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2009年12月20日 (日)

夢の現象学(20):栗本薫『グイン・サーガ』の中のイシュトヴァーンの独白は自我体験事例だの巻

■栗本薫『グイン・サーガ』60巻でのイシュトヴァーンの独白は自我体験事例だの巻

 グイン・サーガ128巻と129巻をたてつづけに読んだ。作者は5月に亡くなっているので、遺作である。多分、130巻が絶筆になるだろうとのこと。長い中だるみ期間を乗り越えて、このところまた面白くなってきた矢先に途絶してしまうのが惜しまれる。

 グイン・サーガは、第1巻から欠かさず読んでいた。途中、作者のヨン様ならぬナリス様ァ趣味に閉口して遠ざかっていた時期もあったが、幸いというかアルド・ナリス公が逝去してくださったお陰で、また読み続けることができた。

 グイン・サーガから離れられなかったのは、60巻で、「自我体験事例」を発見したからという理由もあった。戦士イシュトヴァーンの独白に、その「事例」がある。私は『<私>という謎:自我体験の心理学』(渡辺恒夫・高石恭子編、新曜社、2004)でも、『自我体験と独我論的体験』(北大路書房、2009)でも、これについて論じている。ここでは、後者の本から引用しよう。出版社には無断だが、自分の本から引用するのだから、許容範囲と思われる。

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‥‥次に掲げるのは,異世界ヒロイック・ファンタジーという,リアリズムとは最もかけ離れたジャンルの作品の一節である。これがどのように作者の実体験の投影と見なされうるかの議論は後回しにして,まず,その自我体験としての意味を考察してみよう。

【事例7-1】(グイン・サーガ事例)

 「そうなんだ……全部本当にあったことだったんだよな……何もかもだ。俺の人生……いったいなんだって,こんなふしぎな人生が俺の人生だなんてー信じられるか?俺はー俺は……何が不思議だっていって,俺が俺だってことだよ!こんな不思議なことはありゃしない。この世に何千万人の人間が生まれ,死んでゆくのに,なぜたったひとりのこの俺がー俺なんだ?俺だったんだ?」(栗本,1998, pp.28-29。傍点は原文)。

 若い世代に人気の大長編ヒロイックファンタジー『グイン・サーガ』の一場面で,若き将軍イシュトヴァーンが呟いた言葉である。若いといっても (推定年齢2324),物語の舞台になっている中世騎士物語風の世界の中では,青年期と言うよりはすでに成人期の初期であって人生の真昼間に近い。娼婦の子に生まれ,傭兵として身を起こし,波乱万丈の冒険の末,いまや王座に手の届くところに来た,生まれながらの戦士が,柄でもなくフッとわが身を振りかえり,自問したのである。

 中核となる問いは,「自己の根拠への問い」として典型的な,「なぜ自分は自分なのか」形式の問いである。

 比較のため,この形式の問いをよく表現していると思われる例を,第2章の調査事例の中から再掲しておく。

【事例2-1】たぶん小学生の高学年くらい。なぜ自分は自分なのだろう。なぜ自分になったのだろう。これからもこのままの自分なのだろうか。考えると訳がわからない。どうしてそのようなことを考えるに至ったのかはよく覚えていない。

 この調査事例にくらべると,イシュトヴァーンの問いは,前後の文脈の中に置くことによって,隠れた構造がよりよく見通せるものになっている。「なぜ私は私なのか」の問いとは,第一に,「この世に何千万人といる中で,よりによって,なぜ,数奇な運命に置かれた比類なき戦士イシュトヴァーンが私であり,他の誰か平凡な人間が私ではなかったのか?」という問いなのである。私は誰か平凡な人間のひとりでありえたはずだ。その方が確率的に納得のいくことではないか?

 つまり,「なぜ私は私?」での一方の「私」は固有名詞 (イシュトヴァーン) に置き換え可能であり,他方の「私」はそうではない。だからこの問いは,単なる同語反復ではない(第3章の「3:事例の考察」中の「自己の根拠への問い」での議論参照)。それが,引用文中で,後者の「私」に「俺なんだ?」と強調点が付けられたことで示されていると思われる。

 とはいえ,どんな平凡な人間であっても,当人にとっては,他に置き換え不可能な「たったひとりのこの私」に違いない。したがって,イシュトヴァーンの問いの構造は,事例2-1にもそのまま移し換えることができる。すなわち,「なぜ私は私であり,どうしてここにいるのか」の問いの隠れた構造とは,「なぜ日本という国の某県県某市に住むある家族の一員が私であり,(たとえば) テレビを通して写される,内戦に苦しむA国の一家族の一員が私ではないのか?」といった意味なのである。それゆえ,イシュトヴァーンの事例のように,自分が比類なき戦士であったり数奇な運命に置かれていたりといった事柄は,単に内省のきっかけに過ぎないだろう。内省的にしかその存在が体験されない無色透明の 《私》 が,同時に,地上何十億と存在する,固有名詞を備えた具体的経験的な無数の人間の中の特定の一人であるという,結びつきの偶然性が,謎として感じられているのだから。

 思うに,自己の根拠への問いを誘発したのは,イシュトヴァーンという人間の,いわば特別製の人生であっただろう。ごく平凡な一市民であったなら,このような思いとは無縁であったかもしれない。しかも,架空の戦士のこの問いが,作者栗本薫自身の問いの投影であることを窺わせる証拠にも欠けるわけではない。栗本は,「グイン・サーガ」シリーズの後書で,しばしば,世界一長い小説の作者としてギネスブックの記録を更新しつつあるという自らの人生の不思議さを思い,「思えば何と不思議な人生であることよ」と述懐している。また,中島梓名義の他の著作の中では,彼女は,作中人物のだれよりも,副主人公格にすぎないイシュトヴァーンに自己投影していると,告白している(中島,1992)。架空戦士の問いを作者の問いの投影と解釈することには,相当の根拠があるといえよう。

 つまり、自分の人生を特別視するという体験もまた、「自己の根拠への問い」の、呼び水となるということだろう。‥‥

  (『自我体験と独我論的体験:自明性の彼方へ』(渡辺恒夫著、北大路書房、2009、Pp.164-165)

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<この項、未完>

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