていること。
②突発性 普段の生活とは連続しない特殊なエピソードとして回顧されていること。具体的には「ふと」「突然」「瞬間」などの表現によって,その体験が生じたときの「唐突さ」や「脈絡のなさ」が記述されていること。
③違和感 何か理解しがたいことが生じている,あるいは,その体験が普通でない,という独特の感じが伴うこと。
④孤立と隔絶 自分という存在が,全ての他者,さらには世界全体と対置され,自己の孤立性や例外性が強く意識されていること。
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 この判定基準に照らすと、ハルヒの体験は、独我論的世界から脱却することで、それまでの世界が独我論的として意識された体験、ということになります。
 独我論と言えばふつう、自分以外の他人が意識無きゾンビだという世界観を意味します。
 けれども私は、自我体験・独我論的体験の調査をしていくうちに、心理学的な意味での独我論的体験に独自の体験構造は、他者に意識がないと思う処にあるのではないと気づいたのです。
 すべての他者に意識がない世界でなら自分にだけ唯一、「意識」がある。すべての他者に意識がある世界でなら自分にだけ唯一、意識だけではなく「超意識」がある‥‥というように、すべての他者とは一段レベルの高い意識を、自分一人だけに設定するという、自己の唯一性の自覚にこそ、独我論的体験の本質があるのです(拙著『フッサール心理学宣言』講談社、2013)。
 従って、イエス・キリストのように、無時間的な唯一神が時間的世界に人間として生誕したという化身教義の世界観もまた、独我論的体験として解しうるのです。誰にでもある「意識」に加えて、自分には唯一神であるという「超意識」がある、とイエスが自覚していたらの話ですが。独我論的体験という語がふさわしくないというのであれば、「自己の唯一性体験」と言い換えてもいいです。自我体験も独我論的体験も、この体験から派生したものとして、統一的に理解できますから。
 ハルヒもまた、他人はゾンビだなんて考えたことすらないでしょう。けれども、「自分がどこか特別な人間のように思っていた」という幼少期の思い込みが覆されてもなお、「それが私じゃないのは何故?」と新たに執拗に問いかけるところに、自己の唯一性の根深い自覚が潜んでいるように思うのです。
 そのように考えれば、ハルヒシリーズで、古泉君ら超能力者の機関が、世界が3年前にハルヒによって創造された故に、ハルヒを神とみなしていることとも、付合するのです。創造神は世界の外部にいなければならないわけではありません。化身教義によれば、永遠の唯一神だって、人として生まれて世界の内部で人として死ぬことがありうるのですから。
<この項、続く>
●●●『人文死生学宣言:私の死の謎』(渡辺恒夫・三浦俊彦・新山喜嗣/編、春秋社、2017)好評発売中●●●

2018年9月14日 (金)

フッサール心理学(50):『涼宮ハルヒの消失』に感動し、「優しい忘却」の歌詞を掲げるの巻/コミュ障の現象学から見た長門有希

■劇場版『涼宮ハルヒの消失』をDVDで月曜の夜に見て以来、3日。いまだ感動から醒めやらずにいます。

 ことの発端は、『人文死生学宣言』(春秋社、2017)を共に編集した三浦俊彦氏から、新著の『エンドレスエイトの驚愕』(春秋社、2018)を贈られたこと。
 「涼宮ハルヒの憂鬱シリーズ」論なのですが、今までこのアニメシリーズを見たことがなく、それじゃ見なくちゃ、と世田谷に泊まり込みに行くたびにツタヤから借り出して、9巻目か10巻目。まがうことなき名作に出会ったのです。

 ハルヒシリーズは、宇宙人と未来人と超能力者しか興味がないという女子高生涼宮ハルヒが、退屈しのぎに超常現象を見つけ出すために結成した、SOS団という北高サークルが中心となって進行します。
 団員は他に4人ですが、語り手のキョンだけが普通の男子高校生で、他はハルヒの願望通り、宇宙人(長門有希)と未来人(朝比奈みくる)と超能力者(古泉)から成ります。宇宙の進行を乱す潜在能力を秘めたハルヒを監視するために、それぞれの「組織」から遣わされたのです。
 キョンはその正体を打ち明けられています。現にハルヒの巨大な潜在能力のせいで、閉鎖空間に閉じ込められて透明巨人が暴れたり、夏休みの期間が回帰して終わりなき夏休みになったりします。そのたびに、宇宙人と未来人と超能力者の必死の修復作業で元に戻るのですが、ハルヒだけは気づいていません。退屈な学園生活が続いていると思い込んでうんざりしているのです。だから「憂鬱」とタイトルについているのです。

■10巻目ぐらいに現れる『劇場版涼宮ハルヒの消失』では、ある朝、キョンが登校すると、ハルヒの姿がないばかりか、誰もハルヒも古泉君も知らない、ということになっている所から始まります。
 上級のクラスにいる朝比奈みくるに会いに行っても、SOS団のことなど知らない、と言われる始末です。

 やがてハルヒと古泉君は、北高ではなく別の高校の生徒になっていたことが分かります。やはり二人とも、SOS団のことなど知らないというのです。

 最後の望みをかけて、キョンはSOS団の部室に向かいます。そこは元々文芸部の部室でしたが、唯一の部員だった長門有希もろとも、「元の世界」のハルヒが乗っ取って、SOS団の部室にした部屋だったのです。
 ドアをあけると、居ました。眼鏡をかけた長門有希が、いつもの通り本に読みふけっています。無口で非社交的で鬱なキャラもそのままに。
 やがて、キョンは大変なことに気づきます。
 元々、長門有希の正体は、銀河を統括する情報統合思念体のヒューマノイド型端末だったはずです。ところが今や、人間になっていることに気づいたのです。無感情なアンドロイドだったはずが、感情豊かで内気な文学少女になっているのです。そして、「文芸部入部届」という書類を恥ずかしそうにキョンに渡します‥‥

■元の宇宙人長門有希が残していった手がかりを辿って、キョンにも真相がつかめてきました。
 SOS団の騒がしい団長、ハルヒのいないこの世界は、長門有希の巨大な能力によって元の世界から分岐した時間流だったのです。
 でも、何のために任務に背いてまでそんなことをしたのでしょうか。
 元々、長門の能力は三人の中でもぬきんでていました。その能力によって世界の崩壊を防ぎキョンを守ってきたのです。けれどもキョンの関心は派手なハルヒや朝比奈みくるに向かい、無口で無表情の長門の働きは当然視され、存在も無視されてしまっていたのです。
 そこに、アンドロイド型端末だった筈の長門の感情が、自我が目覚めたのです。
 きっと長門有希は、ハルヒのいない世界で、キョンに恋してみたかったのでしょう。
 でも、キョンは、元の、ハルヒとSOS団の、てんやわんやの世界の方を選びました。元の世界の長門がキョンに選択肢として残していった鍵を使って。
 せっかく長門有希が人間の少女として生き始めた世界は、こうして消え去ったのです。

■やがて感動のラストシーンが来ます。
 元のアンドロイドに戻った長門と並んで、雪が舞い出す中で、キョンは「ゆき」と口走ります。これまで長門有希を、「長門」としか呼んで来なかったキョンがです。でも、続けて、「ゆきが降ってる」と言うのです。
 この場面で長門有希役の茅原実里によって歌われるエンディングソングを引用しておきます。有希の切ない想いそのままの歌詞ですね。「消える世界にもわたしの場所がある」なんて。インターネット上では、この場面で泣きましたという記事が少なからず検索できますが、同感です(なんだかアンデルセンの「人魚姫」を思わせる話だし)。

「優しい忘却」
望むことは何?
わたしが問い掛ける
なにもいらない 嘘ではなかった
消える世界にも
わたしの場所がある
それをしらない 自分でさえも
閉じ込めた意識は

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時を結び
願いを繰り返す
また会うまで 忘れないで
巡る日々の中
わたしに残るのは
記憶 それとも 忘却だろうか
やがて世界には
眠りが訪れて
ひとり ひとりの あしたに帰る
選ばれた未来を
見送る扉
願いが叶っても
忘れないで 忘れないで
消える世界にも
わたしの場所がある
それを知らない 自分でさえも
思い出すまでは…
(作詞:畑亜貴
作曲:伊藤真澄
編曲:虹音
歌詞原案:谷川流
歌:長門有希[茅原実里])
(『公式ガイドブック 涼宮ハルヒの消失』ニュータイプ編、角川書店、2010、pp.172-173)
:
■「コミュ障の現象学」から見た長門有希
 三浦さんのような分析哲学的アプローチとは別になりますが、私は長門有希という魅力的なキャラに、始めたばかりの「コミュ障の現象学的当事者研究」の視点から*、深甚なる興味を覚えました。
  *「コミュ障(人づきあいが苦手)の批判的ナラティヴ現象学」(渡辺恒夫著)という論文が、『質的心理学研究』(№18)に掲載予定です。2019年3月、新曜社より発売予定。
 ラスト近く、すべてが長門有希の暴走の結果だと知ったキョンは、こう独白します。
 記憶をたどって引用するとーー「なんで情報統合思念体ともあろうものが、長門にもっとちゃんとした設定をしてやらなかったんだよ。あんな無口で鬱な娘なんかでなくって、朝倉涼子(註:情報統合思念体反主流派が送り込んだヒューマノイド型端末)みたいに、社交的でクラスでも人気者にだって設定できたのに‥‥」(註1)
 グサリときました。どんなに長門有希が「ルックスはA-級」に描かれ、しかもオタクたちの間でハルヒもみくるも及ばない人気を誇っているからといって、「ふつう」の高校生のキョンからしたら、「ちゃんとした設定ではない」としか見えないなんて。
 また、朝比奈みくるの大人ヴァージョンが、美貌で有能な時間パトロールとしてしばしば現れるのですが、その彼女にもまた、長門は、「あのひとちょっと苦手なんですけど」と評されます。
 なぜ苦手かを解釈すると、長門はガールズトークができないからです。
 ガールズトークに限らず雑談の会話というものは、録音してテープ起こしてみると、ほとんど意味をなしていないことが分かるそうです。だから会話の機能は情報を伝達することではなく、絆を確かめ合うことにある、というのが最近の学説です。
 長門は3年前に地球に「舞い降りた」のだから、絆などあるわけありません。
 それならなぜ、キョンとの間にコミュニケーションが成り立つのかというと、彼女は今まで、身を挺してキョンを護って来ました。それが任務だからです。
 コミュ障の特徴として、他愛のない雑談はできないが、仕事の上の会話はしっかりできる、ということがあります。
 長門はいわば仕事を通してキョンとの間に絆を作ったのでしょう。
 でも、ハルヒのいる世界では、彼女にとってキョンとのそれ以上のコミュニケーションは、極めて困難です。コミュ障は、三人という組み合わせを特に苦手とするからです‥‥
■長門有希に未設定の社交性機能って何?
 色々、考察をならべてきましたが、同じようなインターフェイス用ヒューマノイド型端末である、朝倉涼子は違っています。
 設定が違うのです。
 ウィキペディアを読んでいて、続編(涼宮ハルヒの驚愕)の紹介で、長門には社交性機能が設定されていず、自分でも残念に思っているらしい、といった記載が目に留まりました。
 社交性機能っていったいなんでしょう。
 これは、私自身への問いかけでもあります。なぜなら私もまた、社交性機能未設定のままで生涯を終えることになりそうだから。現象学的に厳密に言えば、「社交性機能未設定の渡辺恒夫が私である世界はそのまま遠からず終了になる」のだから)。
 だから「コミュ障の現象学的当事者研究」を始めたのです。

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