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2017年7月の記事

2017年7月30日 (日)

夢の現象学(126):京都を引き払う日々の巻/合宿で実験をやるの巻

■日時記録なし。多分2017年6月29日(木)朝の夢か。

 京都にいるのもこれが最後と言う日々を送っていた。盛り場に繰り出して思いっきり楽しもうということになって、T君(京都と関係ない東邦大の学生)らしき腕っ節の強そうな相棒と共に、南の方の街をめざして急ぐところだった(京都盆地の北縁に住んでいたので)。
 ポーンポーンと、一歩で数十メートルほども跳ね跳んで進んでいくのだった。跳ね跳びながらT君と何か話したが、ガラの悪そうなところに行こうといった話だった以外は、憶えていない。ポーンポーンと跳ね跳んでいくと、人家のない広大な原っぱに出た。盛り上がった土手にそって跳ねていくと、土手が尽きて、広い田圃に出た。これ以後は畦道を行くほかない。こんなところがあったなんて、などと話した。それでも京都市内らしく、左右の森の彼方から、路面電車の音が響いてくる。
 そのうち目が覚めた。朝6時。
 地上1メートルの空中歩行ほどではないが、ポーンポーンと跳ね跳んでの半・空中走行も、たまに夢に見る。最も印象深いのは、F教授の姿を見ているうちにF教授になり、宇宙人のエージェントとしてポーンポーンとキャンパスを跳ね跳んでいった夢だ。『夢の現象学・入門』でも、現象学的分析の対象として扱った。
 それにしても京都を引き払う日の夢だなんて。私は二度、京都を引き払ったことがある。一度目は高知大に就職した時のことだから、40年前。二度目は京大教育学研究科への1年間の内地留学を終えた時のことだから、33年前のことだ。けれども、今回の夢には、それらの現実の出来事を連想させるような要素は、なぜか見いだせなかった。
■7月29日早朝。どこか合宿にいっていた。合宿所には大勢の学生がいた。見知らぬ顔ばかりだ。中には編集者のSさん(S社社長)や、その他に東大のNさんと言った研究者仲間もいたようだった。
 私は人の要望もあって、簡単な実験をやって見せていた。被験者に何か思い出せない課題をやらせておいて、指尖脈波を記録するのだった。指先に黒い布製のバンドを巻いて固定する。バンドからはリード線が出ていて、脈波の変化が電気的に記録される。この簡単な装置で、何かが分かるという設定だが、その「何か」がなんだったかは思い出せない。
 そのうち、Sさんたちが、何らかの理由で合宿所を出て外に食事に行こうとしている。私も一緒に行こうとすると、学生がレポートを提出しに来る。実験結果のレポートだが、まだまとまっていないので見てくれという。ローデータを記載しただけだという。そんなものを見せに来なくともいいのに、と思う。
 そのうち眼が覚めた。
 人の大勢いるガヤガヤした夢だった。
 指先に布製バンドを巻く仕草は、最近使っている黒いこうもり傘を閉じて黒い布製バンドを巻く仕草を連想させる。実験をやっているのは、三日前に自治医大での科研費研究会で、明晰夢のインタヴュー調査をやらないかと、研究代表者であるTさんに話したことを連想させる。また、最近、質的心理学事典の執筆項目依頼が来ているが、出版元がS社だし、監修者代表が東大のNさんだから、これも関連がある。
 学生は皆、見知らぬ顔ばかりだが、今年の2月までやっていた明治での講義では、顔と名前が一致しないままだったことを反映している。合宿と言えば、東邦大で毎年のように、伊豆大島に学生と合宿にいったことを思い出す。指尖脈波の測定も、東邦大でやっていた実験だし。
 このように、連想をすると現実とのつながりがいくらでも見出されるが、なぜこのような構成の夢になっているのかは、甚だ分かりずらい。
+++【ブログの主の関連する新刊】『夢の現象学・入門』(渡辺恒夫著、講談社新書メチエ、2016年7月刊)+++

2017年7月 3日 (月)

夢の現象学(125):『小公子』『セイラ物語』を明治の若松賤子訳で読み、明晰夢研究へのヒントを得るの巻

■『小公子』『小公女』といえば児童文学の古典中の古典中だが、小学生の頃は科学少年で、愛読書が『ファーブルの昆虫記』や『アンナプルナ登頂』だったこともあって、読みそびれてしまっていた。今年になってようやく、『小公子』を、それも若松賤子訳を明治22年「女学雑誌」掲載時のままで読んで感銘を受けた。

 続いて『小公女』を同じ訳者でと思い、『明治翻訳文学全集:バーネット篇』を公立図書館で借り出してきた。意外なことに『少年園』に明治26年に載った若松しずこ訳は「セイラ・クルーの話」となっていて、「小公女」は『婦人くらぶ』の明治43年藤井白雲子訳の方だった。両者は原作も違っていて、「セイラ・クルーの話」は、いわば「小公女」の原型であって、大衆向きの後者に比べて前者の方に高い精神性が感じられると解説にあったので、「セイラ・クルー」の方を読んだ。
 そして、夢の現象学を研究する者として、たいへん面白い表現に出会った。苛められながら屋根裏の物置で暮らしていた孤児のセイラの身に非常な幸運が舞い込んで、境遇が一変するのだがーー
 セイラは、折々心の中に、
 「あたしはキット今に、眼が覚めるよ、今度のは夢に違ひないもの、先のは、本当だったが、これが本当とは、どうしても思えない。だが、なんと嬉しいことだか?」
 さうして、セイラはカーミクル夫人の部屋の側なる自分に貸された眼のさめる様な綺麗な部屋へ寝まして、カーミクル夫人が来て、キスしたり、抱いて呉れたり、夜具を心地の好い様に推しつけて呉れたりする時でも、セイラは、心の中に、あすの朝は物置で目が覚めはしないかという感じがまだ退きませんかった。 (p.208)
■現実世界のリアリティを疑うケースの3類型
 夢を見ていて「これは夢だ」と気づく理由を考察するにあたって、まず、現実世界にいて、そのリアリティを疑う場合を考えてみよう。以下の3類型が考えられる。適当な名前を付けてみた。
(1)トゥルーマンショー症候群
 同題の映画では、何もなかった壁がとつぜん開いて大勢の「見物人」がいるのが一瞬、見えたりするような、「反則事象」によって、この世界が何ものかによって作られた巨大な実験室であることに気づく。
(2)《かれら》シンドローム
 ハインラインの哲学的SF『かれら』では、精神病院の入院患者が、世界が自分を中心に同心円状に配列されているのはなぜかを考え、自分だけが真の人間で、他の人間も世界全体もニセモノに過ぎないという結論に達する。
(3)デカルトの夢
 哲学者のデカルトは、一切を疑うという方法的懐疑の果てに、この世界も夢ではないかと疑い、現実世界を夢ではないと証明する方法がないことに気づいた。
 
 「事例セイラ」は(1)に属するだろう。反則事象とは、物理的にありえないことだけを指すのではない。信じがたい幸運や不運と言った心理的にありえないことも含むことが分かる。
  ‥‥とここまで書いて来て、これは科研費「夢の現象学」定例研究会での発表に使えると気付いたので、早速この洞察を織り込んででの研究発表資料(6/28自治医大)を作成し、「kakenhi_pheno_dream.pdf」をダウンロードできるようにしておいたので、参照していただきたい。ちなみに自宅から栃木県下野市の自治医大まで鉄道を乗り継いで往復6時間半かかる

Photo

が、教壇に立つこともなくなった身に毎月1度の参加は苦にならない。現象学哲学、精神医学、イスラム神秘主義と心理現象学の私という多様なバックグラウンドの常連顔ぶれで、3年間でどのようにしてまとめ上げて成果を出せるか、困難ではあるがやりがいがあるところだ。
+++【お願い】ウェブサイトにも著作権があります!引用の際はこのウェブの著者名:渡辺恒夫を明記の上、このURL名も必ず併記して下さい。+++
 
 

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