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2010年1月の記事

2010年1月23日 (土)

夢の現象学(22):2009年惜別の人_黒田正典先生(心理学)と栗本薫さん(作家)

■2009年惜別の人_黒田正典先生(心理学)の巻

 今回は夢の話とははずれるが、遅まきながらの惜別の辞ということにしよう。

 7~8年前から、黒田正典の主体変様的方法(idiomodific method)を海外に紹介しようと試みていたが、ついに、本格的な紹介を果たすことができた。英書の1章(Chapter 10)として出版したのだ。同時に、主体変様的方法の、自我体験研究とインド心理学の展開への、適用の試みでもある。PDF版を、【ブログの主の個人サイト】からダウンロードできるようにしておいた。

  それが、昨年6月のことで、さっそく黒田先生にお送りしなければならなかったのだが、ためらってしまった。毎年年賀状はやり取りしているとはいえ、私の母と同い年の92歳という高齢なので、お送りしても理解していただける健康状態にあるとは思えなかったのだ。

 それが虫の知らせというべきだったか、暮れには、奥様から、喪中欠礼の葉書をいただいた。昨年5月に、黒田先生は亡くなっていたのだった。

 2002年に、International Society for Theoretical Psychologyで主体変様的方法を紹介するとお知らせしたときには、大変喜んでいただき、餞別までいただいた。それ以後、活字化に思わぬ時間がかかってしまい、あと1年、出版が早ければ、お送りして喜んでいただけたのにと、心残りのことである。とにかく、英語で学説を紹介するというのはたいへんな労力がいる。

■未完に終わった栗本薫の「グイン・サーガ」最後の数巻を読んで、遍在転生観に近い死生観に達しつつあったことを発見するの巻

 もう一人、2009年の惜別の人といえば、やはり5月ごろ、グインサーガを未完のままにして逝った、栗本薫さんだ。

 面識があったわけでないので呼び捨てでもいいのだが、黒田先生と並べると釣り合いが悪くなるので、さん付けにしておく。もっとも、姿は見たことがある。新宿コマ地下劇場に、ある人のお供で「炎の群像」を見にいった時に、受付で役者と話している調子のいいオバさんがいたのだ。

  個人的なことは別として、このグイン・サーガには、自我体験事例が出現している箇所がある。「イシュトヴァーン事例」については、2つ前のブログ「夢の現象学(20):栗本薫『グイン・サーガ』の中のイシュトヴァーンの独白は自我体験事例だの巻」に、詳しく書いておいたで、参照して欲しい。

 ここで書くのは、グイン・サーガ第128巻に出てくる、ある段落だ。130巻で中断しているので、128巻といえば終りから3巻目で、「謎の聖都」という題がついている。若きパロ王立学問所主任教授のヨナが、ミロク教徒の聖都に潜入する物話だ。

 その物話の中で、ヨナが、子どもの頃、父親が語ってくれた言葉を、回想するシーンがある。

 「ミロクさまは何回もお生まれになり、亡くなられてはまた違う子供のなかに宿ってこの世に戻ってこられたのだが、それはすべてのひとの悲しみを理解し、すべての人間の心をくむためだったのだ。それだから、ミロクさまは、敵どうしの国のそれぞれの戦士にもお生まれになった。それから、肉を食う肉屋にも、それに食われる動物にもお生まれになった。それから、だますあきんどにも、だまされる貧乏人にもなられたことがある。殺したものにも、殺されたものにもーーーーそうやって、ミロクさまは、この世のすべての人間だけではなく、すべての動物の気持ちもわかるようになられたのだ。----そうして、ミロクさまは心を決められたのだよ。『この世の生きとし生けるものすべては、さいごにはひとつである。殺しあってはならぬ。くらいあってはならぬ。肉を食べなくてはならぬときには、そのウシやヒツジにわびながら、そのいのちをいただき、次の生ではわたしがあなたに食べられますから、と約束するのだ。‥‥』‥‥」

 ここまで読んで、私は、アレレ、これって、遍在転生観じゃない?と、一瞬思ったのだ。けれども、すぐ、そうとは限らないと気づいた。

 もしも、ヒツジの肉を食べている私が、次の世では、私がまさにそのヒツジに生まれ、ヒツジのほうでは食べている人間である私に生まれることを約束するという意味なら、まさに遍在転生観だ。

 けれども、どうもそうではないらしい。次の世では、私はヒツジの好物の草に生まれ、そして、ヒツジの方では別のヒツジに生まれる、といったことを約束する、という意味ではないか。あるいは、次の世で私は別のヒツジに生まれ、ヒツジの方ではオオカミに生まれるということでもいいが。そういう意味なら、普通の輪廻転生観だ(これを局在転生観と私は称しているが)。

 けれども、それも違う、という気がする。次の世で私は草に生まれて、いま私が食べているヒツジに生べられることを、約束する、という意味にも取れる。それなら、やっぱり、遍在転生観だ。いま私が食べているヒツジに食べられる草に生まれるためには、同時代の他者に転生しなければならないからだ。

 それにしても、やっぱり、栗本薫さんは、自覚的な遍在転生論者ではなかったと思う。もし自覚的であったなら、「次の世では私があなたに生まれ、あなたが私に生まれて、私があなたに食べられますから、と約束するのだ‥‥」といった文章になっただろうから。アア、ややこしい‥‥

註:遍在転生観、遍在転生論については、拙著、『輪廻転生を考える』<講談社現代新書>をご参照下さい(ただし絶版中)。

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2010年1月 5日 (火)

夢の現象学(21):死とは夢から醒めること云々と思いにふけっていたら、夢の中で死んで目が醒めたの巻

2010年1月5日

■死とは夢から醒めること云々と思いに耽っていたら、夢の中で死んで目が醒めたの巻

 昨日、夢の中で死んだ。死に至る経緯は思い出せない。だから、死んだということだけが、記憶に残っている。そして、死んだと思ったら目が醒めた。それだけの夢だった。

 年末に、5年前の引越し荷物の最後のダンボール箱を開けて、残った本を取り出した。その中に、新宮一成さんの『夢分析』があった。かつて、教養心理学の宿題で読書感想レポートを提出させたところ、この本を題材に選んだ学生がいて、「死は無限に目覚めること‥‥」というこの本の文章を読んで、著者は精神病者ばかりを相手にしているうちにおかしくなったのかと思った、‥‥と書いていたことを思い出した。

 なるほど、ロジェ・カイヨワが『夢の現象学』の中で書いていたように、この世界が現実か夢かを判定する基準がないのであれば、死んで確かめるほかはあるまい。夢ならば、夢の中で死ねば目が醒めるのだから。ただし、今までよくあったように、目が醒めたらそれもまた夢だったという、無限背進に陥らないとも限らない‥‥といったことを、この数日、ぼんやりと考えていたのだった。そうしたところ、この夢を見たのだ。

  この夢は、いままでの記事に書いてきたようにシミュレーションであるが、現実のシミュレートというよりは、より抽象的な、思考実験である。「死とは夢から醒めることである。したがって輪廻転生とは無限に目覚めることである。この現実も夢ならば、死ぬことは目覚めることである‥‥」といった抽象的な思惟を、この夢は思考実験にかけたのだ。

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<この項、未完>

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