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2011年5月の記事

2011年5月23日 (月)

独我論の現象学(2):見られる体験のエポケー不可能性は他者の意図の知覚の本源性に基づくの巻

■視られる体験の根源性と超越的視線

フッサール『デカルト的省察』における還元によって現れる「私の固有世界」を出発点とする発生的現象学の企てで、まず問題となるのが、「視られる体験」だ。

 これについては、大学生だった頃、他者のまったき非存在を生きようとして失敗した、苦い経験がある。そのことは、青土社から出ていた、いまはなき『イマーゴ』という雑誌に書いておいたので、その頁へのリンクを貼っておく。その後、私は、独我論的体験の例からも、統合失調症患者の体験例からも、個別的他者を非存在化することが、かえって、背後からもしくは上方から、超越的視線によってみつめられる体験を生むことに、気付かざるを得なかった(渡辺、2009, p.192ff)。

 もし、他者の視線がエポケー不可能であれば、発生的現象学も挫折せざるをえない。

■他者の視線とは私に向けられた他者の意図である

 けれども、最近、『ミラーニューロンの発見』という本や、トマセロの本を読んでいて、他者の意図的行為の知覚は、物同士の因果関係の知覚と同じ程度に、知覚的経験として本源的であって、エポケー不可能ではないかという事に思い至った。

 そこからして、視られる体験のエポケー不可能性も、必然的に出てくる。視られる体験とは、他者の意図が自分に向けられることの知覚なのだ。

 つまり、視られる体験は、自分に向けられた他者の意図へと、還元できるのだ。

 フッサールの固有世界でも、他者の意図的行為の知覚は、還元されない。物の因果的知覚と他者の意図的行為の知覚こそ、根源的知覚を二分する知覚なのだ(ちなみに、単なる対応関係の知覚などというものは、知的な構成物としてしか存在し得ない)。

 従って、フッサールが類比化的統覚の根拠としたような、私の身体と他者の身体の類似性など、必要がない。そもそも私の身体と他者の身体とは、外見的にまった似ていない。似ているのは、「意図をもって動く」という点なのだ。

 従って、他者の構成としては、

①他者の意図の直接知覚

②模倣による運動的ゲシュタルト同一性の把握によって、自己の行為を意図的行為として理解

③シミュレーションによって、他者の意図的行為の背後に他者の内面を「創造」

 という三段階が、発生的現象学的に想定されることになる。

ーーーーーーーーこの項、未完ーーーーーーー

++++ブログの主の最近の関連著作++++

Watanabe, T. (2011). From Spiegelberg’s “I-am-me” Experience to the Solipsistic Experience: Towards a Phenomenological Understanding. Encyclopaideia – Journal of Phenomenology and Education, XV(29),91-114.

渡辺恒夫(2009)『自我体験と独我論的体験』京都、北大路房.

2011年5月15日 (日)

夢の現象学(44):出眠時非合理思考の中で私が飛翔人である世界のことを考えていたの巻

■夢の中では聞き知らぬ名の飛翔人として生きていた。

5月15日(日)朝。夢の中では飛べることになっていた。超能力といったことではなく、名札ケースを首に下げる紐を、ヘリコプターのプロペラさながらブンブン振り回しながら、手足を広げてモモンガのように滑空するという、物理的に可能(?)な飛び方だった。

 その日、いつものように飛んでいたのだが、気がつくと地表スレスレまで高度が下がってしまい、高層団地群が行く手に立ち塞がっていた。何とか高度を上げて、団地群の稜線といったところへたどり着いて、羽を休めた。向こう側の街を見下ろすと、何かのフェスティバルでもやっているのか、かなりの賑わいだった。私は、また名札ケースの紐を振り回して飛び出した。

 すると、「オヤ、****だ」という声が、群集の中から上がった。「****」とは、私の名前だった(「渡辺恒夫」ではなく、目覚めてから思い出そうとしても記憶にとどまっていないような、聞き知らぬ名だった)。どうやら私は、飛翔人として少しは名が知れているらしかった。とていうことは、私の飛翔法も知られていて、もしかしたら研究されていて、その結果、私同様の飛翔人が他にも出現しているのかもしれない。そもそも、最初から、私は、自分で思い込んでいたようなオンリーワンの飛翔人ではなく、ワンオブゼムだったのだろうか‥‥。

■出眠時非合理思考は夢か現実か

 ‥‥そんなことをしきりに考えていた時にはすでに目が覚めてたようだ。そしてこの思考も、半覚半睡状態によくある非合理思考だったようだ。つまり、(こんな言葉あるかどうかは知らないが)出眠時非合理思考というわけだ。非合理とは、目が醒めていることにも気付かないまま、夢世界の設定が現実だと信じて、夢の中の問題を考えつつける、ということだ。だから夢世界が現実と言う前提なら、合理的思考、ということになる。

 ここで、この出眠時非合理思考が、本当に夢ではなく目覚めの状態だと言えるのだろうか、考えてみよう。それは、夢と言う「知覚的世界」はすでに終り、瞼の裏の暗闇に直面しながら考えていたと、憶えているからだ。ところがあるところでふと、思考の非合理さ(夢が現実であると言う前提の誤り)に気がつくのだ。

 夢と現実とは、二者択一式に一瞬にして切り替わるのではなく、現実に移行しても夢が現実であると言う信憑がしばらく残ると言う、グレンゾーンがあるらしい。夢が知覚的世界であるというのなら、知覚的世界としての夢には幕が下りているのだから、夢でなく目覚めの世界である。けれども、夢でのことが現実と思い込むという、夢の存在信憑が持続しているという意味でなら、まだ夢世界の中にいる‥‥というわけだ。

■どこかに実在している飛翔人の世界を覗き見するのが飛翔人の夢かもしれない

 飛翔人として生きる夢は、何度も繰り返されるテーマだ(「夢の現象学32」参照)。自分が飛翔人として生きる世界がどこかに存在し、それを覗き見した断片的な記憶が、夢の記憶ではないか、という気がしてくる。ただし、この想定も、夢の度に世界設定が(特に飛翔方法が)異なっている以上、成り立つかどうか怪しいのだが。

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『人はなぜ夢を見るのかー夢科学四千年の問いと答え』(渡辺恒夫著、京都:化学同人、2010)

2011年5月 5日 (木)

独我論の現象学(1):他者とは私のメンタルスペーストラヴェルであるの巻

■新シリーズ「独我論の現象学」を始めるにあたって

 2011年5月4日夜。43回続いている「夢の現象学」に加えて、新シリーズ「独我論の現象学」を始めることにした。

 きっかけは、『質的心理学研究』へ投稿中の「自我体験の現象学」が、掲載決定になったという通知を、受け取ったことだ。投稿したのが昨年10月上旬で、その間改稿が一度あって掲載決定まで6ヶ月半だから、学会誌の審査ペースとしては決して遅いほうではない。にもかかわらず、年1冊の刊行ゆえ、日の目を見るのに次の3月まで10ヶ月待つことになってしまう。

 それはともかく、今回の査読者とのやり取りと掲載決定とで、心理学的現象学の方法に自信を深めることができた。次はいよいよ、独我論の現象学に本格的に取りかかるべき時だ。

  けれども、それと平行してやらねばならないことがある。その中で間主観性が成立しているように思える自明性の世界が、いかにして構成されるかの解明だ。これが、発生的現象学の課題だ。独我論の現象学と間主観性の発生的現象学とは、コインの両面のようなもので切っても切り離せないのだ。

 なぜならば、私は確かに世界の二重性を生きているからだ。独我の世界、「唯一者」の世界と、その中で類的存在として私が生きる世界との。

 今回は、発生的現象学の試みとして、Tulvingのメンタルタイムトラヴェルに想を得てみた。それが、次の文章だ。別の学会誌の依頼論文の脚注にしようと書いたものだが、枚数超過になるのでやむを得ず削る予定の文だ。

■他者とは私のメンタルスペーストラヴェルである

心の理論説を採るにせよシミュレーション説を採るにせよ、「他者の内面」という概念はいかにして獲得され、「私の内面」と同じ「内面類」に属するものとして理解されるようになるのだろうか。心の理論説は類推説の一種であるが、マルコ・イアコボーニがシミュレーション説の先駆者として紹介しているテオドール・リップスによって論理的難点を指摘されて以来、哲学上はお払い箱になった。とはいえ、シミュレーション説でも、論理的難点は解決されてはいない。他者の身体へ移入された私の内面は、「私の」内面であって他者の内面ではないからである。リップスは、「不思議にも他者の内面として感じられてくる」といったようなことしか述べていないのだから。

 この難点に対する私の解決策は、「他者の内面」も、Neisserの言う「時間的拡張自己」から派生する、というものである。「私秘的自己」と同様にである。まず、「過去の自分」と「他者」には共通項がある。前者にはエピソード記憶+ナラティヴによって接近できるし、後者にもシミュレーション(感情移入)とナラティヴによって接近できる。加えて、エピソード記憶と感情移入には、次のような共通構造がある。

 エピソード記憶 過去についての現在の想像だが、過去の経験として理解されて、「現在の」という了解が括弧に入れられている。

 感情移入 他者についての私の想像だが、他者の経験として理解されて、「私の」という了解が括弧に入れらている。

 エピソード記憶 過去へのメンタルタイムトラヴェルである。

 感情移入 他者へのメンタルスペーストラヴェルである。

 共に、哲学的反省に対して脆弱である。つまり、反省の結果、次の矢印のようになりやすい。大森荘蔵の哲学がその例である

 エピソード記憶→過去は存在しない。記憶が現在の私の記憶に他ならない以上、過去は記憶によって制作されるのである。

 感情移入→他者は存在しない。他者の中に移入された感情が私の感情である以上、他者の感情(および内面)とは私の感情(および内面)によって制作されるのである。

 「他者が存在しない」と主張するのなら、「過去の自分も存在しない」と主張しなければならない。

 「過去の自分が存在する」と言えるなら、「他者も存在する」と言わなければならない。

 以上のテーゼは、フッサールの『省察』にある、「他我は自我の時間化である」という、謎めいた言葉とどこかで結びつくような気がするのだが。

 

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『人はなぜ夢を見るのかー夢科学四千年の問いと答え』(渡辺恒夫著、京都:化学同人、2010)

自我体験と独我論的体験』(渡辺恒夫著、京都:北大路書房、2009)

2011年5月 1日 (日)

夢の現象学(43):「二度目の生のありぬべき」という謡いを聞いていたの巻

■「二度目の生のありぬべき」という夢の中の謡いの文句の解釈

 5月1日(日)。4月29日の早朝、夢を見てキーワード的部分だけをベッドサイドで書く。

(1)研究会。私を含めてふたりしかきていない。志村さんは休むことが分かっている。どうしようかと主催者が言っている。

(2)二度目の生のありぬべき

 以上の2つのキーワード(キーフレーズと言うべきか)を頼りに、深夜に再現してみた。

(1)研究会らしき会を大学でやっていた。東邦大学らしかった。今回は私と、幹事らしき人物のふたりしかきていない。「志村さん」は休むことが分かっている。「どうしようか」と「幹事」が言った。

 このエピソードの前後にもストーリーがあったのだが、もう思い出せない。

(2)このキーフレーズは、同じ夢の後の部分なのか、それとも別の夢なのかは分からない。とにかく、謡いのようなことをやっているのを見ていたのだった。何人かが、それぞれに別の文句を謡いながら舞う。中で、「二度目の生のありぬべき」という謡いがあった。それが目覚めてからも耳に残った。これは、輪廻転生はあり得ない、といっているのだ。なぜ、こんな節を、しかも謡いで聞かなければならないのがふしぎに思われた。

 ところが、半日ぐらいたって、突然、意味を取り違えていたことに気がついた。「ありぬべき」を、「ありえない」と解釈していたのだが、実は、「あったに違いない」という意味なのではないか‥‥

 とにかく、特に謡曲に関心があるわけでもないし、最近謡曲を聴いたという記憶もない。それなのに、なぜ、こんな夢を見たのだろう。

 なぜ、こんな夢を見たのか、という問いの多くには、答えられない。夢の研究者としてはなさけない限りだ。それだけ夢の神秘は深く、それゆえに考える値打ちがある、とでも思っておくしかしかたあるまい。 

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