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2016年9月の記事

2016年9月24日 (土)

夢の現象学(108)/フッサール心理学(40):過去へ遡る夢の巻/明治大学最後の学期が始まったの巻

■2016年9月19日(月)。昨日の朝、夢を見て、スマホに打ち込んでおいた5つのキーワードを手がかりに、思い出して書いている。
 さすがに24時間以上たつと記憶が甦らなくなる。最初の方が思い出せないのはいつものことだが。
 封書が二通、来ていたのだった。あるいは、二通の封筒を出す準備をしていたのかもしれない。
 一通には表に蜘蛛の透かし図案が載っている。もう一通は、「文藝首都」の封筒だった。(ここで連想。前夜、テレビの「世界ふしぎ発見」に、蜘蛛が出て来ていた。また、やはり前日、市立図書館でたまたま手に取った本に、同人誌文藝首都のことが出ていて、懐かしく思った)。
 同じ机の上に、小さなビニール袋が二つあり、それぞれに、同じような目薬が二つずつ入っていた。(連想。その二日前に病院から新しく出た3ヶ月分の抗ホルモン剤の一部が、小さなビニール袋に入っていたが、錠剤なので似てはいない。むしろ、10年以上前に、祖師谷の親の家の冷蔵庫にあるのを見たことのある、ビニール袋入りの目薬が、こんな感じだったと連想される)。
 私は(夢の中での)昨日、学会か合宿形式の研究会といった会場に出ていたのだった。そこでは、昔、C学会で知り合った日立研究所出身で物理学のUさんと、東邦大学にいた当時のA学長に会ったのだったが、二人とも、単にいたことしか思い出せない。
 そして、(夢の中での)今日も、また、合宿なのだった。私は会場に戻ることにした。ところが、それは同時に、過去へ戻る事なのだった。
 過去への道はトンネルのようになっていて、狭くて息苦しい。そのうち、夢だと気付き、目を醒まそうとした。トンネルの中は不安な薄汚れた黄茶色っぽい光に包まれている。
 目を醒ました、と思った。が、まだ夢の中らしい。
 苦しい。
 そのうち、本当に目を醒ました。
(9月19日、朝10時。喫茶にて)。
■前日いた場所へ戻ることが同時に過去へ戻るトンネルになっているという夢は、思い出せる限り初めてかもしれない。
 これも、『夢の現象学・入門』で解明しておいたはずの、夢世界の原理と整合するのだろうか。過去を想起することが、即、過去へのタイムトラヴェルになってしまうという。
 少し違うような気もするので、よく考えて見なければ。

■2016年9月21日。明治大学の秋学期が始まった。大学院の授業だが、とにかくこれで、東邦大学定年退職して以後、5年間にわたった兼任講師(=非常勤講師の事)勤めも、最後の学期を迎えたわけだ。 

 この五年、この7月の『夢の現象学・入門』、2年前の『他者問題で解く心の科学史』、三年前の『フッサール心理学宣言』と、単著を三冊の他、共訳書2冊を出すことができ、近来にない収穫となった。明治に引っ張ってくれた、石川幹人情報コミュニケーション学部教授には、深く感謝している。
 そういうわけで、御茶ノ水駅から駿河台校舎への道筋の光景を、アップロードしておく。

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左は、中央線御茶ノ水駅聖橋口を降りたところの、地下鉄新御茶ノ水駅への入り口のあるビル。

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次は、聖橋口から西へ歩いたところの、穂高という伝統的喫茶店の入り口。

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3枚目は、南へ向かう道路。街路樹が多い。やがて左手にニコライ堂の敷地が来る。

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4枚目は、地下鉄新御茶ノ水駅への降り口の入っているビルと、ニコライ堂の敷地の間にある、「水の流れていない泉水」。左側に見える喫茶イシイは、待ち合わせでよく利用している。
5枚目が、ニコライ堂の後背地に建つ付属の建物。遠くにニコライ堂本体が見えるが、高層ビルに囲まれて、すっかり目立たなくなってしまっているのは残念。
+++【ブログの主の関連する新刊】『夢の現象学・入門』(渡辺恒夫著、講談社新書メチエ、2016年7月刊)+++

2016年9月14日 (水)

フッサール心理学(39)/夢の現象学(107):『心の科学史』(高橋澪子、講談社学術文庫)が発売されたの巻/夢2題の巻

■『心の科学史』(高橋澪子著、講談社学術文庫)が発売になった。

 1999年に東北大学出版会から、5000円の定価で出て以後、絶版になっていたが、今回、廉価の文庫版で復刊されたもの。
本来、主観的な筈の「こころ」を、客観性を格率とする科学の対象とすることのパラドックスを、歴史的に遡って描き出している。
 私もこの復刊にはいささか微力をお貸ししており、僭越にも「解説」まで書かせて戴いているので、我がことのように今回の出版は嬉しい。
 中規模以上の本屋なら平積みで売っているので、ぜひ手に取ってみて下さい。
■9月6日。夢を見た。
 書いているのは昼ごろ。最初の方は例によって思い出せない。
 ウミウシのように柔らかくて大きな虫がいた。
 鞄に入れて(あるいは鞄に勝手に入って行ったのか)、ギューと押し潰そうとした。体液で汚れるが仕方がない。
 ところが、潰れない。
 そこで、手近の紙袋に入れ、さらに上からポリ袋を被せた。
 すると「ウミウシ」は動きだし、なぜか知性を発揮し出し、沖仲士(?)の一団に交じって仕事を始めた。
 この辺りで目が醒めた。ウミウシと沖仲士の集団の間にやり取りがあったような気がするが、思い出せない。
 
 連想してみよう。ウミウシで思い出すのは、前夜、シーツの上を歩く黒い虫がいたこと。最初、蜘蛛かと思い、掌に入れて外に捨てようとしたが、よく見ると蜘蛛ではない。そこで、潰したのだったが、シーツに黒い染みが出来て、こすっても取れなくなった。
 この経験が、「ウミウシ様」を潰そうとする場面に取り入れらているようだ。
 が、どうしてそんな小さな黒い虫が巨大化して知性を持ち、コトバまでしゃべり、ポリ袋に入ったまま沖仲士になぞなってしまったのだろうか。
 沖仲士といえば、以前よんだ『生きるのが面倒くさい人』に、アメリカの沖仲士の哲学者と言われる人の話が出てきたことが連想される。
 この哲学者の話が出てくる本は、これで三冊目で、またか、と思ってしまったが、本自体は面白かったので、アマゾンブックレヴューに出しておいた。
 だから、いつ読んだか調べられる。ブックレヴュー投稿は8月26日だ。
 すると、10日前、ということになり、ニールセンの、夢に現実にあったことの記憶が出てくるピークが、前夜のことと一週間前のこと、という説とは少しばかりずれてしまうのだが。
■9月13日。夢を見た。
 嵐の日だった。高知らしい町に住んでいた(実際は28年以上前のこと)。
 帰宅しようと乗換駅まで来たが、電車が来そうにない。一つ前の駅になぜかいることになっている家族に電話しようかな、と考えていた。
 駅周辺は水が流れていて、海水浴らしき人たちがいる。河口なのかもしれない。二人くらいずつで並んで、水に浸かって座っているのだった(ほとんど若い人で、それも女性が多い)。
 私はなぜか、グラスに水を汲み、飲もうとした。見ると、グラスの中に小さなメダカが何匹か泳いでいる。こんなのを飲むのは体に悪いかもしれない。インターネットで調べることにした(結果は分からない)。
 そのうち意外にも、電車が来た。ホームには誰もいなかったので、徐行したまま通り過ぎてゆく。私はいそいで飛び乗って、(ドアが閉まったままの)車体の外側にしがみ付いた。
  この危険行為は連想がある。30歳で高知大学に就職したころ、まだ京都に生活の拠点を残していて、時々フェリーで往復していたものだった(四国大橋ができるずっと以前の頃)。
 ある時、大阪南港の乗り場に着くと、もうフェリーが埠頭との連絡橋を上げて、動き始めようとしているではないか。私は、エイッとばかり、甲板の手すりに跳び付き、係員の人たちが叫ぶのも構わず、体を持ち上げて、フェリーに無事、転げ込んだものだった。
 すると、高知が舞台になったついでに、高知に関係のある記憶が、もちろんそのままではなく、体験の「構造」が、夢に取り入れらた、ということなのだろうか。
 前の夢でもそうだが、記憶がそのまま出てくるのではなく、元になった体験の「構造」が、夢に取り入れられるのかもしれない。
+++【お願いェブサイトにも著作権があります。引用の際はこのウェブの著者名:渡辺恒夫を明記の上、このURL名も必ず併記して下さい。+++

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