フッサール心理学(20)/夢の現象学(65):中島梓(栗本薫)の遺著を読んで思うことの巻
■死の5か月前に書かれた『グイン・サーガ』128巻では「遍在転生観」に近づいていた!
ちょうど4年前の「夢の現象学(22):2009年惜別の人‥‥」の記事に、私は、『グイン・サーガ』を未完のまま逝った栗本薫さんの作品について書いた。
『グイン・サーガ』128巻に、ミロク教の教主に託して、遍在転生観(*註1)に限りなく近い死生観が語られていたからだ。
だから、『転移』(朝日新聞出版、2009)という中島梓名義の、絶筆となった闘病日記を図書館で見つけて、借り出して来たのだった。
128巻のことも出ている。2008年12月19日の日記に、「グインの128はおかげでやっと300枚。あと100枚。年内にはなんとか書きあがりそうだ。」とある。死去が2009年5月26日とあるから、およそ5か月前に仕上がったと察せられる。
ただし、日記は日々の活動、特にこんな時期までも続けていたジャズ演奏活動、そして特に抗がん剤の影響に抗して何とか美味しく食べようとする凄まじいまでの執念が主に語られていて、創作の秘密が語られているわけではない。どうやらこの人、四六時中あれこれ考えなくとも、日頃は全く別のことをしていても、ペンさえ取れば(というよりパソコン画面に向かえば)、おのずと物語世界が展開するという、生まれながらの小説家らしい。
2月5日の記事にもこう書いている。「なんとなく、インタヴューをしていて、途中で「すべては夢だなあ」という気分にとらえられる。結局小説を書いていない私というのは、「かりそめの存在」に過ぎないのだろう。‥‥結局のところ私の人生とは、小説のなかに封印されてしまったのだ。ほんとに、すべては夢、なのかもしれない。小説が本当で、あとのすべてのほうが夢なのかもしれない。」
*註1 「遍在転生観」については、拙著『フッサール心理学宣言』(講談社、2013)の第9章辺りを参照して下さい。
■『グイン・サーガ』に自我体験も描いた作者の最後の死生観とは?
『グイン・サーガ』60巻には、自我体験の描写も出てくる。娼婦の子に生まれ、傭兵として身を立て、今や王座に手の届くところまで来た狂戦士イシュトヴァーンの述懐としてである。これについては、『<私>という謎』(渡辺恒夫・高石恭子(共編)、新曜社、2004)のプロローグで引用しておいた。
そんな、計り知れない精神の広大さを備えた作者の最後の境地はどんなものであったか。
最後の昏睡に入る一日前(5月16日ー私の誕生日ではないか(笑))の、判読しがたい手書き記事の最後には、こうある(「‥‥」は判読不能部分)。
「書いているうちに気が付くと‥‥夢に‥‥
‥‥それにそ‥‥まあ‥‥に‥これはこれで夢の‥‥と
思ってる。世界中を‥‥」
どう見てもこれは、「これはこれで夢のなかと思っている。」と書こうとしたとしか思えない。
栗本薫は最後の最後で、やはり気付いたのだ。この世界は夢であって、自分は今、夢から覚めようとしている、と。
■なぜ死を控えてこの世は夢と悟るのか?
夢と現実の絶対的な相違は、現実は覚めないが夢はいつか覚めるところにある、という説がある。けれどもこの説ははっきり言って間違いである。
まず、「夢は覚める」という言い方は、自然的態度に基づいた言い方だ。現象学的には「夢はいつか終わる」としか言えない。そして、いつか終わる点にかけては、この覚めた世界、現実世界も同じことだ。
どちらも、「いつか終わる」のだから。
夢のなかで「いつか」が近づいたとき(いわゆる「目覚め」が近いとき)、しばしば「これは夢だ」という明晰夢の自覚が生じる。同じように、現実世界のなかで「いつか」が近づいたとき(いわゆる「死」を悟ったとき)、しばしば、「これは夢だ」という自覚が生じるのではないだろうか。
夢から覚めることが「現実」という別の夢の始まりだとすると、現実という夢から覚めることは、さらに別の夢の始まりを意味することになる。
栗本薫さんも、そのような世界の形而上学的輪廻転生構造を感知していたのだと思いたい。合掌。
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