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2015年10月 7日 (水)

フッサール心理学(33):シンポジウム「精神医学と現象学心理学から死と他者の形而上学へ」が実りがあったの巻

■一昨日、仙台から帰った。表記のシンポジウムに参加し、大変有益だったので、下記に、予稿集より概要を掲載しておく。特に、初対面だった精神医学の新山先生に対する三浦さんのコメントが面白かったのだが、ここには反映されていないのが残念。私自身の話題提供も、「自我体験の現象学的から死と他者の形而上学へ」として自分の仕事を位置づけ直す、良い機会になったと思っている。

日本質的心理学会第12回大会(宮城、宮城教育大学、2015/10/4)会員企画シンポジウム予稿集 

精神医学と現象学的心理学から死と他者の形而上学へ

企   画:小島康次(北海学園大学)・渡辺恒夫(東邦大学)

司   会:小島康次(北海学園大学/発達心理学)

話題提供者:渡辺恒夫(東邦大学/心理学・現象学)

話題提供者:新山喜嗣(秋田大学/精神医学) 

指定討論者:三浦俊彦(東京大学/美学・分析哲学)

<企画主旨>

本学会でも臨床死生学が時々話題に上るが、本人の一人称的死生観を確立する必要があるのではないか、科学的唯物論か伝統的宗教的二元論以外に、より洗練された形而上学的な死生観があるのではないか、という問題提起をしたい。企画者二人は、関係論的枠組みでは捉えきれない絶対的な自我の自覚としての《私》研究の可能性を模索してきたが、今年は、《私》を自覚させる臨症例から出発し、一人称的な死と他者の関係を、分析哲学における形而上学の復興とされる可能世界論によって論じている、精神医学の新山を迎え、《死》と《私》そして《他者》の関係に切り込みたい。企画者の一人渡辺も、自我体験・独我論的体験事例の質的現象学的分析を通じ、《私》と《他者》そして《死》の関係について着想を得ているので、これと併せて論じたい。指定討論者には、可能世界論の専門家でもあり渡辺と共に人文死生学研究会を主宰している、分析哲学者の三浦を配した。三浦は、著書『可能世界の哲学-「存在」と「自己」を考える』(NHKブックス)において可能世界論をわかり易く論じた練達をもって、二人の話題提供者による《私》が存在することの不思議さを解きほぐしてくれるものと期待される。

 自我体験の現象学からフッサール他者論をへて可能世界論へ渡辺 恒夫)

<発表要旨>

一人称の死と他者とは経験を超える形而上学の領域であるが、あくまでフッサール心理学に忠実に、経験的事例研究から接近する。

「6歳か7歳くらいの頃,ある晴れた日の正午ちょっと前,二階の部屋にいて,窓からさしこむ日差しをぼーっと見ている時に,“私はどうして私なんだろう,私はどうしてここにいるんだろう”と思った。」

 これは20歳女子学生報告の自我体験事例である。児童期に起こる深い自己の自覚としての自我体験は、近く欧州での調査も紹介される予定であるが(『ヨーロッパの子どもの《自己》との出会い』仮題、コーンスタム著、渡辺恒夫・高石恭子訳、金子書房)、私はこれを自生的な現象学的還元である《発達性エポケー》として位置づけている。自我体験事例にはこの例のように、《ここ》の語が頻発する。これはフッサールが、自我の深い直観を「絶対のここ」と特徴づけているのに対応する。対するに他者は《そこ》として直観される。が、他者を自己と等根源的(対等)に理解するならば、他者もまた「絶対のここ」にいなければならない。けれど「絶対のここ」が複数同時存在するならば、もはや「絶対の」ここではない。フッサール他者論はここでパラドクスに行き着く。だからフッサールはダメだというのが大方の見方らしい。

 しかしフッサール自身が「他我とは自我の時間化である」という言葉によって、パラドクス克服への途を示している。他者が絶対のここを占めるのは、私が絶対のここを占めるのとは異なる時間においてだというのである。それは何時の事かというと、私の出生前か死後しかあるまい。フッサール他者論はここで、ある種の東洋的死生観(輪廻転生)に接近する(拙著『フッサール心理学宣言』講談社)。

 可能世界論を用いてこの論理を明確化しよう。私が他者Xを私と等根源的に(対等者として)認めるとは、私がXとして生きる世界の実在を認めるということである。ところが私はXではなく渡辺某なので、私がXとして生きる世界は可能世界というに留まる。が、他我は自我の時間化であるというフッサールの言を字義通りに解すれば、この可能世界は私が渡辺某である現実世界の出現以前か消滅以後に現実化した・するだろう・ことになる。Xが私の同時代的他者であっても、主観的今相互の同時性が検証不可能な以上、Xの世界と渡辺某の世界を前後関係でつなげることに不都合はない。

  ソシアの錯覚から開始する他者論の試み-可能世界にいる自己の変異体、そして、不完全な非在としての死(新山 喜嗣)

<発表要旨>

 

精神科臨床で遭遇する症候群の中に、自分の身近にいる特定の他者が偽物に入れ替わったと訴える、ソシアの錯覚の名で呼ばれる症候群がある。この症候群を呈した患者は、相手の外見、性格、役割といった人物がもつ全ての属性の変化を認めないまま、それにもかかわらず、その人物の同一性を否認する。このことから、ソシアの錯覚で本物から偽物になるときに入れ替わる当のものは、人物に付帯する属性のどれかではなく、それら属性を担う個体原理としての「このもの性」であると思われる。ところで、ソシアの錯覚の患者では偽物の起源を従来からの世界に存在するいずれの人物にも求めないことから、患者の前に姿を現した偽物としての「このもの性」は、発症前の世界には存在していない新たな「このもの性」であることになる。したがって、世界内に存在する「このもの性」の数は不変であるとすれば、ソシアの錯覚は、現実世界とは別のもう一つの可能世界の存在を訴えていることになる。ここで、現実世界の自分自身を起点として、自分自身における「このもの性」と属性を変更させた自分自身の変異体が属する可能世界を限りなく展開したとき、現実世界に存在する有限数の人物の全てについて、それらと「このもの性」と属性の両方において一致する自己の変異体がいずれかの可能世界に存在しうる。そのとき、可能世界の自己の変異体と現実世界の他者とは同一人物というほかはなく、このことは、現実世界で出逢う他者は現実世界に登場した自己の変異体であることを意味する(拙著『ソシアの錯覚』春秋社)。また、先の可能世界の中には、自己が非在である世界もありえる。しかし、そのような世界では自己は死者として指示対象となりえる痕跡をもちえない。すなわち、そのような世界では自己は始めから存在せずに、死者ですらありえない。ある可能世界で死の非在とされているものが、自己のものだとするためには、その非在と自己とを対応させるための接続線が引ける必要があろう。そのためには、非在とされているものも何らかの指示対象として存在していなければならない。そのようなことができるのは、死に伴って生に関わるあらゆる属性をなくしたとしても、そのような属性の担い手としての自己の個体そのものは、不完全な非在として世界に存在していたときであろう。

+++【お願いェブサイトにも著作権があります!引用の際はこのウェブの著者名:渡辺恒夫を明記の上、このURL名も必ず併記して下さい。+++

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