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2018年10月の記事

2018年10月30日 (火)

夢の現象学(150):ハルヒワールドに何やら関係ある夢を見たの巻

■2018年10月28日(日)
 夢を見たが、メモしようと思った時点ですでにぼんやりしてしまっていたので、とりあえず、ぼやけたままに以下のようにメモしておいた。

 ハルヒ 二択の一
 K(氏名) バイオ実験 黒地に白い字
 高知大正門 自転車(or車を運転か?)
 ハルヒシリーズ第3期
 ハルヒワールドが背景になっているようだった。
 二択の一というのは、『涼宮ハルヒの消失』に出てくるのだが、主人公のキョンと呼ばれる男子高校生が、ハルヒが消失して代わりに人間の少女になった長門有希との平穏な「改変世界」を選ぶか、それとも元の、銀河を統括する情報統合思念体の対有機生命体コンタクト用ヒューマノイド型インターフェース(笑)であった長門と共に、ハルヒが無意識に生み出す超常現象の解決のために奔走するてんやわんやの「元の世界」を選ぶかの、二者択一を迫られるシーンに関係していたような気がする。
  次の黒地に白い字というのも、同じ映画に出てくるシーンで、元の世界の長門が、本に挟んだ栞の裏側に、改変世界からの緊急脱出プログラムを入手する方法を書いておいた、それをキョンが読む場面を思い出させる。
 次に、なにやらバイオ実験の現場に立ち会っていたような。元の大学の同僚でバイオの専門家のK教授もいたような。
 場面が跳んだのか、バイオ実験を(K教授と私が数年前まで在籍していた東邦大ではなく)、高知大でやっていることになっていたのか、高知大正門の光景が出てきた。(今まで何度も夢に出てきた)そのだだっ広い近辺を、自転車か車を運転して走っていた。
 最後の、ハルヒシリーズ第三期というのは、アニメではこのシリーズは第二期までしか出ていないが、『消失』以後の原作は続いていて、アニメ版第三期への期待がネット世界にあるので、それに影響されたのだろう。
 あるいは、この夢自体が、ハルヒシリーズ第三期の一部、ということかもしれない(画像は西宮市立中央図書館でのキョンと長門有希)。

Nagatokyon_toshokan

■付記 ハルヒシリーズファンにそっと秘密ネタを教えます‥‥
 下記の『人文死生学宣言』という本の執筆陣には、「消失世界」で涼宮ハルヒと古泉君が進学した高校のモデルとなった学校の先生が加わっています。
 今度会った時にでも、2003年ごろに涼宮ハルヒと古泉一樹という生徒が在籍していなかったか、尋ねてみるつもりです。
 もし在籍していたら、この現実世界とは「消失世界」であり、長門有希は世界を改変したのではなく元に戻したのであり、ハルヒの力によって宇宙人製有機アンドロイドにされていた自分を、元の人間に戻したのだという、「長門戻った説」(三浦、2018、p.161)が正しいことになるのです!?
●●●『人文死生学宣言:私の死の謎』(渡辺恒夫・三浦俊彦・新山喜嗣/編、春秋社、2017)好評発売中●●●

2018年10月20日 (土)

フッサール心理学(51):涼宮ハルヒは自我体験の夢を見たか

■涼宮ハルヒは自我体験をしたか?

ハルヒワールドのことを考えながら歩いていると、擦れ違う高校生の集団の中にもふつうにSOS団の面々がまじっているような錯覚に襲われる今日この頃です。
 などというと、それっていつの時代のこと?なんて突っ込みが入るかもしれません。でも、先日三浦(俊彦)さんからの連絡で、原作ハルヒシリーズに続編が、7年ぶりで出ることになったことを知りました。↓

https://mainichi.jp/articles/20180925/dyo/00m/200/005000c

「ザ・スニーカーLEGEND発売日は10/23。(あさってのことじゃないか!) 

 だからハルヒネタも、もうすぐ再びアップトゥデートなトピックスになるのです。
 さて、『涼宮ハルヒの憂鬱』のDVDシリーズを見ていて4巻目か5巻目で、不意打ちを食らって仰天したエピソードがあります。
 ハルヒが珍しく内省的になって小学6年の時の思い出を語るのですが、野球場に行って余りの人の多さに驚き、自分が今まで何か特別の存在だと思っていたという思い込みを覆され、それ以来世の中が面白くなくなってしまったというのです。
 この回想に私は、自我体験っぽいところを感じました。
 そもそも私にハルヒシリーズを薦めてくれた三浦さんの近著『エンドレスエイトの驚愕:ハルヒ@人間原理を考える』(春秋社、2018)を読んでいて、このエピソードを引用しつつ、自我体験に絡めて考察しているくだりがあったので、まず紹介しておきます。
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 「私は野球なんかに興味なかったけど、着いて驚いた‥‥見渡す限り人だらけなのよ。
‥‥私なんてあの球場にいた人ごみの中のたった一人でしかなくて、あれだけたくさんに思えた球場の人たちも、実は一掴みでしかないんだってね。
 それまで私は、自分がどこか特別な人間のように思っていた。‥‥でも、そうじゃないんだってその時気づいた‥‥
 私が世界で一番楽しいと思っているクラスの出来事も、こんなの日本のどの学校でもありふれたものでしかないんだ。日本全国のすべての人間から見たら、普通の出来事でしかない。そう気づいたとき、私は急に私の周りの世界が色褪せたみたいに感じた。‥‥途端に何もかもがつまらなくなった。そして、世の中にこれだけの人がいたら、その中にはちっとも普通じゃなくて面白い人生を送っている人もいるんだ。そうに違いないと思ったの。それが私じゃないのは何故?‥‥」
 ‥‥
 ハルヒのこの「覚醒」は、発達心理学でいう「自我体験」の反転型である。自我体験では、「たくさんいる人間の中でなぜこの人間だけが私なんだろう」‥‥というふうに、「私の特殊性」「私の一回性」が不思議感をもって体験される(渡辺 2009、コーンスタム 2017、天谷 2011)。自意識の覚醒の一形態と言えるだろう。ハルヒの体験では、逆に「たくさんいる人間の中でなぜこの私は特別でないんだろう」という「私の平凡性」が不満のタネである。これは自我体験の文献に明確な報告のある症例ではないようだが、自意識の覚醒の一種には違いない。(同書、pp80-81)
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■ハルヒの体験に似たオランダ人女性の体験例
 拙著と拙訳書も参考文献に挙がっているのは光栄ですが、拙訳『子どもの自我体験』の方にオランダ人女性の、見かけ上似ている事例があるので、まずお目にかけます。
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【およそ八歳 他の場所にも人が、物凄く大勢の人がいた】
私がほぼ八歳の頃のことでした。おばあちゃん・おじいちゃんの家に滞在した帰りのこと。父と母と妹と私で車に乗って家路についていました。夕方で外はすでに暗くなっていました。私はうとうとしながら、ときおり車窓から外を眺めていました。‥‥車窓の外にたくさんの灯が見えた時のことでした。最初私は、街灯かと思ったのですが、数が多すぎました。私は両親に、どうしてあんなに灯がいっぱいあるのか尋ねました。あれは家々の(高層住宅の?)灯で、人々がそこに住んでいるのだ、という答が返って来ました。私は大きな衝撃を受けました。だって、そんなことってあるかしら。その瞬間まで、私の世界は、ヘーネマイデン村と、おじいちゃんおばあちゃんの住む小さな地域に限られていたのですから。もっともっとずっと沢山あったのだ!このことは私には脅威に感じられもしましたが、同時に好奇心を掻き立てられることでもありました。(コーンスタム著『子どもの自我体験』渡辺恒夫・高石恭子(訳)、金子書房、2014、pp.162-163)
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 ハルヒ事例とこのオランダ人女性の事例を改めて見比べると、やはりオランダ女性事例は自我体験未満であると分かります。
 参考までに、私が自我体験調査のために作成して使用していた、自我体験の定義と判定基準を掲げます。
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表 自我体験の定義と判定基準(渡辺恒夫『自我体験と独我論的体験』北大路書房、2009、p,95、表4-2より抜粋)
・自我体験の定義(def):なぜ私は私なのかという問いを中心に,それまでの自己の自明性が疑問視される体験,および,この疑問に解決を与えようとする思索の試みであって,自己の独自性・唯一性の強い意識を伴うこともある.
・判定基準:①を含む2つ以上の基準を満たしていること。基準②以下の完全詳細は第3章参照のこと。
①自己が何らかの形で主題となっていること。
②突発性 普段の生活とは連続しない特殊なエピソードとして回顧されていること。具体的には「ふと」「突然」「瞬間」などの表現によって,その体験が生じたときの「唐突さ」や「脈絡のなさ」が記述されていること。……
③違和感 何か理解しがたいことが生じている,あるいは,その体験が普通でない,という独特の感じが伴うこと。……
④孤立と隔絶 自分という存在が,全ての他者,さらには世界全体と対置され,自己の孤立性や例外性が強く意識されていること。……
⑤自己の分離 自分という存在が2つに分離して感じられたり考えられたりしていること。……なおこの基準の適用に際しては,定義に基づき,それまでの自己の自明性に対する違和や懐疑が認められるかどうかをチェックした。……
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 この定義・判定基準に照らすと、オランダ女性事例は、判定基準①「自己が何らかの形で主題となっていること」を充たさないので自我体験といえないことになり、『子どもの自我体験』の中の事例として収録されたのは不適当ということになります。自己の自明性が揺らいだわけでもないし、体験自体、常識的に言って理解できなくはないのですから。
 これに対してハルヒの体験は、何となく常識では理解しがたいところがあります。「自分がどこか特別な人間のように思っていた」にしても、「それが私じゃないのは何故?‥‥」にしても、そんな風に考える子どもが、そこらにいるものでしょうか。
 にもかかわらずハルヒ体験を自我体験に入れるのに躊躇するのは、「なぜ私は私なのか」という問いが見られないからです。
■ハルヒ事例・原自我体験・独我論的体験

 ここで、「それまで私は、自分がどこか特別な人間のように思っていた。‥‥でも、そうじゃないんだってその時気づいた」というハルヒの体験の中核をもう一度振り返ってみます。
 自分を特別な人間のように思っていたのは、主観的世界が、自分という唯一の視点を中心として同心円状に拡がっている世界だからです。ところが、何万と言う群集を目の当たりにして、その中では自分が大勢の人間たちの間の一人に過ぎないという客観的世界を発見したのです。
 自分がオンリーワン(唯一者)である主観的世界とワンノブゼム(多数者の一例)である客観的世界の矛盾の意識こそ、ハルヒの体験の驚きの核心なのです。
 そして、この主観的世界と客観的世界の矛盾の意識こそは、自我体験のさらに根源にある、原・自我体験ともいうべき体験なのです。
 この矛盾から、オンリーワンである自分がなぜワンノブゼムの一例に過ぎない特定の人間に結びついているのかという疑問、「たくさんいる人間の中でなぜこの人間だけが私なんだろう」という自我体験の問いが、派生します。
 けれども、原・自我体験から派生するもう一つの体験があります。
 それが、独我論的体験です(註1)
 独我論的体験では、「ワンノブゼムの一例に過ぎない特定の人間がオンリーワンである自分である理由は、この特定の人間が特別だからだ」と考えます。たくさんいる人間の中でこの人間だけが私である理由は、この人間が、「事実」特別だからなのです。
 独我論と言えばふつう、自分以外の他人が意識無きゾンビだという世界観を意味します。
 けれども私は、自我体験・独我論的体験の調査をしていくうちに、心理学的な意味での独我論的体験に独自の体験構造は、他者に意識がないと思う処にあるのではないと気づいたのです。
 すべての他者に意識がない世界でなら自分にだけ唯一、「意識」がある。すべての他者に意識がある世界でなら自分にだけ唯一、意識だけではなく「超意識」がある‥‥というように、すべての他者とは一段レベルの高い意識を、自分一人だけに設定するという、オンリーワン(自己の唯一性)の自覚にこそ、独我論的体験の本質があるのです(拙著『フッサール心理学宣言』講談社、2013)。
 従って、イエス・キリストのように、無時間的な唯一神が時間的世界に人間として生誕したという化身教義の世界観もまた、独我論的体験として解しうるのです。誰にでもある「意識」に加えて、自分には唯一神であるという「超意識」がある、とイエスが自覚していたらの話ですが。独我論的体験という語がふさわしくないというのであれば、「自己の唯一性体験」と言い換えてもいいです(註2)
 ハルヒもまた、他人はゾンビだなんて考えたことすらないでしょう。けれども、「自分がどこか特別な人間のように思っていた」という幼少期の主観的世界の思い込みが覆されてもなお、「それが私じゃないのは何故?」と新たに執拗に問いかけるところに、容易に覆されない自己の唯一性(オンリーワン)の根深い自覚が潜んでいるように思うのです。
 
註1 独我論的体験にも判定基準が用意してあります。
独我論的体験の判定基準(渡辺、2009、p.120, 表5-1より抜粋)
下記基準中、①④を含む2つ以上の基準を満たしていること。
①自己が何らかの形で主題となっていること。
②突発性 普段の生活とは連続しない特殊なエピソードとして回顧されていること。具体的には「ふと」「突然」「瞬間」などの表現によって,その体験が生じたときの「唐突さ」や「脈絡のなさ」が記述されていること。
③違和感 何か理解しがたいことが生じている,あるいは,その体験が普通でない,という独特の感じが伴うこと。
④孤立と隔絶 自分という存在が,全ての他者,さらには世界全体と対置され,自己の孤立性や例外性が強く意識されていること。
註2 そのように考えれば、ハルヒシリーズで、古泉君ら超能力者の機関が、世界が3年前にハルヒによって創造された故に、ハルヒを神とみなしていることとも、付合するのです。創造神は世界の外部にいなければならないわけではありません。化身教義によれば、永遠の唯一神だって、人として生まれて世界の内部で人として死ぬことがありうるのですから。

<次回予告 自我体験から出発して6歳にして独自の化身教義を創出した「事例エミリー」(ヒューズ『ジャマイカの烈風』)と、ハルヒ事例の比較考察を行う予定です!>
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2018年10月 5日 (金)

夢の現象学(149):「現実世界での過去の夢」が「夢世界での現実の過去」になるの巻/大聖堂様式の三越のファサードで重量を支えるスフィンクスが立ち上がるの巻

■2018年9月22日(土)。早朝。(11月下旬のはずの)質的心理学会沖縄大会に参加していた。なぜか一家4人揃っていた。

 そこは大きな日本旅館のホールのようなところだった(過去の夢で見覚えがあったような)。入場してくる顔見知りに挨拶をしていたが、「なぜかみんな精神科医だ」と思った。私の企画したシンポジウムのタイトルに「精神医学と現象学的心理学から見た‥‥」という文句がはいっていたからだろうか。同じシンポジストの新山さん(精神科医)もいたような。
 前後がはっきりしないが、やはり精神科医で、夢の中では知り合っていることになっている人物に挨拶された。
 名前がなかなか出てこない。
 それでも、頑張って何とか思い出して、「安田先生‥‥」とか言った。スピリチュアル系の研究会が、東海地方の山間の合宿形式であった時に見た顔だ(目覚めてからは、見知らぬ顔だと思った。研究会合宿というのも、「夢世界の中の現実の過去」にあったことになっているが、現実世界から見たら過去の夢のことだ)。
 そのあと、私がいる一画の群では、40年前に超心理学会で知り合ったやはり精神科医の長崎鋼典先生(故人)がいて、別の群の、やはり精神科医の誰かと引き合わせているところだった。その誰かが「安田先生」だったかもしれない。
 その後、家族が席を占めているテーブルに行き、長女と何やら出された料理の中の食べ物について話していた。後は思い出せない。
 (午前十時半。図書館側の喫茶にて)。
■2018年10月5日。京都にいた。人生の最終段階を迎え、京都で有料老人ホームに入っていたのだった。
 ホームは大部屋で、入居者同士が大勢で雑魚寝をするのだった。(かつて高知大に勤めていた頃によく利用していた宇高連絡船や、高知大阪南港間のフェリーの船室に似ていた)。そこで私は、寝言か譫言に見せかけて自分の死生観を、つまり遍在転生観を語ってやろうか、などと思っていた。
 次に憶えている場面では、ホームから外出して京都の町を散策していた。すると、右手に(地理的に北白川あたりだったと目覚めてから思ったが)、デパートが見えてきた。三越だった。現実の三越とは無関係の、ノートルダム大聖堂のような形をしたビルだった。建物のファサードの下部には、牛だか獅子だかの巨像が、スフィンクスのように蹲って建物を支えていた。
 さらに足を伸ばすと(地理的に下賀茂の辺りだったと目覚めてから思ったが)、やはり右手にまた三越があった。ほぼ同じ様式の建築だった(この辺で、三越1から三越2まで冬の夜になったら明かりに照らされて‥‥歩くのもいいな等と、ファイナルステージにそぐわないことを考えていた)。
 ただ一つ、違ったところがあった。ファサードの下部に蹲っていた牛頭スフィンクス巨像が、ここでは立ち上がっているのだった。
 私は(誰かはっきりしない)連れに、「あれ、このスフィンクスは、がんばって立ち上がってるよ」と言った。
 記憶では前の三越1でと同じく、この三越2でも、蹲った姿勢で巨大な建築を支えていたはずなのに。もしほんとうに、「がんばって」立ち上がったのだったら、超常現象じゃないか‥‥などと、考えたか連れに話したかした。
 そのうち目が覚めた。
■人生のファイナルステージという設定は、別件で2年ばかり抗ホルモン療法で治療を続けている上に、今週初めの病院の検査でポリープ摘出術を勧められたりして、いよいよその時期が近いなと実感したことが下敷きになっているのだろう。
 老人ホーム云々は、亡母を東京から同じ市内の老人ホームに入れて、訪問するごとに散策に連れ出した経験がもとになっているようだ。小奇麗なホームで、自分もその時になったら入れれば、などと思っていた。それも10年前のことになってしまったが。
 スフィンクスが立ちあがっていたというのは、故・横山光輝作の名作『バビル二世』の続きという設定の『バビル二世リターナー』というマンガで、そんな場面があったのが連想される。けれども、ノートルダム寺院の建築様式の三越デパートというのには心当たりがない。目ざめて思い起こすと、パリのノートルダムよりは、車で通って観光をしただけのベルギーの古都ゲントで目にした黒ずんだ古い聖堂建築の方に似ていた気がする。
 北白川から下賀茂上賀茂にかけての、つまり京都の北東の区画を歩いている夢は、何度も見ている。実際に京都に住んでいたのは十代末から二十代を通じてだったが、夢の中の京都は現実に記憶の中にある京都とは色々と異なっている。現実の京都とは独立に夢世界の京都がいつもどこかに存在していて、それが時々夢に出てくる、という感じだ。
 けれども、なぜ京都の老人ホームに入居して、外出すると大聖堂建築様式の三越が二つもあり、ファサードの下部で牛頭スフィンクスが建物の重量を支えていたりするのだろう。
 理解しがたいとしかいいようがない。
●●●『人文死生学宣言:私の死の謎』(渡辺恒夫・三浦俊彦・新山喜嗣/編、春秋社、2017)好評発売中●●●
●●●新感覚のオープンアクセスジャーナル『こころの科学とエピステモロジー』は、創刊に向けて原稿募集中です。詳しくは下記サイト参照
エピステモロジー (épistémologie)」はフランス語圏では、科学的知の批判検討を意味します。心理学を始め、精神医学、認知科学、脳神経科学、人工知能など、こころの科学と総称される領域全般に対して、批判的検討を加えることを主目的とします。詳しくは上記サイトよりダウンロードできる『創刊準備号』巻頭の「エディトリアル」を参照してください。
原著論文、研究企画、翻訳(以上は査読あり)、ブックレビュー、映像メディア時評、学会・研究会参加印象記、その他随想など幅広いジャンルの投稿を期待しています。投稿は無料です。詳しくは上記サイト中「Call for Papers」の「投稿・執筆規定」をご覧ください。

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