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2015年11月の記事

2015年11月26日 (木)

夢の現象学(93):夢の呉れた奇抜なアイデアの巻

■二度寝をして見た夢。

2015年11月24日。夢を見た。
 集合住宅の4階に住んでいるという設定になっていた。
 最初の方は憶えてない。大学食堂のような所で定食を注文し、カウンターで待っていたが、なかなか出てこない。
 そのうち後から来た男の客が、出てきた料理を持って行った。私は呼び止めた。「それは私のですよ」といったようなことを言った。
 男は振り向くと、拳を固め、ボクシングの体勢で来る。すっかりけんか腰だ。
 見ると男の持っている料理はラーメンだった。私のとは違ったようだ。男はそのまま去った。
 しかし、私の定食は依然としてなかなか来ない。その間に家に戻ろう、と思った。
 家は近かった。エレベータで4階まで上る。ひどく旧式のエレベータで、乗った者が人力で上昇させるのだ。
 全体は錆びた鉄骨からできた鳥籠のようで、中にいる者が手を隙間から出してコンクリートの壁をつかんでエレベータ全体を引っ張り上げるのだ。
 こんな、人力で引っ張り上げるエレベータは他にないだろうと、夢の中で思った。
 4階に着いた。左右に出入り口があるところは、10年前まで住んでいた成田の公団住宅と同じだった。ドアを開けようとして、持っていた鍵が壊れているのに気づいた。壊れているのは頭の部分だけだ。合鍵は家の中にある。とにかく、何とかドアはあいた。
 家の中で何か探し物をしていると、妻が帰って来たらしい気配。
 そこで目が覚めた。
■錆びた鉄骨でできた鳥籠のようなエレベータを人力で乗降させるというアイデア
 このアイデアは奇抜だが、物理的には不可能だと思った。
 いや、そうでもないか。落下防止の鳥籠にはいったまま、ロッククライミングをやるというアイデアなら、役に立つかもしれない。もちろん、鉄骨ではなく、軽い合金か何かを使う。普段は折りたたまれていて、落下の衝撃でパラシュートよろしく開く、というわけだ。
 あるいは、車に取り付けられているエアバックのようなものか。
■15年ほど前に見て、このブログの最初の最初に記した、「ひとつとせ、7つの月が昇るとき、昇るとき」のわらべ歌の謎を解きに、民俗学者となってある山村へ行くという夢でも、7つの月が昇るような地点に立つとそこが宝のありかへの道しるべになるというアイデアがあった。
 7つの月が昇って見える場所など、物理的に不可能だと思ったが、目が覚めて良く考えると、けして不可能ではないのだ。7つの峰の頂付近が、水晶のような鉱物からできていて、月の光を屈折させるので、ちょうどある地点では7つの月が昇るように見える、という想定は、あながち不合理とも言えないなと、後から思ったものだった。
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2015年11月14日 (土)

フッサール心理学(34):『間主観性の現象学Ⅲ その行方』(フッサール、筑摩書房刊)の訳語は他者問題を隠蔽している疑いがあるの巻

■フッサール遺稿からの抄訳『間主観性の現象学Ⅲ その行方』がちくま学芸文庫から出た。

これで、フッセリアーナ中の"Intersubjectivität"全3巻の抄訳が完了したわけで、監訳者をはじめとする訳者の方々の努力には頭が下がる。
 有難いことに若手訳者のひとりが送ってくれたので、さっそく拾い読みを始めた。
 Ⅰ巻、Ⅱ巻にくらべると、間主観性と時間という、私の関心の中心に近い文章を集めて編纂されていて、読み応えがありそうだ。
 ただし、訳語の選定がひとつ気になったので、次のようなメールを返信しておいた。
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この巻のみならず、全3巻を通じての、「共現前」という訳語には問題がないでしょ
うか。
以前、お送りした拙論「他の誰かになる夢と間主観性」(情報コミュニケーション学研究、No15)の中で、私は次のように書いています。
「Appräsentationは、Ad(に向かって)+Präsentationの意であり、『デカルト的省察
』の船橋訳(1970)では「間接提示」、浜渦訳(2001)では「共現前化」、『現象学事
典』(木田他、1994)では「付帯現前化」と訳されているが、本篇では
「向現前化」と訳した。その方が日本語の語感として、他者の実在を確信して現前化に
向かいながらも決して現前しないという、もどかしさが伝わると思うからである。」(
p.54、脚注)
 この、「向現前化」という訳語は、『現象学事典』での、「語源的には付帯現前化(Appräsentation)は、Ad(に向かって)+Präsentationの意」(p.138)とあるのに眼をとめ、そ
れなら素直に「向現前化」と訳せばよいのに、と思ったことから来ています。そして後
に実際、誰かの訳で向現前化の訳語を見出しました(誰の訳だったか今は思い出せませ
ん)。
 とにかく、adという接頭語は、私が辞書で調べた限り、「に向かう」の意味が多く、
「共に」の意味は出ていないようです。
 また、「共」という訳語は、他にMitgegenwartigen, Mitmeinenがそれぞれ「共現在
化」「共思念」と訳されている以上、Mitpräsentation ならぬAppräsentationの訳
として使うのでは、整合性がありません。
 おそらく、共現前化という訳語を『デカルト的省察』以来採用している浜渦さんや他
の訳者も、このような事情には薄々気が付いているのではないでしょうか。にもかかわ
らず、向現前化を使わない理由は、穿った見方になるかもしれませんがーー
 フッサールに独我論的という嫌疑を少しでもかけられたくないという、言ってみれば
独我論フォビアから来ているのではないでしょうか。
 「共現前化」では、「もどかしさ」という他者問題の現象学的核心が覆いかくされて
しまいます。この訳を採用することで、他者問題をひらくと見せて実は隠蔽することにな
ってしまうのではないか、というのが、この全3巻本への、素人ながら率直な疑念です。
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■フッサールは人格同一性問題における「記憶の権能」を信じていないという発見
 この本に収められた34の断片の中では、「感情移入と中心化の変様」(1934)が最も深く他者問題に切り込んでいるように思われた。
 特に、次の文は、私自身にとっての、フッサール他者論から可能世界論へという、新たなテーマにとっての出発点に置きたいくらいだ。
 「感情移入する準現在化は、私固有の生の過去を想起するのに似ている。」(p.492)
 似ている、と言うことは、実在感として同格ということでもあるだろう。
 たしかに、目の前で怪我に泣くこどもの姿が与える、他者の痛苦の自ずからなるありあり感と、昨日の私が図書館で本を借りた時のカウンターでのやり取りの想起が与える、自ずからなるありあり感を比較してみれば、実在感として同格で優劣判定困難、と言ってよい。
 だからといって、フッサール以外の哲学者なら、「他者と、過去の私の、どちらが私の本当の連続なのだろうか?」などとは、問わないだろう。
 ロック、ヒューム以来のイギリス経験論の伝統的問題である人格の同一性問題には、身体連続説と記憶連続説の論争があるのは周知のとおりだ。記憶連続説が優勢なのは、記憶には、「私自身が体験した記憶だ」と否応なく信じさせる何かの力が、つまり「記憶の権能」があるからだ。同じことを、認知心理学者のタルヴィングは、エピソード記憶にはautonoetic consciousness(自己思惟的意識)が伴う、と表現している。
 ところがどうやら、フッサールはこの、記憶の権能を信じていないようなのだ。そして、ザッと読んだだけの理解になるが、「過去の私」と「他の私(他我=他者)」の区別は、前者が「私の身体」として時間的に連続するのに対し、後者が「身体が別個である」というところに、求められてしまうように思われる。
 これはつまり、記憶連続性だけでは、過去の私(=再想起的準現在化)と、他者(=感情移入的準現在化)の区別ができないからーー昨日の記憶のありあり感と、目の前の子どもの苦しみのありあり感とで、どちらがより実在感があるかという優劣判定ができないからーー身体連続性を援軍に求めた、ということになるのではないか?
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2015年11月 7日 (土)

夢の現象学(92)下手な少女漫画の台本のような夢の巻

■11月5日。夜明け前、3時半ごろに目が覚めた。

 夢を見た。最初の方は具体的には思い出せない。とにかく、ピアノのある広い客間で、いくつかの場面が展開していたのだった。
 主な登場人物は、初老の紳士(メガネをかけていたと思う)。ピアノを弾く少女。そして目ざめ前の最後の場面だけを鮮明に憶えているが、(貴婦人風の)女性の客がひとり加わっていた。
 私の視点は一貫して傍観者にとどまっていたが、それでも登場人物のひとりで、どうやら女性らしかった。
 最後の場面では、紳士と客の女性の会話が続いていたが、ピアノを弾いていた少女が、突然、会話を遮って、鉈のようなものを木製のテーブルに叩きつけた。そして叫んだ。「それならあたしのお姉さんはどこにいるのよ!」と。
 このあたりで目が覚めた。
 なにやらひと昔前の下手な少女マンガみたいな夢だった。
  紳士と客との会話内容は思い出せないが、少女の身の上、特に家族に関する調査のことだったのだろう。
 また、自分はどうやら女性らしかったと書いたが、それは決して確実ではない。観察者視点に徹していたので、自分自身のアイデンティティをふりかえる機会もなかったから。たぶん、この物語の登場人物としては女性の方がふさわしいと、覚め際にでも解釈しただけかもしれない。
 それにしてもどうしてこんな夢を見たのやら。マンガに源泉があるのかもしれないが、心当たりがない。読んだ漫画はだいたい憶えているが、こんな場面は思い出せない。
 少女漫画と言うより、昭和初期の「新青年」のノリというべきかもしれない。もちろん、心当たりの作品があるわけでもないが。
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2015年11月 5日 (木)

夢の現象学(91)未来への準現在化が現在化する典型的な夢を見たの巻

■10月6日 断崖の中途の細い道を行く不可解な夢。

 火曜日。昨日、仙台の質的心理学会から帰った。そして、朝方の夢。今は午後二時だから、
断片的にしか憶えていないが。
 海の傍にある大学の研究室のような所へ行ったのだった。往路は夜で、真っ暗闇の中を、垂直にそそり立った断崖の中途の細い道を、手すりを伝って進んでいったのだった。
 下は怒涛の暗い海だ。
 そして帰途。今度は昼の光のなかを、同じ道を通るのだったが、崖の高さは目もくらむよう。はるか下方に泡立つ海を見下ろすと、恐怖で身が竦んだ。
 「夜の方が見えない分だけまだ恐怖度が低かった」と、心に思ったか、だれか連れがいて話しかけたかしたが、どちらだったかは思い出せない。
 とにかく、手すりを頼りに崖道を進んでいく場面だけが、目覚めても強烈に印象に残った。
 どうしてまた、こんな夢を見たのだろうか。
■10月26日。未来への準現在化(Vergegenwartigung)が現在化(Gegenwartigung)する典型的な夢。
 ゲーテ・インスティチュートで明後日に受ける予定のレベルチェックを受けている夢を見た。
 まず、受付に行って、窓口でスタッフと話す。日本人だったかな。隣の窓口でも、他の人が、同様なやり取りをしていた。
 その後、相手が通路まで出てきて、四角で囲んだ5の数字の記してある紙片を渡す。「パーフェクトです」と言う。それも、A2のレベルだという。会話はまったくダメなはずなのに、不相応に高いレベルに編入では困った、と思った。聞き取れなくとも相手のみぶりで分かってしまった、ということなのだろうか。
 隣の人は、「2」らしい。これが、筆記テストらしい(などと、筆記をした覚えもないのに、考えた)。
 次にドイツ人と会話するテストだ。窓口で相手をした、私の担当の日本人スタッフが、ドイツ人を探しに行く。先刻の窓口カウンターの内側で、何かやっているドイツ人に、「ちょっと」といった感じで合図をする。ドイツ人が通路に出てくる。とりあえず、"Guten Tag"と言おうかな、などと思っているうちに目が覚めた。
 ちなみに、気が変わってレベルチェックには行かなかったので、予知夢にはならなかったらしい。
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2015年11月 4日 (水)

夢の現象学(90):夢の中の見知らぬ人物が実は前日すれ違った人物だったの巻

■夢の中の見知らぬ人物が前日すれ違った人物だったという発見

11月1日。夢を見た。高知にいた。

 (高知は最初の就職先が高知大学で12年いた懐かしい土地だが)夢の中では、港町にひとり住んでいるという設定だった。

 そこに、卒業生のTさんが訪ねてきた。話がはずんだ。そのうち彼女、「淋しいなあ、この辺に住むの」と言い出した。私は、「この辺の出身の漁師なんかだったら、元々の友だちがいっぱいるだろうからいいけど‥‥」と応じた。そして、ボクは大学関係者しか知らないし、と付け加えようとして、やめた。
 そのうち、もう一人、卒業生の男子が来た。見覚えはあるが、名前は思い出せない。でも、名を訊かないで、知ったかぶりをしておいた(目覚めて、見覚えがないことを改めて確認した)。頭を坊主刈りにした、色白で長い顔の男だ。何を話したかは憶えていない。そのうち目が覚めた。
 目ざめてから、Tさんは高知大でなく東邦大の卒業生だと気付いた。
■この夢の前にも場面があった。
 やはり高知大にいたが、くわしいことは省略する。目ざめて、この状況は高知大でなく東邦大だと気付いたのも、後の夢に共通するものだった。
 そして、何人もの「大学院生」がいたが、すべて見知らぬ顔だった。(以上、11月1日、朝8時半筆記)
■起きて何時間か過ぎてからのことだった。男の方の卒業生の顔が、前日、スポーツクラブの受付にいた、顔なじみのスzタッフの顔だったと気付いたのは。
 するとどういうことになるのか。この夢もそうだが、私の夢に登場してくるのは、夢の中でこそ知り合いと言うことになっていても、目覚めてみると見知らぬ人物だったというのが圧倒的に多い。
  けれども、この夢のように、実は前日見た人物だったということになると、今まで出てきた見知らぬ人物たちも、実は、スポーツクラブの受付や、図書館や、喫茶店や、駅のホームで、何度か顔を合わせて、赤の他人ながら見知っているという人物たちからの、借用かもしれない、という可能性が出てくる。
 特に、前日見たそのような人物たちからの、借用が多いのかもしれない。
 つまり、夢はまず物語が先行する。そして、主として前日すれ違った、以前も見たことのある、といった関係の人物の印象を借用して、登場人物を作り出す。
 それが、夢の中で、設定上見知った人物となっていても、目覚めて見知らぬ人物と気づく、という種類の登場人物の、正体ではないだろうか。
      <未完>
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