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2011年2月の記事

2011年2月27日 (日)

夢の現象学(41):またしても見覚えのない風景の中にいたの巻

■福島県南部の山間で紙製の犬と闘う

 2月23日(水)。夢を見た。福島県南部の、茨城県か栃木県との県境に近い山の中にいた。私の田舎は郡山なので、県境に近い山にも子どもの頃に行ったことがあるが、夢の中の風景は実際の記憶とは別のものだった。

 何かの団体で来ていて、一行は日本海側へ抜けるのだと言う。K・M子さん(学科の若い同僚)らしき女性が、「渡辺さんは行かないでしょうね」と、私の気力体力の状態を慮ったように先回りして言うので、もっけの幸いとその通りにして、1人で県境を越えて東京方面へ戻ることにした。

 山の中の曲がりくねった道路を行くーー歩いたのか自転車だったのかは憶えていない(すべるような速さだったので、書き記す段になって、「自転車」と解釈したのかもしれない)。県境を成すトンネルに入る。内部は自然洞窟のようで、少し行くと、横壁に、小さな穴が二つ開いている。どちらかが、県境を抜ける道なのだ。私はいったん引き返してトンネルを出た。車が来ればどちらの穴に入ってゆくかで、道が分かるだろうと、考えたのだ。

 二台の小型車が走って来た。と、車と思ったが、犬になっていた。二頭とも、一方の穴に入っていった。私は、その犬どもの後足か尻尾を掴んで引き戻した(あるいは勝手に戻ってきたのか、すでにはっきりしなくなっているが)。犬たちは怒って、飛び掛ってきた。私は犬どもの頭を、何かの棒で叩いた。

 犬たちは、紙人形製で、頭部は、御札のような形をしていた。それを、地べたへ何度も何度も、二つに裂けるまで叩きつけた。これで大丈夫、もう動かない、というところまで、叩きつけ続けた。このあたりで目が覚めた。

■レヴォンスオの「脅威のシミュレーション機構説」の例解

 現実生活では私は、およそ、「闘う」など無縁なのに、夢では当然のように闘うのだ。まさにレヴォンスオの、threat simulation mechanism の発動としての夢という理論の、例解のような夢だった。

 2日まえの、アメリカ北部に行った夢に続き、舞台設定だけは知っている筈の土地(シアトルや福島県南部)になっているのに、実際に夢に出てきたのは見知らぬ風景だった。ただし、思い出していると、似たような舞台設定の過去の夢の記憶の断片が、次々と浮かび上がってくる。福島県南部の山間に、過去の夢でも居たような覚えがあるのだ。だから、現実には見知らぬ風景だが、夢の中では、過去の夢で見たことがあると言う意味で、見知った光景のような気がしていたのだ‥‥(午前10時半。京成津田沼駅構内の喫茶にて)。

■考察ーー現実と同様、夢同士もつながりあっている

 夢の中の視覚像は現実の記憶に由来する、というのが定説だ。けれども、私の夢はそうでもなくて、風景など、圧倒的に、現実には見覚えのないものが多いのではないか、というのが、この夢と、一つ前のアメリカ北部にいた夢の考察からわかることだ。おまけに、それら、現実には行ったことのない土地、見知らぬ風景が、何度もくりかえして夢に現れてくる。

 現実同士が、たとえば昨日と今日とが、リンクしているだけでなく、夢同士も、リンクしているのだ。ただし、リンクの仕方が現象学的に異なっているので、一方の群を「現実」と呼び、他方のグループを「夢」と呼ぶのかもしれない。

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2011年2月24日 (木)

夢の現象学(40):夢の中の風景は夢の中でしか見覚えがないの巻

■アメリカのカナダ国境に近い町の河岸の風景

2月21日。夢を見た。アメリカを旅行していた。カナダに近い国境の町らしかった。私は変な気負いから(もしくは天邪鬼から)、飛行機も自動車も利用せず、徒歩で旅することに決めた。そうやって歩いてゆくと、広い河岸に出た。橋がない。

 頭上を、飛行機が飛び越してゆく。ああ、アメリカは、飛行機で移動するのが前提の社会なのだな、と実感した。だから、橋もないのだろう。一つだけ、それらしいのが見えたのだが、河の真ん中で折れ曲がって水面に沈んでしまっている。その、廃橋のたもとまで行くと、車が次々と乗り入れているのが見える。きっと、橋の途中でも、色々用があるのだろう‥‥。それほど、川幅が広いのだった。

 さらに行くと、河の堤防の真下に、待合所のような建物がある。中にトイレがあって、大勢の人が詰め掛けている。階段を下りて、その二階下まで行くと、そこは河側とは反対側の地上だった。霧雨のようなものが降っている。上はトイレだからその影響かもしれない、汚いな、と思った。この辺で目が覚めた。

■夢の中の風景は夢の中にしか存在しない

 不安とあせりの入り混じった、心細い夢だった。2月6日に見た、アメリカを鉄道で旅行している夢の続きのような気がした。

 大河の風景は、今も鮮やかに想い出すことができる。ちなみに連想すると、伊豆大島行きの船から見た、東京湾の工業地帯の光景が浮かんでくる。つまり、河岸と言うより、湾岸工業地帯といった、風景だった。

 けれども、そのように連想する現実風景はあっても、また、設定は、カナダに近いアメリカなのだから、去年の夏に行ったシアトルが直ちに連想されるのだが、にもかかわらず、やはり、夢の中の風景は夢の中にしか存在しない。けっして、現実の過去の風景のコピーではないところが、面白いところだ。

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2011年2月18日 (金)

夢の現象学(39):夢の世界では別人として生きていたの巻

■別人として現実にはないアパートに住んでいた夢

 2月18日(金)。夢を見た。アパートに住んでいた。古ぼけた畳敷きの部屋だった。隣との間は、薄い板壁一枚だけで、仕切られていた。

 夢の中ではこのアパートは見慣れた場所だった(目が覚めて思い起こしても、過去の他の夢に何度か出てきたという気がする)。そして、夢の中では、私は別人だった。つまり、渡辺恒夫ではない人物だった。

 突然、廊下に、大きな声がした。同時に、鍵をかけておいた筈の出入り口の引き戸が、ガラガラとひらいた。半分だけ開いた入り口から、大声の主が内部を瞥見して、また戸を閉めて、隣室の方へ行った気配がした。きっと、酔っ払ったかして、部屋を間違えたのだろう。それにしても、鍵が掛かっていたはずなのに力任せで開いてしまうとは物騒だ‥‥この辺で、目が覚めた。

■夢の中で別人であるとは、一種の輪廻転生であるということではないか。

 すでに書いたように、アパートの和室は、今まで何度か夢の中で、住まいとしていた場所だった(現実には見覚えがないが)。けれども、そこに住んでいた私自身が、渡辺恒夫ではない人間だった。それだけは、夢の中でも分かっていたし、目覚めてからも分かっていたことだった。

 夢を、現実世界と存在論的に対等の地位を占める「世界」であるとみなす、超越論的現象学の立場。夢世界の中で、私が「渡辺恒夫」以外の人間であったこと。この二つの論理的帰結として、私は、目覚めと共に、「他の誰か」から、「渡辺恒夫」へと、輪廻転生したといえるのではないだろうか。

■他人の夢への侵入(インセプション)との比較

 映画インセプションでは、他人の夢へ侵入というアイデアを基にしている。他人の夢への侵入とは、昔からあるアイデアで、相手の夢を内側から変えることで治療を行う「夢師」というサイコセラピストの話も、小説やマンガで読んだことがある。

 けれど、私が他の誰かの夢へ侵入したら、その夢の続いている限り、私はその「誰か」として生きていることになるのではないか。その場合、夢主と夢中劇主人公とは別人ということになるが、超越論的自我(=夢主)と経験的自我(夢中劇主人公)とは別人という事態は、夢ではありえないことではない。

 逆に、私の夢に他の誰か(夢師といったサイコセラピスト)が侵入してきた場合、私は、その「他の誰か」になった夢を見た、と思うだけではないか。

 このように考えるのは、他者の主観的経験は、想像であれ夢であれ、あるいはテレパシー的にであれ、私が経験する限り私の経験であって他者の経験ではないからだ。

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2011年2月 9日 (水)

夢の現象学(38):夢の中でも世界の二重性を生きられるのかの巻

■世界の二重性を生きているらしい夢を見た。

 2010年2月8日。朝。夢を見た。江戸時代もしくはそれ以前の、昔の日本にいた。複雑なストーリーが展開していた。私はその物語の中で、「誰か」として生きていたようでもあり、ストーリーを、映画でも見るように楽しんでいたようでもあった。目覚まし時計の音で目が覚めたが、夢がいいところで終わってしまったのが残念だった。暫くベッドの中にいて反芻して夢を記憶に定着させようとしたが、京成電車の中で思い出してみると、内容はまったく思い出せなくなっていた。

 夢世界では現実世界と異なり、世界の二重性を生きることができない、なぜなら夢世界には仮定法がないからだ、と、昨年出版した本の中で私は書いた(『人はなぜ夢を見るのか』渡辺恒夫著、化学同人、2010)けれども、この夢のように、夢の中の登場人物として生きると同時に、夢主として夢の物語進行を、上空から俯瞰しているかのような夢と言うのは、世界の二重性を生きていることになるのではないだろうか。ただし、現実世界の中でフィクションに没入している場合のような、世界の二重性とは、また現象学的に異なる様式をもって、であるかもしれないが。

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