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2013年8月の記事

2013年8月23日 (金)

フッサール心理学(16):対人違和を最後の研究テーマにの巻その2

■対人違和の本としてベストの本を読む

8月22日(木)数日前から、フランスの二人の精神医学者の手になる『他人がこわい:あがり症・内気・社会恐怖の心理学』という本を読んでいて、対人違和の本として今まで読んだ中でベストだと感じた。
 もちろん、「対人違和」ではなく、公認語の「社会不安」の語で、現象全体を総称してはいる。けれども、その社会不安が出てくる状況を、
・他人の前でスピーチできない
・よく知らない相手と話ができない
・他人に何かを要求できない
・他人の前で日常的な行為をするのが恥ずかしい
 と、4つに分け、重篤度が増すとしたことは、段階図も含めて極めて分かりやすい。
 また、「あがり症」「内気」「回避性人格障害」「社会恐怖」と社会不安を4タイプに分けたことも、非常にためになった。今まで読んだ「SAD」や「孤独力」の本のどこに欠陥があったかというと、このような全体的な見取り図がなかったことに尽きる。これなら、ただのシャイさとSADの違いもはっきりする。また、「社会不安は医学的に治療すべきか」という問いは、「どの程度になったら治療すべきか」に置き換えるほうが適切として、指針を示しているのも妥当だと思った。

 「社会不安」と「対人違和」の関係だが、後者が「体験現象」であり、前者が、体験の結果として生じる「反応」、と考えることができる。ただし、あがり症の中には、対人違和が殆ど伴なっていない場合もあるので、両者が外延的に完全に重なるわけではない。
 また、「自分だけが人間で他人はすべて宇宙人」「自分は人間ではなく宇宙の彼方から送り込まれた存在」といった、幼少期にある「独我論的ファンタジー」の場合、社会不安の有無とは関わりなく記述できるので、やはり両者は独立に定義されなければならない。
 そして、もちろん、前者が医療を含むケア、対人支援の対象であるのに対し、後者は当事者研究のテーマである。
 

 本の話に戻るが、著者はフランス人らしく、文芸作品からの広範な引用が、論理の運びに奥行と豊かさと説得力を与えている。対人不安者は今までケアを求めて来るということがあまりなく、したがって症例もメジャーな精神疾患にくらべて蓄積度が低いと思うので、これは必要なことだろう。
 そしてまた、対人違和にとっても、主要なデータベースの一つが文芸作品であり、その方法が現象学であることは、前回の記事にも書いたとおりだ。
 もう一つの主要データベースは、そのような内容を相談する人に対して、いろんな読者が回答を寄せるというインターネットサイトで、その分析方法として、ディスコース分析はどうかという話も、前回の記事に書いた。幸い、グッドタイミングで、9月の日本心理学会で、「「私」をめぐる物語へのディスコース分析の挑戦」というシンポジウムがあり(HPにも出しておきました)、企画者の鈴木聡志さんのお誘いで指定討論を務めることになったので、この機会に勉強して置きたい。

++【お願い】ウェブサイトにも著作権があります。引用の際は「プロフィール」欄を参照して著者名を明記の上、このURLも必ず併記して下さい。++

2013年8月 5日 (月)

フッサール心理学(15):研究会に呼ばれての感想の巻/対人違和を最後の研究テーマにの巻

■研究会に呼ばれての感想

8月4日。7月は、めぼしい夢を採集できなかったこともあり、ブログ記事をさぼってしまったが、その間、2度ほど、『フッサール心理学宣言』を出した縁もあって、研究会に呼ばれて出て行った。ちなみに、一つは東大本郷キャンパス、もう一つは同じく駒場キャンパスだったので、東京における人材の一極集中といったことを感じてしまったが、ともあれ、面白い経験だった。本郷キャンパスの方の会では、就労支援に携わっている臨床の方から、「独我論的世界観をもつ人がいたとして、周囲はどのような関係を結ぶべきか?」という、それまで考えてもみなかった質問を受けてためになった。もちろん、独我論者のカミング・アウトは、現在までのところ、哲学専門家の著作の中をのぞいては、一般にはなされていないと思うが、そのうち流行しだすというのが、拙著中の「世に棲む独我論者」の章の趣旨だから、きっちり答えられるようにしたいものだ。

 駒場キャンパスの方の会は、若手の精神科医が中心で、クローズドな会ということなので、紹介は差し控えるが、代わりに、当日の講演資料を(明治の紀要の論文にする予定だが、いつ出るかわからないので)、そのうちにPDF版としてアップロードしておきたい。「人間的世界経験のパラドックス構造」をキーワードに、私の幾つかのテーマのうちの主力だった二つ、「自我体験研究」系と「心理学の哲学」系との統合を企てたものだ。
 

■対人違和を最後の研究テーマに取り上げたい

 話は変わるが、対人違和を私として最後の研究テーマとして取り上げられないかと、考えている。これも、上記の本郷キャンパスの方の研究会で、上記の臨床の方から、
 「自分は周囲とは違うのではないか?という疑問や不安になる体験はあっても、他者の意識や人格そのものの存在確信が不確かになる体験はあまり一般的ではない。『独我論的世界観』を持つ人と関わる経験も一般的に少ないのではないか。/しかし、『あの人は何を考えているか分からない』というような経験は一般的にあるだろうから、『独我論的体験』をイメージしやすくするために日常生活で関連がありそうな体験から考察を始められないか」
 という意見を受けて、思いついたことだ。

 正直な話、「対人違和」という言葉は、20年近く前、今は亡き『イマーゴ』(青土社)に、「独我論者は対人恐怖か」というサブタイトルの記事を寄稿した時に、使った言葉だ。「対人恐怖」ではどっかしっくり来ないので、「性別違和」という言葉から思いついて、対人違和の語を、本文中では用いたのだった。

 もちろん、独我論的体験と対人違和の間に、統計的に有意味な相関があるといった調査は、まったくしたことがない。ただ、私じしんの経験から(つまり当事者研究の立場から)、両者に関係がありそうだなと、思ったのだった。これまでの自我体験・独我論的体験調査では、自分の周りの人間はすべて宇宙人で自分だけが真の人間であるとか、逆に自分だけが人間ではなくどこかから送り込まれた宇宙人だったりといった、児童期にしばしば見られるファンタジーも、独我論的体験に算入することがあった。けれども、「対人違和」という概念の方が、よりふさわしいかもしれない。対人違和の形而上学的周辺領域を形成するのが、独我論体験ということになるわけだ。ちなみに、自分だけが真の人間というファンタジーには、「トゥルーマン・ショウ」という映画にちなんで、「トゥルーマン症候群」という語を思いついたことがある。

 なぜ、対人違和という語を使うかというと、対人恐怖という語には、字面からして「ちょっと違うな」という印象を受けるからだ。アメリカ由来DSM由来の近年話題(?)の社交不安障害(SAD)となると、少しどころかかなり違う。アスペルガー症候群はさらに違う。回避性パーソナリティ障害なら近いが、性格の問題ではなく、体験現象としてアプローチするためには、対人違和がふさわしい。

 ちなみに、「対人違和」でグーグル検索をかけてみたら、正確には2件しかヒットせず、共に私自身のサイトだったのには笑ってしまった。信じがたいことだが、学術的には使われたことのない言葉らしい。

 関連して、最近、図書館で、「孤独力」がタイトルに付いた本を何冊か読んでみたが、どれも、孤独を恐れてトモダチ作りに精を出しすぎて自分を見失っている人に向かって孤独の意義を説くというモノだった。これでは、トモダチ作りの水準までとても行けない人、つまり対人違和が強い人には役に立たない。なにより、著者たちが、本当の孤独を知らない。本を出せるという時点で、もう、本当の孤独ではなくなっている。その点、ネットで、「対人恐怖」「人づきあいが苦手」「ひとりぼっち」「シャイすぎる」といった検索をかけると、そのような内容を相談する人に対して、いろんな読者が回答を寄せるというサイトが幾つかあって、非常にためになった。中には、職場に溶け込もうと最初はしても、何か月か経つうちにだんだん孤立していずらくなり、しょっちゅう転職せざるを得ない、といった深刻なものもかなりあった。

 ネットは、データソースとしてかなり、使える。あとは、文芸作品からの偶発的事例を集めるのだ。後者の分析技法としては、現象学的方法が最適だろう。ネットでの相談事例と回答者とのやりとりには、ディスコース分析といった技法が使えるだろうか。

++【お願い】ウェブサイトにも著作権があります。引用の際は「プロフィール」欄を参照して著者名を明記の上、このURLも必ず併記して下さい。++

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