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2014年6月の記事

2014年6月22日 (日)

夢の現象学(70):悪魔の化石というおぼろげな夢でも世界性の実在確信があるの巻

■2014年6月24日

夢を見た。日曜の朝なので、「南へ車を走らせる」「悪魔の化石がある」とだけ、キーワードを書きつけて、また寝た。
 20分後、起きる決心をして、このキーワードを頼りに思い出そうとした。
 東京から避難するため、南へ向かって車を走らせていたようだった(ちなみに現実には6年前に運転は止めている)。避難の理由は、悪魔復活の恐怖だった。悪魔の巨大な化石が、ナスカの地上絵さながらに、地面に描かれているのだった。それがどこかは思い出せない。ただ、不吉な風景のなかを、車を走らせているシーンだけが、記憶に残っている。
 それ以上、思い出そうとしているうちに、よくあることだが、別の夢の記憶がよみがえってくる。やはり東京の南で、迷路のような地下道を通っていたり、海沿いに、江の島のような所に巨大な白亜の平たい天文台様の建物があったり‥‥。記録もしていない夢で、ひどく朧げなのに、霧の彼方に仄見える実在の風景のように、一種の実在感だけは伴っているのだった。
 この実在の確信が、夢がただの空想と違っているところだ。「確かに、一つの世界に生きていた。どんなに記憶がおぼろでもーー」という確信が。
 この、夢における、言ってみれば世界性の確信の条件は何か。これら、甦ってきた夢では、一回きりではなく何度も同じ場所を訪れたことがある、という思いから来ている。だから夢想起は、現実の記憶想起に劣らない、実在性確信をもたらすのだと思われる。
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2014年6月 7日 (土)

夢の現象学(69):書き始めた論文の題名が「夢の中の間主観性:夢の現象学ノート(1)」に決まるの巻

■2014年6月6日

 

明治大学の紀要に載せる論文で、副題だけ「:夢の現象学ノート(1)」に決まっていた原稿にブレイク・スルーがあり、タイトルも自動的に決まった。「夢の中の間主観性」だ。こんなテーマでは今まで誰も書いてはいない筈だ。

 下記に、その一部を抜粋しておく。

 

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1-2節 間主観性論から見た「他の誰かになる夢」

 前節の考察と図1、図2を眺めるならば、「自我」と「他者」についての解明が欠けていることがわかる。だから、次のような夢事例に対しては、なすすべがない。

【夢事例1 夢の中で他の誰かになる「心理学実験室」にいた。/ 現実の実験室とは全くことなり、畳敷きの部屋が二つ並んでいるだけの民家のような建物だった(私は夢の中でたびたびこの「心理学実験室」を訪れているが、そのたびに様子が変っている)。/ 私は昼間から奥の部屋に布団を敷いて寝ていたようだった。すると、突然、外から知り合いの女性編集者が訪問してきた。障子ごしに、「ウフフ、先生、何してるんですか」といった、笑い声がした。/ ここで、どうやら私は日本ユング派の総帥だった「K元長官」になってしまっていたらしい。K元長官として、以前も小鳥の餌を食べているところを、別の女性編集者に見られて笑われたことを思い出した。思い出しながら、別人の客観的視点でK元長官を見て、いかにも日本ユング派らしい、などと、解説するように考えていた‥‥

 なるほど記号体験としての読書では私は想像裡にハリー・ポッターになり、夢の中では「想像」だという意識が消え、文字通りハリーとして物語世界を現実として体験する。けれども、この夢で私が成った「K元長官」は魔法使いの少年のような虚構でなく、面識もある実在の人間だった。だから、図1の「想像対象」に位置付けるわけにはいかない。実在する自己と実在する他者の間の関係が変容しているのである。実在する自己と実在する他者との間の関係を、フッサール現象学では間主観性という。

 フッサールの間主観性論は時期によって変化しているので、『デカルト的省察』を中心にまとめる。まず、身体的他者の知覚と、他の主観性(=他我)としての他者の経験の対比が、現前化(Präsentation)vs.付帯現前化(Appräsentation)と称される。Appräsentationは、Ad(に向かって)Präsentationの意である。現前化とは、対象をそこに現前するものとして直観的に呈示する働きであって、同時に、他の経験がそれへと関連付けられ真理性を保証されるべき、経験の原様態である。付帯現前化は、必ず現前化と結び付くが、それ自身で現前することができない(千田、1997p.138)。にもかかわらず、想像対象への準現在化とは異なり、他者が実在するという強い確信(=他者信憑)を伴う。付帯現前化の過程は幾つかの段階に分かれる。まず、私は自己の身体を<絶対のここ>が位置づけられている特別な対象として経験する。私の体験する世界は、<絶対のここ>を中心として開かれる「モナド」なのである。そこに、自己の身体と似た物体が出現することで、「対化」が起こり、「類比化的統覚」という一種の統覚の働きによって、対側の物体も、<他の絶対のここ>が位置する身体という意味を獲得する。これは、「そこにある物体」をもう一つの<絶対のここ>として開かれる「他のモナド」が成立するということである。自我と他我の関係は、モナド同士の関係ということになる。このフッサール間主観性論は内在的に破綻していると言うヘルト(Helt,1978)の批判があるが、今は取り扱わない。

 この間主観性論から先述の夢を解明すると、まず、女性編集者という「他者」が登場するが、私はこのような人物も状況も覚えがない以上、「女性編集者」という概念の具象化でしかない。それでも「他者」としてその実在を夢の中では疑っていないので、夢の中で付帯現前化されている。ところが彼女に声を掛けられると私はK元長官になってしまっている。その後、視点が第三者的になって、K元長官を、実在の他者として眺めている。つまり私は、「実在の他者であるK元長官がその身体を<絶対のここ>として経験する他のモナド」に入り込み、その後、自己のモナドに戻ってK元長官をあらためて付帯現前化する、という過程であることが分かる。<以下略>

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