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2018年8月 8日 (水)

フッサール心理学(49):質的心理学会(沖縄)での「人文死生学シンポジウム」での企画趣旨案の巻

■今年(2018)の質的心理学会大会(沖縄県名護市、11月24日)で、「『人文死生学宣言』の誕生」という副題のシンポジウムを行うことが決まったが、私は話題提供を遠慮したので、代りに「企画趣旨」を限られた時間でいかに有効に語るかを考えている。


 順序としてはこうだ。
→まず自己紹介として、大会受付で展示販売中の『質的心理学研究』最新号に、「他者になる夢の現象学的解明ーーフッサール志向性論による主題分析」という論文を載せていることを紹介した後、次のように論理を進める。
→この論文は、現実では他者になれないのになぜ夢では他者になれるかを、フッサール現象学によって解明したものです。
→解明の結果、驚くべきことが判明しました。
→他者になる方法は、夢を見る以外に、もう一つあることが分かった。
→それは、
→私が死ぬことである。
→といったことが、『人文死生学宣言』の私が執筆した第4章「他者とは時間を異にする私なのか」に書いてあります。
■次に、死ぬことは生きることより無限に悪いという「死の害」の説について一言する。この説は、自然科学万能の風潮に追随し続けている現代英米哲学で流行っているらしいが。
→生よりも死の方が無限に悪いという感覚は、科学技術的合理性に貫かれた現代にあっては、生の日常性と死の非日常性の間の距離が無限となっている所に由来する。
→したがって生を非日常化することが、有効な「感性的」反駁となる。非日常性同士で、生と死の距離が縮まるから。
→生の非日常化は(私の場合)次のような道筋をたどる。
1)自己の唯一性の自覚(→他者のゾンビ化)。=非日常化!
2)それでも、自他の等根源性の要請を断念しない。
3)1+2→人間的世界経験の根源的パラドックスへの直面=非日常化!
4)パラドックス解決としての、「他者とは時間を異にする私」という死生観の展開
■最近、福島県の亡母の実家の叔母の葬式に行ってきた。
焼香から始まって出棺、焼場での骨拾い、斎場に戻っての酒宴と、伝統に則った式次第に参加して思ったことは、葬式仏教などと悪口を言われながらも、結構、生の非日常化に貢献しているのではないかということだった。
 葬儀のセレモニーは、確実に生を非日常化して死との距離を縮める。
 これは貴重な文化的伝統というべきだろう。
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