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2011年6月の記事

2011年6月28日 (火)

独我論の現象学(4):メンタルタイムトラヴェルとメンタルスペーストラベル再考の巻

■メンタルタイムトラヴェルとメンタルスペーストラヴェル

「独我論の現象学(1)」でも触れたことだが、両者の比較を整理してみる。

1)メンタルタイムトラヴェルとして自己の過去を想起。

問い:なぜこの、「想起」という現在時に生じている作用が、「現在」ではなく「過去」を志向していると感じられるのか。

答え:過去物語りによって。

全てを意識化する現象学的反省によって、過去想起は「過去」と言う意味を剥ぎ取られ、「現在時における」想起となる。これが、アウグスチヌスの主観的時間論。過去も未来も現在も、想起ー直観ー期待、として現在にある、という説。過去の私は、現在の私の志向的変容。

2)メンタルスペーストラヴェルとして他者の内面を想像。

問い:なぜこの想像が、「自己の」でなく「他者の」内面の想像として感じられるのか(リップス以来の問い)。

答え:その原因は、意識化できない、無意識的シミュレーションの力による(ミラーニューロンの力?)

 従って、全てを意識化する現象学的反省によって、他者の内面は「他者の」という意味を剥ぎ取られ、空間を異にした「自己の」という意味に還元される。他者は空間を異にした私の志向的変容。

3)1、2の考察を併せれば、宇宙の特異点としての「いま・ここ」がおのずと浮き彫りになってくる。「いま・ここ」を中心とした現象学的世界と、中心なき自明性の世界とは矛盾する。矛盾への気付きが、哲学上の「意識の超難問」を、発達心理学上の自我体験("I-am-me" experience)を生む。→下記文献(Watanabe,2011)参照。

4)ならば、いっそ、「いま・ここ」世界を組み合わせることで、自明性の世界を再構成しよう。そのような再構成の案の一つが、遍在転生観であった。再構成のガイドラインについては、個人サイトにリンクを貼った「宇宙のアノマリーとしての自己と他者」(日本トランスパーソナル心理学/精神医学会特別シンポジウム、2009)で触れておいた。

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++++ブログの主の最近の関連著作++++

Watanabe, T. (2011). From Spiegelberg’s “I-am-me” Experience to the Solipsistic Experience: Towards a Phenomenological Understanding. Encyclopaideia – Journal of Phenomenology and Education, XV(29),91-114.

独我論の現象学(3):フーッサール間主観性論の難点の巻

■フッサール間主観性論の難点

◇超越論的自我の内部に、経験的自我と経験的他我を構成するという方略の難点。

 「なぜ、超越論的自我が他の経験的自我ではなくこの経験的自我(=渡辺恒夫の自我)に定位しているのか」という、「意識の超難問」が生じること。→下記の文献(渡辺、2009)参照。

◇それならば、超越論的自我の複数性を仮定してみよう。すると、超越論的自我をその内部に構成すべき、超・超越論的自我が要請されてしまうだろう。問題の構図がいたずらに入れ子細工式に複雑になるだけで、解決に向かって前進することにはならない。

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++++ブログの主の最近の関連著作++++

Watanabe, T. (2011). From Spiegelberg’s “I-am-me” Experience to the Solipsistic Experience: Towards a Phenomenological Understanding. Encyclopaideia – Journal of Phenomenology and Education, XV(29),91-114.

渡辺恒夫(2009)『自我体験と独我論的体験』京都、北大路房.

2011年6月17日 (金)

夢の現象学(45):日本初のフッサール現象学流軍人と阿蘭陀婦人のロマンス小説を読む夢の巻

■「フッサール現象学流軍人」の手になる阿蘭陀婦人とのロマンス小説を読む

2011年6月17日朝。長い夢を見た。

なにやら小説を読んでいる夢だった。覚醒直後は著者名を憶えていた筈が、もう思い出せない。「日本初のフッサール現象学流軍人」なる主人公が、(多分、阿蘭陀留学中に)「阿蘭陀婦人」と一夜を契るという、戦前を舞台とした話だった。著者の自伝小説らしかった。

 ところが主人公の人生は、もう1人の男の人生と、不思議に交差する。浮田**(下の名は思い出せない)という、フッサール現象学を学んで日本初の潜水艦を設計した海軍軍人だ。主人公は浮田氏手記を、経緯は思い出せないがどうにかして入手して読み、件の阿蘭陀婦人と浮田氏の因縁浅からぬを知り、大いに驚き、身を引く決心をしたのだった。

 それでも、戦後になって、阿蘭陀婦人との一夜の契りで生まれた娘がオランダに住んでいて、来日して高知に今は住んでいることを知って、会いに行くのである。

 以上が、その小説の第一章の内容だ、と思った。ところが第二章以下は、別の物語になっていることに気付く。短編集なのだった。つまり、著者は元々軍人だったが、どうやら浮田氏の手記を読んだことがきっかけで、「現象学的軍人」から、小説家に転身したらしい‥‥、等などと、読みながら考えていた。

 戦前派らしい硬派の文章を黙読する自分の声が、目を覚ましてしばらく、頭の中にこびりついていた。

■終始一貫して小説を読んでいる夢を見てしまったのか?

 夢の中で小説を読み始めると、必ず小説の中に入り込んでしまう、と、私は『人はなぜ夢を見るのか』の終章「夢の現象学」で書いた。けれども、この夢は、物語の中に入り込まず、それを読むというスタンスを維持できた、珍しいケースかもしれない。

 しかも、最初の方、浮田氏の手記を読むあたりでは、主人公に同化して手記を読んでいたような記憶がある。ということは、通常の夢では、最初の方では「読む」夢だったのが次第に物語の中に入り込む、という傾向なのに対して、この夢では、最初は物語に入り込んで、後半では「読む」スタンスに移行してそのまま目が醒めるという、通常の夢とは逆のパターンを辿った一層珍しい例かもしれない。

 小説の主人公が小説の中で手記を読む、という入れ子細工構造は、珍しくない。けれども、小説を読む夢の中でさらに小説の中の手記を読む、という夢の二重構造は、さすがに維持することは難しいのではないか。だから、手記を読む部分だけは、夢の中に入り込んで主人公に同化して手記を読む夢となった、とも解釈できる。

 そう解釈すると、この夢は、終始一貫して物語を「読む」夢であった、ということになる。(京成線の車中にて)

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++++ブログの主の関連する新刊++++

『人はなぜ夢を見るのかー夢科学四千年の問いと答え』(渡辺恒夫著、京都:化学同人、2010)

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