フッサール心理学(「独我論の現象学」改め)(12):新著の出版にちなんで連載名を変えるの巻
■新著『フッサール心理学宣言』の出版にあわせて連載名を変更することとしました。
ただし、連載の通し番号は元のままです。
フッサール心理学とは何でしょうか。一言でいえば、「世界と他者の自明性を前提とせず、世界と他者をカッコに入れたままでも、実践することのできる心理学」なのです。
他者の自明性を前提としない以上、当然、自明なる他者と自明なる自己とを包摂する「人間一般」という概念をも、前提とする必要がなくなります。心理学も人間科学である以上、人間一般の概念を前提しているはずだと思うでしょう。けれども、人間一般は決して現象しません。フッサール心理学は、人間一般は現象しないという、現象学的にそれこそ明証的な現実から出発する心理学なのです。
■夢世界の探求もまた、フッサール心理学の威力が発揮できるテーマです。
本書でフッサール心理学がテーマとしている現象は、自我体験・独我論的体験、つまり他者の自明性がひび割れる体験です。けれども、本書では扱えなかったのですが、夢研究に最もその威力が発揮できると考えています。
夢というだけで、現実よりもリアリティ度が希薄である。現実が真実ならその反対の虚偽である。こういう固定観念を携えたままでは、夢世界独自の原理を、法則を探究しようにも、モチベーションが高まりません。けれどもフッサール心理学は、世界と他者の実在性を判断停止(エポケー)したまま実践できるため、夢世界と現実世界を、まったく対等の世界として扱います。
他者の存在をカッコ入れしてしまったら、他者の夢報告は使えなくなるではないか、という懸念も無用です。本書の技法の一つである「テクストの一人称読み」によれば、夢報告を含めたあらゆる他者の体験報告は、「私自身がかつて記録し、引き出しの奥に放り込んだまま、記録したこと自体忘れていたテクスト報告を再発見して読む」という読み方によって、私自身の可能的体験とみなされるのですから。あるいは、可能的私の体験、ということもできるでしょう。
可能的私とは何か。現実のこの私は、時代や年齢や性別やその他の偶然的特徴によって、体験自体が制約されたものになっており、体験の本質観取が困難になってしまっています。それを補うのが、可能な限り多くの体験テクストを一人称的に、私自身の体験として読むことによる、本質観取です。
■夢の中で、もう一つの『フッサール心理学宣言』を書きたい
もっとも、夢の探求には一定の限界があります。夢世界の考察が、現実世界においてなされていることです。これではフェアではありません。できれば、夢の中で夢について考察したい。そればかりか、夢世界から見て、「もう一つの夢世界」に他ならないこの現実世界についても、夢の中で考察できるようになりたいものです。
そして、夢の中で、もう一つの『フッサール心理学宣言』という本を書きたい。これが私の夢なのです。
<この項、未完>
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