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2018年4月27日 (金)

フッサール心理学(47):ボーヴォワールの自我体験(意識の超難問体験)の巻/夢の現象学(143):恐竜のような長い首の列車に乗って高知に行くの巻

■シモーヌ・ド・ボーヴォワールの自伝シリーズ『決算のとき』の冒頭に、深い自我体験、しかもその中核となる「意識の超難問体験」を発見したので、引用しておく。

 毎朝、私は目をひらく前にすでに私の寝台、私の部屋をそれと認める。しかし私の住居で午後に眠る場合は、目を覚ます際に子供っぽい驚きを感じることがある。いったい、私はなぜ私なのだろうか、と。私をおどろかせるのはーー子供が自分の自己同一性を自覚するときのようにーー自分が現在ここに、ある別の人生のなかにではなく、この人生のなかにいるのを見出すことなのだ。どういう偶然からそうなのだろうか。自分の人生を外から眺めるとき、私にはまず自分が生まれたことがありそうもないことに思われる。一定の精子と卵子の合体、それが私の両親そして彼らのあらゆる祖先たちのまず生誕を、ついで出会いをもたらしたのだが、それはそれぞれ何億に一つも実現する可能性はなかったのだ。また、科学の現状ではまったく予見しえない偶然によって私は女に生まれた。ついで、私の過去の各瞬間においても何千という異なる未来が可能だったと考えられる、たとえば病気にかかって学業を中断するとか、サルトルに出会わなかったとか、その他なんでもよい。この世界に投げ出されて、私はその諸法則、その偶発的諸事件に従属し、他者たちの意志、そのときどきの情勢や歴史に左右されてきた。したがって私が自分という存在の偶然性を感じるのは正当である。私に眩暈を起こさせるのは、それでいて同時にそれが正当でないことなのだ。かりに私が生まれていなかったとすれば何の問題もないはずだから、私は自分が存在するという事実から出発しなければならない。そしてもちろん、私が、かつてそうであった者の未来は、私を現在とはちがった者にすることも可能であっただろう。しかしその場合は、その別の私が自己についてせんさくすることになるわけだ。これが私だ、と自分に向かって言う者にとって、〔別の私という〕同時併存の可能性は存在しないのだ。主体とその歴史とのこの必然的な一致は、しかし私の当惑を解消するのに充分ではない。親しくてしかも遠い私の人生、それは私を定義・限定すると同時に私はその外にある。この奇妙なもの〔私の人生〕は正確にいって何なのだろうか?(『決算のとき 上』(朝吹三吉・二宮フサ/訳、紀伊国屋書店、1973), p.9(Simone de Beauvoir: Tout compte fait. Gallimard, 1972))
 ボーヴォアールといえば『第二の性』が有名だが、そんな表向きのイメージとは別の、こんな深い形而上学的な体験を記していたなんて。ますますボーヴォアールが好きになった。
 もっとも、同様の体験を出発点としているジュリアン・グリーンは読んでいたと思うが。
■2018年4月27日。夢を見た。恐竜のような長い首の列車にのって、高知に行ったのだった。首は多数の節から成っていて、ロボットの恐竜といった趣だった。
 場面が変わり、喫茶店にいた。トイレが店内にないことが分かっている。女性客が、トイレに行くのか、店を出る。続いて私も出る。店の両隣とも、店ではなく普通の民家だが、普通というより京都の紅殻格子の民家のようだ。先の女性客の姿は見当たらない。そのうち目が覚めた。
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エピステモロジー (épistémologie)」はフランス語圏では、科学的知の批判検討を意味します。心理学を始め、精神医学、認知科学、脳神経科学、人工知能など、こころの科学と総称される領域全般に対して、批判的検討を加えることを主目的とします。詳しくは上記サイトよりダウンロードできる『創刊準備号』巻頭の「エディトリアル」を参照してください。
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コメント

最近出版され最近読んだ西平直先生の「誕生のインファンティア」と岡ノ谷一夫先生の「脳に心が読めるか?ー心の進化を知るための90冊」にほぼ自我体験と言っていい事例が記載されていて、自我体験がかつてより市民権を得てきたのか得てきてないのか分からない今日このごろでございます。

情報有難うございました。そのうち読んでおきます。
 自我体験研究は国内だけでやっていても市民権を得られないと思います。認知心理学者Neisser(1988) が提案した5つの自己のうち、private self とconceptual self の間の矛盾の意識が、現象学者のSpiegelberg(1964) の言うI-am-me experienceであるという理論的枠組みの元に、国際誌への投稿準備を進めているのですが、(当然ながら英語なので)なかなかはかどりません。その元になった、昨年日本であった国際学会ISTPで口頭発表した"Phenomenological approach to the developmental study of 'self': In Europe and Japan"
の原稿を、researchmap
(https://researchmap.jp/read0027589)
からダウンロードできるようにしておいたので、何年か後に英語で論文を書くことに興味が出てきたら、思い出して読んでみて下さい(笑)。

ご返信ありがとうございます。どんな学問でもそうだと思いますが心理学は特に(?)国内だけでは世界的には見向きもされず世界的に見向きもさらなければ国内でも見向きもされないと痛感しております。自我体験の研究そのものもビューラーやシュプランガーがいなかったらと思うとなんとも言えない気持ちになります。
論文の方お教え頂きありがとうございます。論文の方拝読させていただきます。
英語の論文は翻訳会社に依頼されるわけではなく先生ご自身で書かれているのですね。自分も英語の勉強を頑張らなくてはと思うと同時に敬服いたしました。

たびたび申し訳ありません。
先程の自我体験例と合わせて、°C-uteというアイドルグループの哲学とはなんの縁も無さそうな女の子がラジオで話した子どもの頃の独我論のエピソードが非常に面白かったので、もしかしたらご視聴になられているかもしれませんが貼り付けさせていただきます。先生が論文で書かれていた独我論の偶発的事例とはこういうことなのかなと勝手に思っています。

https://youtu.be/hACB4iIpK_I

youtube見ました。まさに典型的な独我論的体験ですね。他人がニセモノだと分かった瞬間にバレたとばかり神さまがホンモノの他者を創造したという神話は、自明性の扉が最終的に閉じてしまった瞬間を、寓意しているのだと思います。それまでは日常世界の存在は自明ではなく、トルゥーマン・ショウの世界で、何もなかったはずの壁に突然扉が開いて大勢の人が自分を見物していることが一瞬バレたりするような、自明性の亀裂が時々生じていたものが、最終的に自明性の世界を疑うことが出来なくなり、その後は単なる記憶としてのみ残るような、そんな瞬間を。
 意義あるデータとして、テクストに落として保管しておくのがいいです。哲学と異なり心理学ではデータの収集が基本ですから。

ご返信ありがとうございました。人がこのような体験を持ちうるということが人が孤独でありそもそも持つ原罪なのかとさえ思えます。自分なりに細々と自明性とは何かということを探求して行きたいと思います。

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