« 2014年7月 | トップページ | 2014年9月 »

2014年8月の記事

2014年8月24日 (日)

夢の現象学(74):NHKで出演番組の放映が2日遅れであったの巻

■NHKでチョイ出演新番組「おしえて!ガッカイ」が、2日遅れで放映された。
 元々、8月18日の予定だったが、長崎水害関連報道で延期になり、8月20日夜9時から、ということになった。
 タイトルも、元々「日本の知恵袋」といったが、「おしえて!ガッカイ」に変わった。
もう7月初めにNHKのクルーが来て、装置をいじっているところなどを含めて、2時間ばかり
撮影して行ったことは、以前の記事にも書いたとおりだ。
 放映分を見ると、装置が出てくる場面はすべてカットで、話しているところだけになっていた。
 これはある意味良かったかもしれない。実験はもうやっていないのに、やってる振りを映したりしたら、例の偽ベートーヴェンみたいになってしまう。たぶん、それで懲りて、二度と詐欺の片棒かつぐまじと、小保方事件でも追及の手を緩めないのかもしれない。
 それはそうと、私の所属学会が「日本心理学会」ということになっていたのには笑った。
この学会は、2年前、定年退職と同時にいったんやめた。ところがやめると同時に、シンポジウムに出てくれという話が舞い込むようになり、このまま非会員で参加しているとシンポ企画者になにかと迷惑がかかることが分かり、この4月に再入会したのだった。だから、この学会の最新の名簿には、私の名は載っていないはずだ(笑)。
 番組の印象に戻るが、けっこうまともに話をしている。たぶん、話しぶりが水準以下の部分を削っていって、最後に残ったところだけを映した、という気がした。自分の研究ではなく、最近のドイツの実験の話だったのは、いささか残念だったが。
 テレビに出るのはおそらくこれが最後だろう。今まで6、7回出たのは、すべて明晰夢を始めとして夢の実験的研究関連だった。夢の現象学では何ともテレビに映しようがない。そんなことを、ふと思った。
+++【お願いェブサイトにも著作権があります!引用の際はこのウェブの著者名:渡辺恒夫を明記の上、このURL名も必ず併記して下さい。+++

2014年8月 3日 (日)

フッサール心理学(26)/夢の現象学(73):研究ノート「人間的世界経験のパラドックス構造」をアップロードしたの巻/夢の中で他者になれる理由を解明したの巻

■研究ノート「人間的世界経験のパラドックス構造」がようやく、明治大学ディポジトリに入ったのでアップロードしておく「ParadoxicalstructureByT_WATANABE.pdf」をダウンロード

 掲載誌『情報コミュニケーション研究』第14巻、2014(明治大学情報コミュニケーション学研究所刊)は、3月末に刊行済で、同時に抜刷50部が無料で送られてきた。これは有難いが、抜刷をわざわざ郵送する手間には、毎度のことながらうんざりさせられている。

 そこで、明治大学ディポジトリに入れればPDF版を作ってくれるというので、大学図書館にディポジトリ入りを申請しておいたのだった。6月ごろ出来るという話だったが、実際に出来たのは先月(7月)末だった。

 その間、この研究ノートの内容を、「付章 誰でもわかる!他者問題超入門」の一部として取り込んだ『他者問題で解く心の科学史』(北大路書房)が先に出版されてしまい、私個人としては研究ノートの方はどうでもよくなってしまた。

 とはいえ、税抜きで2300円するこの本を、みんなが買ってくれることなど期待できない。その点、研究ノートのPDF版の方は無料だから、とにかく読んでみて少しでも興味が持てたなら、単行本の方も覗いてみて下さい、と書いておくことにしたい。

■同じ掲載誌の次号に投稿予定の「他の誰かになる夢と間主観性:夢の現象学ノート(1)」の、とりあえずの結論が出た。長文だが、以下にコピペしておこう。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

第5章 考察

5-1節 事例検討のまとめ

 このあたりで、これまでの事例の検討を通じて判明したところをまとめよう。

1)夢世界には数多くの他者が出現する。その多くは見知らぬ人々だが、「ゾンビではないか」などと疑ったりせず、自明な他者として受け入れているのは、現実世界と同じである。すでに引用した研究でも明らかにされているように(Kahn D, et al. , 2005)、私は夢世界でも「心の理論」を用いて他者理解をつつがなく行っている。つまり、夢世界でも他者は「向現前化」対象であって、魔法使いのような「準現在化」対象ではない。

2)ところが現実世界と異なり、夢世界では他者に「なる」ことがある。

3)現実世界でも「もし私があの人だったら」と想像することがある。この時、向現前化対象を準現在化しているのである。けれども、向現前化対象の特徴として、いくら「私があの人だったら」と強く想像しても、(A)この想像はあくまで想像であって現実でないことを私は自覚しているという意味で、準現在化対象は現在化しない。(B)この想像は(たとえば他者の痛みの想像は)他者自身の痛みではなく、他者自身の痛みそのものは背後に隠れていて接近不可能であることを、私は自覚している。つまり他者の超越性を(超越論的他者を)私は信じている。つまり、他者は決して現前化することがない。それが向現前化の本質である。ところが夢世界では私は他者になることによって、準現在化対象が現在化すると共に、向現前化対象もまた現前化する。

 この知見で現実世界を逆に照らし出すとしよう。すると現実では、「他者になる」という想像には二重の志向意識が関わっていることが明確になる。①準現在化対象を現在化しようとして失敗する。②向現前化対象を現前化しようとして失敗する。ところが‥‥

4)夢世界で他者になることは、準現在化対象が現在化するだけでなく、向現前化対象が現前化することである。両方とも成功するのである。

5-2節 フッサール間主観性論とヘルトの批判を通して他者になる夢の解明へ

 ここで、フッサールの間主観性論を改めて振り返ってみる。『デカルト的省察』によると、向現前化の過程は幾つかの段階に分かれる。まず、私は自己の身体を<絶対のここ>が位置づけられている特別な対象として経験する。私の体験する世界は、<絶対のここ>を中心として開かれる「モナド」なのである。そこに、自己の身体と似た物体が出現することで「対化」が起こり、「類比化的統覚」という一種の統覚の働きによって、対側の物体も、<他の絶対のここ>が位置する身体という意味を獲得する。これは、「そこにある物体」をもう一つの<絶対のここ>として開かれる「他のモナド」が成立するということである。自我と他我の関係は、モナド同士の関係ということになる。

このフッサール間主観性論にはヘルト(Helt,1978)による内在的批判がある[1]。それを再構成すると、フッサールのいう向現前化は、異質な作用の二重化から成る。第一に、私があたかもそこに居るかのように、つまり「そこにある花子という物体」であるかのように想像することである。けれども私はこの想像が虚構であることを知っているので、花子という他者信憑は生じない。そこでフッサールは、自我の時間化としての他者という一見不可解な想定に訴える。つまり「過去または未来にそこに居る私自身であるかのように他者は実在する」という想定をし、二種の想定の共同作業によって他者信憑が成立するとした。準現在化―現在化の第1章の議論を呼び起こせば、これは、フッサールの向現前化とは、二種の異質の準現在化の合成だということになる。虚構対象への準現在化と、過去想起・未来予期という時間的準現在化と。

ここで、なぜ現実には他者へなれなくとも、夢世界では他者へなることができるかが、解明できるのではないだろうか。図1と2で図解したように、夢では虚構的な準現在化対象も、予期・想起のような時間的準現在化対象も、共に現在化する。ところが上述の考察により、実在の他者への向現前化とは、虚構的対象への準現在化と時間的準現在化の合成からなるのだった。従って論理的に言って、向現前化の内実である二種の準現在化が、夢では共に現在化することにより、向現前化対象だった他者が現前化してしまう。かくして、私は、他者になるのである。<未完>

 [1] ヘルトの批判は、渡辺(2014)pp165-167に分かりやすく紹介しておいた。以下、そのまま引用する。

 ヘルトによると、フッサールは異質の2種類の意識の働きの協働によって、類比化的統覚が成立するとした。なぜなら、この類比化的統覚「ちょうど私がそこにいる時のように (wie wenn ich dort wäre) そこから現象的世界がひらけ、その中心としての身体を「ここ」とする「他の私」(他我)が‥‥(『デカルト的省察』p.213)」という場合の、この、私が強調記号をふった文は、二重の意味を持つからだ。

①「あたかもそこにいる他者の身体をこことして世界が開けているかのように私は想像する」という虚構的意識(=空想)。この意識は、「あたかも私がそこにいるかのように(als of ich dort wäre)という言い方で表されるであろう。けれど私はそれが虚構であることを知っている。

②「私がここにいるのと同時ではない過去か未来かに、私はそこ(他者の身体)にいることができる」という時間的想定。この想定は、「私がそこにいるならば(wenn ich dort bin)という定式で言い表されるであろう。

『デカルト的省察』では二種類の意識は区別されていないが、この二種類の意識のはたらきの協働によって他者の身体の類比化的統覚が成立するのでなければならないと、フッサールは多かれ少なかれ明確に、遺稿で述べている。けれども、これら2種の意識の働きは全く異質なので、いくら協働しても、目の前の他者の身体を「ここ」とするモナドが開けるという確信は形成されないのではないか。

これが、ヘルトによる批判の結論となる。

文  献

ドゥ・ウォレン、N. (2009)「夢、悪夢、そして自己覚知」村田憲郎(訳)『現代思想』Vol37-1690-101)。

ジオルジ(2003) 『心理学における現象学的アプローチ』 吉田章宏(訳)新曜社(原著2008

フッサール2001)『デカルト的省察浜渦辰二岩波書店Husserl, E. (1954).Cartesianische Meditationes.

Kahn D, et al. (2005). Theory of mind and dreaming : Awareness of feelings and thoughts of others in dreams. Dreaming,15(1), 48-57. 
千田義光、1998「現前化/付帯現前化」『現象学事典』弘文堂(pp.138-39

谷徹(1998)『意識の自然』勁草書房

渡辺恒夫(2010)『人はなぜ夢を見るのか』化学同人

渡辺恒夫(2013)『フッサール心理学宣言』講談社。

渡辺恒夫(2014)『他者問題で解く心の科学史』北大路書房

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

+++【お願いェブサイトにも著作権があります!引用の際はこのウェブの著者名:渡辺恒夫を明記の上、このURL名も必ず併記して下さい。+++

« 2014年7月 | トップページ | 2014年9月 »

電子ジャーナル:こころの科学とエピステモロジー

ブログの主の最新刊

最近の記事

無料ブログはココログ
2018年5月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    

人文死生学研究会