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2015年4月の記事

2015年4月30日 (木)

夢の現象学(85):超越的存在性を獲得していた夢の家も取り壊される日が来たのかの巻

■4月28日(火)。夢の中でよく行く家にいた。

 いつものようにその家の二階に不法に住み着いているのだった。
 何十年か前のこの夢の家の始まりでは、何かの関係で正当に宿泊していたはずだったが。
 そのうち、夢にこの家が出てくることが度重なるにつれて、滞在が長引き、不法占拠になってしまって肩身が狭くなったが、表だってとがめられたことは一度もない。(この夢の家の源といえば、ちょうど30年前に大阪天王寺の呑み屋の二階(三階だったかな?)に泊まった経験位しか思い浮かばない)。
 今度の夢では、三年前に世を去った母もいて、同じ家に住んでいるのだった。
 最初の方は憶えていない。そのうち、同じ階の反対側の、いつもは行かない区画に足を踏み入れていた。畳敷きの大広間になっていて、「ニフティ様御一行」といった立札が立っていた。ニフティが借りきっているらしい。
 それから記憶の欠落があり、次の場面では外出から戻ってみると、家全体に工事用の青いシートがかけられ、巨大なブルトーザーが家を根こそぎにしようと動き出しているのだった。とうとう、最後の日が来たのだ、と思った。
 眺めているうちに、工事現場の拡声器が、「渡辺さん、現代思想から電話がありました」と、呼び出しをかけてきた。そういえばこの夢の前の方でも何度か、この件を聞いていたが、今まで無視してきた(ちなみに『現代思想』には、2003年に一度書いたきり、ご無沙汰してしまっている。)今度も取り込み中なので後回しにすることにした。
 とにかく、家の中から、荷物を取り出さなければならない。下着類はまあいいとしても春物の紺スーツはもったいない(このスーツは、昨日明治への出講で何年かぶりで着たばかりだった)。そこで、青いシートをかいくぐって、家の中に入り込んだ。探し始めたところで、目が覚めた。
 前日の小物(春物のスーツ)がさっそく夢に出てきたわけだが、それ以外は、ニフティだの現代思想だのが、なぜこの夢に出てきたのかは、連想しても手掛かりがない。
■それよりも、数十年にわたって夢の中だけに出てきた、二階に不法に滞在している古い家が、この夢ではいよいよ取り壊されることになったらしい。
 何度となく夢に出てきて、それも夢だけに出てきて、一種の超越的存在性を獲得していた古い家がである。 
 これって、もうこのシリーズ夢を見なくなるということだろうか。
 見なくなったシリーズ夢といえば、大学院に入ったころから断続的に見ていた、地底の古文書を探究する夢があるが、高知にいたころ見たのを最後に、関東に出て来てからは見なくなってしまった。古文書が見つかったから見なくなった、ということでもないらしい。
 二階を不法占拠している古い家の夢が、今後どのような帰趨となるかは、注意していなければならない。
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2015年4月21日 (火)

夢の現象学(84):海底二万哩の続編を読んでいる夢の巻

■2015年4月20日 ジュール・ヴェルヌ作『海底2万哩』の続編を読んでいるのだった。

 ネモ艦長が生き延びて、主人公になっていた。海底でなく、地上の話だった。
 大型本で、頁面が虹色に輝いたり凝りすぎていて読みにくい本だったが、とにかく、前篇と後篇に分かれていて、前篇は男性が、後篇は女性が主人公になっていた。後半の女性は、ネモ艦長の女装だろうか、それとも元々両性具有だったのだろうか、などと考えているうちに目が覚めた。
 ラジオのドイツ語講座が終ってから目覚ましが鳴るまでの、早朝30分の間に見た夢だった。
■連想するのは
 最近連載中のマンガ2本に、18世紀フランスで活躍したシュヴァリエ・ドゥ・エオンが登場することだった。『ゴースト・レディ』と『イノサン』だったかな。ネモ艦長の女装(?)はその影響だとして、いったいなぜ海底二万里なのかは、皆目何も連想できない。
 小学生の頃、子供向けにリライトした本と、それからマンガを読んだきりで、完訳本は読んだこともないのに。
 それはそうとして、この夢では、
: 
■海底二万里の後日譚として書かれた本を「読む」、という態度が一貫している。
 決して、本の物語の中にはいりこんでしまっていない。記号的意識における志向性の二重性が維持されているのだ。夢世界の特徴である、想像的意識における二重の志向性の欠如が、ここには見られない。
 あるいはこの、志向的二重性の維持は、この夢では真に「読む」というところまでいたらずーー実際に物語の内容は全く覚えていないのだからーー頁をパラパラとめくった、というところに留まっていたからかもしれない。本当に物語を読むというところまで行ったならば、ネモ艦長が女装か両性具有かの疑問も、解けていたかもしれないのだ。
 だから、この夢の例だけでは、「夢の中での真の読書でも記号的意識の二重志向性が維持されるか」の疑問には、決定的に答えるまでには至っていない、といえるかもしれない。
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2015年4月 9日 (木)

夢の現象学(83):スイス在住の三歳時の句集が載った文庫本を発見するの巻

■2015年4月9日。久しぶりの夢日記。

 誰かの遺品の整理をしていたらしい。妻が、古い文庫本を見つけて、私の三歳時の俳句が載っている、という。見ると、何人もの作者の精華集で、私のは30から50句が収録されている。スイスにいた時に詠んだ句集だった。
 三歳の自分にスイスにいた記憶などないのだが、父の勤務の都合で住んでいたのかな、などと考えた。
 そのうち目が覚めた。目ざめの直後は、鮮明な夢を見たと思って、枕元のスマホにキーワードを幾つか打ち込んでおいたが、今、それを手掛かりに書き出してみると、意外なほど内容が乏しい。
 そもそも私は子どもの頃にスイスにいたことなどないし、俳句を作っていたこともない。小説が雑誌にのることになったという夢なら見たことがあるが、俳句では願望充足ともいえない。まして、三歳の時の作品とは、いったいなんだろう。
■現象学に無理してこじつけて考察すると‥‥
 そのうちに、全く記憶のよみがえらない過去の日の私は、他者と、それへの志向性の構造が似ているという、最近考えていることを思い出した。
 それならば、三歳で句集を出した私、しかもまったく記憶にない私とは、他者も同然だろう。
 否、そもそも、両親らしき誰かの遺品整理らしきことをしている夢の中の私とは、「渡辺恒夫」ならぬ、どこか別の時空、別の可能世界に生きる、他人であるかもしれないではないか。(朝10時。駅近の喫茶にて。)
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