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2018年12月 8日 (土)

夢の現象学(154):夢二題/ハルヒ神学vs長門神学(3):涼宮ハルヒは自我体験の夢を見たか(続編)

■2018年12月3日(月)早朝。

 夢を見た。
 どこかの学会か研究集会にいた。スピリチュアル系というか、ボディーワークなどの実習を中心とした研究集会だった(註1)
 夢の中でいたのは学会後の懇親会か何かの会場で、イス席でない畳敷か板敷の広い部屋だった。そこで私はある年配の参会者に、自分のヨーガを診てもらったのだった。
 故・佐保田鶴治師直伝の座ったままできる床上体操にアーサナをいくつか組み合わせた起きぬけにベッドの上でやる15分ぐらいの自作コースを披露したのだった。
 ところがこき下ろされてしまった。そしてなぜヨーガをやったのかと訊かれてしまった。
 「なぜ‥‥をやるのか」という問いはいささか失敬な問いではないか、と、夢の中で思ったのか目が覚めてから思ったのかははっきりしない。とにかく夢では、近くにいたその人物の高弟といった人の講習会に出るがよいとか勧められたような気がする。「高弟」の方は明らかに私より年下だし、年配の権威者の方だって、同い年ぐらいかもしれない、などと思った。この辺で目が覚めた。あまり後味の良くない夢だった。
(註1) 私はこの種の集会に出ている夢を時々みる。
 だいぶ前には、この系統の学会では研究発表には出ずに付属の実習セッションにだけ出るといったことを、しばしばやっていたものだった。中で印象に残った収穫としては、20年以上前のことだが、駒沢大であったトランスパーソナル心理学・精神医学会で、スリランカから来た僧侶の指導でヴィパッサナ瞑想法を習ったこと。「私は今、ここにいる」と心の中で唱えながら室内をグルグル回るというものだった(と記憶している)が、自己意識を極限まで強めてはじめて自己を超越できるという意だと思った。これは現代の仏教研究の成果とも合致する。仏教本来の教えは、自我が存在しないという「無我の説」ではなく、何を自我と思ってもそれは自我ではないという「非我の説」だというのが定説になっているから。

 この夢で連想するのは、佐保田老師の高弟で京都にいた頃けっこう親しくしていた番場一雄先生の動静を最近は聞かないと思い、ひと月ほど前にネット検索したことだ。なんと2002年に亡くなっていたことを知ったのだった。
 享年66歳。心疾患が原因の急逝らしい。
 番場先生と言えば1980年代末に出された最初の著書を、高価なのに贈っていただいたことがあった。当時は私も、今は亡き朝日ジャーナルから時々は書評依頼がくる立場で、今年のお勧め10冊の特集企画にその本も取り上げたことがあった。今から思えば、その特集号を送って差し上げたら喜ばれただろうに。そうしておけば、その後何となく疎遠になってしまうこともなかっただろうに、などと後悔したものだった。
 それにしても66歳は、当時の男性平均寿命にもはるかに及ばない。それと関連して、沖正弘氏が64歳でガンで死去ということも知り、さらに、ヨーガ行者短命説があるのも知った。私としては、元々虚弱なのにこの年まで寝込むようなこともなく活動していられるのも、ヨーガを細々ながら続けていたおかげだと思っているのだが。
 たぶん、ヨーガ行者に一般的な菜食主義には、現代医学界が薦める適度の肉食を交えた日本食ほどには、寿命を延ばす効果がないということなのだろう。逆にいえば、みんながベジタリアンになれば、近年の天井知らずの平均寿命の延びもかなり抑えられて、超高齢化対策にもなるのではないかと、怪しからぬことをひそかに思っているのだが。
 ちなみに私自身は、一度はベジタリアンをめざしたのだが、日本社会の現状では周囲との軋轢が酷くなりそうだったので、早々に撤退してしまった。
■2018年12月4日(火)。
 夢を見た。どこかの学会のような会場にいた。まず、見知らぬ人に挨拶され、配布物や色刷りの名刺を渡された。これから発表するのだという。
 それと関係があるかどうか分からないが、何かの企画が(相変わらず)私の知らないうちに進行中らしかった。T大環境科学科(当時)の金田先生や大島さんもいたような。
 それから何がどうなったかは思い出せないが、何やらある場所に競争で行くことになった。途中の道筋には私は心当たりがあった。洞窟のような奥まった区画に、保育園のように子どもの遊具や絵本がおいてあって、ほっそりした男性の店主(?)がいるのだった‥‥。
 そのようにすでに土地勘があるので、ぐるっと壁にそって刻まれたような道を行くと、ぶっちぎりの一番乗りか。洞窟の奥まった部屋。子どもの家(保育園?)みたいに遊具や色々な家具道具で囲まれた一区画。
 「ここですか、今日の目的地は」と私は、(この夢の中でのみ)見覚えのあるほっそりした店主をその区画に見出して、尋ねる。
 「そうです」
 あとは憶えていない。
 なんとも取りとめもない夢だが、目が覚めて思い返すとこの「ある場所に行く」までの道筋の様子は、むかし行ったことのある、ディーズニーランドでの、シンデレラ城の内部を連想させる。特に最後の、ピノキオの部屋を。
 ピノキオといえば、人間になりたかった(実際、ある朝、目が覚めると人間の男の子になっていた)木の人形なのだが、ここでどうしても、人間の少年に思いを寄せる宇宙人製アンドロイド少女のことを連想してしまう。
 というわけで次に、その長門がらみで涼宮ハルヒについて述べる。
■ハルヒ神学vs長門神学(3):涼宮ハルヒは自我体験の夢を見たか(続編)
 10月11日付ブログ記事(フッサール心理学(50)涼宮ハルヒは自我体験の夢を見たか)の続きを書く。
 まず、最近参加している「フランス語圏発達心理学を原書で読む会」のテキスト、ピアジェ(J. Piaget)『子どもの世界観』の原書”La représentation du monde chez l'enfant”( P.U.F.)を読み進めて行くうちに、面白い記述に出会ったので、試訳引用しておく。
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 子どもの「自己中心性égocentrisme」が「世界が自分のまわりを回っていると子どもに信じさせる」(p.124)。
 我々の友人の一人であるある教授は、子どもの頃に長い間、次のような信念を抱いていた(我々に語る以前には誰からも隠していたのだが)。彼は世界の《支配者》、すなわち、太陽も、月も、星々も自分の《所有物である》と。(p.125)
Nain (4歳半):「お月さまは、自分が行きたいところに行くの?それとも何かで動かされているの?」《それ〔動かしてるの〕はボクだよ。ボクが歩くときにだよ。》さらにこう言った《お月さまはボクと一緒に来るんだ。ボクらについて来るんだ。》(p.125)
 ジェームズは、教師になった聾唖者の例を引用している(彼は三人称で自分の回想を物語っている)。‥‥《‥‥どうして月は規則正しく出るのかと、彼は驚きをもって自問した。そして、ただ自分ひとりに会うために出るのに違いないと考えた。それ以来、彼は、月に話しかけるようになり、彼女〔フランス語luneは女性名詞〕が自分をみてほほ笑んだり眉を寄せたりすると想像した。ついには、月が見える時に限って頻繁に鞭うたれることに気がついた。あたかも彼女が自分を見張っていて、悪さをすると監督者に知らせているかのようだった(彼は孤児だった)。彼はしばしば、月はいったい誰なのだろうかと考えた。そしてついには、自分の母なのだと信じるにいたった。なぜならば、母が生きていた時には月を見たことがなかったから。‥‥》(p.127)
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 とくに最後のジェームズからの引用が面白い。これらの例を見ていると、ハルヒの、小学6年の時に崩壊してしまった自己の唯一性という世界観も、子どもの自己中心性の一例と思えてくる。
 ここから自我体験が生じるためには、客観的世界が成立してからも、一度崩壊したはずの自己の唯一性が新たに反省的に甦り、両者の間の矛盾葛藤が意識されなければならない。ハルヒにもたしかに、矛盾葛藤があった。けれどもそれは、「なぜ私は大勢の中のひとりが私という唯一性をもって存在しているのか」という問いには向かわず、「なぜ私は大勢の中のひとりに過ぎず、唯一ではないのか」と反転してしまう。つまりここでは、唯一性が甦るのではなく、決定的に見失われてしまっているのだ。
 ハルヒの体験は、自我体験というより、子どもの自己中心性が崩壊する体験と見た方がよいのだと思う。

■付記 ハルヒシリーズファンにそっと秘密ネタを教えます‥‥

 下記の『人文死生学宣言』という本の執筆陣には、「消失世界」で涼宮ハルヒと古泉君が進学した高校のモデルとなった学校の先生が加わっています。
 今度会った時にでも、2003年ごろに涼宮ハルヒと古泉一樹という生徒が在籍していなかったか、尋ねてみるつもりです。
 もし在籍していたら、この現実世界とは「消失世界」であり、長門有希は世界を改変したのではなく元に戻したのであり、ハルヒの力によって宇宙人製有機アンドロイドにされていた自分を、元の人間に戻したのだという、「長門戻った説」(三浦、2018、p.161)が正しいことになるのです!?
●●●『人文死生学宣言:私の死の謎』(渡辺恒夫・三浦俊彦・新山喜嗣/編、春秋社、2017)好評発売中●●●

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