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2015年11月14日 (土)

フッサール心理学(34):『間主観性の現象学Ⅲ その行方』(フッサール、筑摩書房刊)の訳語は他者問題を隠蔽している疑いがあるの巻

■フッサール遺稿からの抄訳『間主観性の現象学Ⅲ その行方』がちくま学芸文庫から出た。

これで、フッセリアーナ中の"Intersubjectivität"全3巻の抄訳が完了したわけで、監訳者をはじめとする訳者の方々の努力には頭が下がる。
 有難いことに若手訳者のひとりが送ってくれたので、さっそく拾い読みを始めた。
 Ⅰ巻、Ⅱ巻にくらべると、間主観性と時間という、私の関心の中心に近い文章を集めて編纂されていて、読み応えがありそうだ。
 ただし、訳語の選定がひとつ気になったので、次のようなメールを返信しておいた。
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この巻のみならず、全3巻を通じての、「共現前」という訳語には問題がないでしょ
うか。
以前、お送りした拙論「他の誰かになる夢と間主観性」(情報コミュニケーション学研究、No15)の中で、私は次のように書いています。
「Appräsentationは、Ad(に向かって)+Präsentationの意であり、『デカルト的省察
』の船橋訳(1970)では「間接提示」、浜渦訳(2001)では「共現前化」、『現象学事
典』(木田他、1994)では「付帯現前化」と訳されているが、本篇では
「向現前化」と訳した。その方が日本語の語感として、他者の実在を確信して現前化に
向かいながらも決して現前しないという、もどかしさが伝わると思うからである。」(
p.54、脚注)
 この、「向現前化」という訳語は、『現象学事典』での、「語源的には付帯現前化(Appräsentation)は、Ad(に向かって)+Präsentationの意」(p.138)とあるのに眼をとめ、そ
れなら素直に「向現前化」と訳せばよいのに、と思ったことから来ています。そして後
に実際、誰かの訳で向現前化の訳語を見出しました(誰の訳だったか今は思い出せませ
ん)。
 とにかく、adという接頭語は、私が辞書で調べた限り、「に向かう」の意味が多く、
「共に」の意味は出ていないようです。
 また、「共」という訳語は、他にMitgegenwartigen, Mitmeinenがそれぞれ「共現在
化」「共思念」と訳されている以上、Mitpräsentation ならぬAppräsentationの訳
として使うのでは、整合性がありません。
 おそらく、共現前化という訳語を『デカルト的省察』以来採用している浜渦さんや他
の訳者も、このような事情には薄々気が付いているのではないでしょうか。にもかかわ
らず、向現前化を使わない理由は、穿った見方になるかもしれませんがーー
 フッサールに独我論的という嫌疑を少しでもかけられたくないという、言ってみれば
独我論フォビアから来ているのではないでしょうか。
 「共現前化」では、「もどかしさ」という他者問題の現象学的核心が覆いかくされて
しまいます。この訳を採用することで、他者問題をひらくと見せて実は隠蔽することにな
ってしまうのではないか、というのが、この全3巻本への、素人ながら率直な疑念です。
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■フッサールは人格同一性問題における「記憶の権能」を信じていないという発見
 この本に収められた34の断片の中では、「感情移入と中心化の変様」(1934)が最も深く他者問題に切り込んでいるように思われた。
 特に、次の文は、私自身にとっての、フッサール他者論から可能世界論へという、新たなテーマにとっての出発点に置きたいくらいだ。
 「感情移入する準現在化は、私固有の生の過去を想起するのに似ている。」(p.492)
 似ている、と言うことは、実在感として同格ということでもあるだろう。
 たしかに、目の前で怪我に泣くこどもの姿が与える、他者の痛苦の自ずからなるありあり感と、昨日の私が図書館で本を借りた時のカウンターでのやり取りの想起が与える、自ずからなるありあり感を比較してみれば、実在感として同格で優劣判定困難、と言ってよい。
 だからといって、フッサール以外の哲学者なら、「他者と、過去の私の、どちらが私の本当の連続なのだろうか?」などとは、問わないだろう。
 ロック、ヒューム以来のイギリス経験論の伝統的問題である人格の同一性問題には、身体連続説と記憶連続説の論争があるのは周知のとおりだ。記憶連続説が優勢なのは、記憶には、「私自身が体験した記憶だ」と否応なく信じさせる何かの力が、つまり「記憶の権能」があるからだ。同じことを、認知心理学者のタルヴィングは、エピソード記憶にはautonoetic consciousness(自己思惟的意識)が伴う、と表現している。
 ところがどうやら、フッサールはこの、記憶の権能を信じていないようなのだ。そして、ザッと読んだだけの理解になるが、「過去の私」と「他の私(他我=他者)」の区別は、前者が「私の身体」として時間的に連続するのに対し、後者が「身体が別個である」というところに、求められてしまうように思われる。
 これはつまり、記憶連続性だけでは、過去の私(=再想起的準現在化)と、他者(=感情移入的準現在化)の区別ができないからーー昨日の記憶のありあり感と、目の前の子どもの苦しみのありあり感とで、どちらがより実在感があるかという優劣判定ができないからーー身体連続性を援軍に求めた、ということになるのではないか?
+++【お願いェブサイトにも著作権があります!引用の際はこのウェブの著者名:渡辺恒夫を明記の上、このURL名も必ず併記して下さい。+++

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