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2009年9月の記事

2009年9月29日 (火)

夢の現象学(13):夢はやっぱりリハーサルの巻。夢は未来への想像力の展開であるの巻

■夢はやっぱりリハーサル?

 夢はリハーサル説に傾きつつある。

 5年前、カナダ滞在の2日目。翌日はヨーク大に行ってDrテオに会うという夜、テオさんに会って話をしている夢を見た。

 当時はホブソンの、一週間前の記憶が夢に出現する、という説を本で読んだばかりだったので、なんだホブソンは嘘ッパチだな、と思ったものだった。ちなみに一週間前記憶が夢の原料説は、ジュヴェの小説『夢の城』にも出てくる説だ。その後、カナダのニールセンが、より詳しい実験に基づいて、夢に出現する記憶のピークは前日と一週間前と2つあるという説を唱えているのを知って、納得した。

 それにしても、翌日会う予定の人物に夢の中で会ってしまうという事態は、夢が、記憶に基づくというより、未来予期・未来投企に基づくことを示している。最近、立て続けに、翌日の会議や会見の予定を、前の晩に見るということがあって、夢はリハーサル(予行演習)説に、ますます傾きつつある。

 たとえば、翌日シンポジウムで話をしなければならないとする。そして、昼間のうちから、たとえばC氏がやってきて意地悪な質問をしかけてくるのではないかという、懸念があったとする。昼間のうちは、他の雑事にかまけて、そんな懸念は心のどこか片隅に置き忘れるか、さもなければ無理やり奥に押し込めている。ところが夢では、邪魔されることなく、懸念の生み出す空想に(つまりシミュレーションに)耽ることができる。

 しかも、ブログの以前の記事で書いたように、夢の文法には仮定法がない。「もしもCさんが」という仮定法は、夢の中では実際にC氏が現れて質問をしかけてくる場面となってしまう。

 おまけに夢では、C氏はいつのまにか、D氏に変わっていたりする。フロイトのいうイメージの融合だ。

 昼間の世界でも、そんな連想はある。C氏のことを考えているうちに、たとえば「意地悪さ」という共通項から、シンポジウムとは関係のないD氏へと連想が移ったりする。昼間の世界では、そこでハッと、何考えているんだと気づいて頭を切り替える。けれども夢では、現れる筈のないD氏が現れるばかりか、シンポジウムを妨害するなどの騒ぎのあげく、舞台はいつのまにか、D氏の職場であるT大に移っている‥‥といった支離滅裂となる。

■夢は未来への想像力の展開であるの巻

 このように、夢は、未来への想像力の展開なのだ。

 昼間の意識も、夢も、たえず未来へ想像力を馳せているのは変わりない。ただし、夢では、外的事情に妨げられることなく、完全没入状態で想像をめぐらせることができる。だから、小説家が完全没入状態で仕上げた作品に傑作が生まれるように、しばしば、昼間の意識からは思いもよらない、独創性の高い夢物語ができあがる(3年前にこのブログ記事に書いた『七つの月が昇るとき』のように)。

 ただし、フロイトのいう一時過程に支配されているため、タガの緩んだ連想物語になってしまい、支離滅裂になることも多い(圧倒的に多い、と言うべきか)。

 夢に特別な機能があるわけではない。眠っていても考え続け、想像をめぐらせ続けていることの証しなのだ。

■夢には仮定法がないばかりか、過去形も未来形もないの巻

 だから、過去想起も未来予測も、常に現在形として体験される。

 周知のように、レム睡眠中は筋緊張が抑制されているため、どんな情緒価の高い想像活動をしても、ベットから飛び出すことはない、ということがある。恐らく、レム睡眠中に記憶の整理が行われる際に情動が賦活されて暴れだすようなことがないよう、このようなメカニズムが進化したのだろう。

 結果として、ヒトは夢を、昼間の意識ではありえないほどの徹底したリハーサルやシミュレーションとして、活用できるようになったのだ。

 

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2009年9月21日 (月)

夢の現象学(12):夢の中で「最大のアノマリー(変則事象)は自己である」というアイデアを得るの巻。夢の事象と現実の事象の意味的同一性の巻。現実世界を取り巻いて過去の世界や他者の世界や夢の世界といった様々な可能世界があるの巻

■夢の中で「宇宙最大のアノマリー(変則事象)は自己である」というアイデアを得るの巻。

2009年9月15日。夢を見た。Aさんとどこかへ行こうとしていた。あるいは、帰ろうとしていたのかもしれない。Aさんは、舟で行く、と言い出した。波止場のようなところで小型船を物色する。横倒しになったり裏返ったりした船が多い。なんでも、鉄製の小型船がよいとAさん。鉄の船が浮かぶのか、と心配になったが、大きな船だって鉄製だと思い返した。

 この辺、Aさんに、技術者的に有能な人物として信頼をおいていた(ちょうど、昨夜読んだ、ケナー作のサスペンス小説の中の軍人科学者マイクルのように)。

 夢の最後の辺りでは、11月のシンポジウムで何を話そうかと考えていた。トランスパーソナル心理学/精神医学会のシンポで、テーマもアレだから、アノマリー(変則事象)を題材にすればよい。私の立場からすれば、「最大のアノマリーは自己である」ということになるなア、と考えていた。そのうち、目覚まし時計が鳴って、目が醒めた。(朝9時20分頃。総武横須賀線にて)。

 「最大のアノマリーは自己である」‥‥これが、夢の中で得た洞察だ。まっこと、夢の中の思考は鋭い。

■夢の中と現実の事象の意味的同一性の巻。

 夢の登場人物は夢見者がその相手に現実世界の中で無意識的意識的に抱いているイメージの形象化である、というC.S.Hallの説の見本のような夢だった。付け加えるならば、Aさんとマイクルとが融合している。この融合に一役買っているのが、反環境主義という共通項だ。小説のマイクルに、Aさんを投影して読んだのだ。

 現象学的に考察しなおすならば、これは、ウスラー(『世界としての夢』)の、「透けて見えるような夢の意味」の、あるいは「夢世界と現実世界の意味的同一性」の例ではないか。{現実のAさん+小説のマイクル}/2=夢の中のAさん、という訳だ。

■現実世界を取り巻いて過去の世界や他者の世界や夢の世界といった様々な可能世界があるの巻

 ここで、あるアイデアが閃く。夢と現実とは、現象学的には独立した別個の世界だ。にもかかわらず、人物といった個々の事象の間に、意味的同一性がある。これは、「私の世界」と、他者Xの世界(=私がXであるような可能世界)が、独立した別個の世界であるにもかかわらず、その間に意味的同一性がある(らしい)ことと、同型ではないか?

 今日の私の世界(=渡辺恒夫が私であるような世界)がある。それを取り巻いて、様々な可能世界がある。過去の私の世界(これは想起の中にしか現実化しない)、他者の世界(=その他者が私であるような世界)、そして夢の世界。

 この中で、アクセス不可能なのは、他者の世界だけではない。過去の世界、夢の世界の殆どは、もはや想起できなくなっているという意味で、アクセク不可能なのだ。

 他者類推説の不合理を突き、他者を私の分身、私の創造物としたTheodor Lipps(1905)は正しかった。けれど、無からは何ものも創造されない。

 他者創造の源泉は、想起された過去の私である(フッサール『デカルト的省察』よりの示唆)。そして、夢の中で他人として生きた人生の記憶なのかもしれない。もちろん、夢の中で他者になれるためには、すでに他者が創造されていることが必要だ、と逆に考えることも可能だろうが。

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2009年9月 6日 (日)

夢の現象学(11):夢の世界では様々な現象学的還元が実現しているの巻。フッサールの『デカルト的省察』から示唆を受けるの巻

夢の現象学(11)

■夢の世界では様々な現象学的還元が実現しているの巻

 現実世界では、誰か他人に自己移入された私を私でなく他者と感じる。ところが夢の世界では、誰か他人に自己移入すると、即、その「誰か他人」に成ってしまう。

 例。「私は名探偵金田一耕助になって新幹線に乗っていた。」これは、昔、『夢と人生』という同人誌に載せた、「夢日記」の書き出した。現実世界で金田一耕助の話を読むとき、私は確かに主人公に同一化するが、一方で相手は他者であるという自覚を失うことはない。ところが、この例のように、夢の世界においては、「想像された他人の心は私の心である」という現象学的還元が、たやすく実現してしまうのだ。

 夢の世界において実現する現象学的還元は、他者の実在のエポケーだけではない。様々な層、様々な角度において現象学的還元が生じるのだ。

 たとえば、「その夢の中では渡辺恒夫は私ではなく一人の他人だった」というのも、ある角度からの現象学的還元によって、私の底に潜む自然主義的世界像を、可視化したのである。

■フッサールの『デカルト的省察』から示唆を受けるの巻

デカルト的省察は、学生の時に卒論にしようと、原書に挑戦して挫折した苦い経験がある。40年後の今、翻訳で読むと、思いがけずやさしく読めた。

 まだ読了していないが、他者が私の分身であるというのが、フッサール間主観性論の骨子であることは理解できた。

 他者を理解しようとして、類比的に想起された過去の自己を引き合いに出している。他者とは過去の自分のようなものだ、というのが、他者を考えにくかった私が考えたことだ。フッサールはまさに、その考えにくい他者の意識を、昨日の私の類比として考えようとしている。「他者の意識は想像された私の意識である」と、「昨日の私の意識は想起された今日の私の意識である」との類比。

 ここから、「他者とは過去の私である」と飛躍すれば、遍在転生観になるのだが。

 現象学的にいって人間一般なるものは存在せず、自己と他者しか存在しないというのが、アメリカ心理学会でのシンポにおける私の主張の結論だった。今、フッサールを読みながら、「人間一般とは可能世界における私の集合である」、というテーゼが思い浮かんだ。

 他者Aが私と同じ人間である、と考えるとき、私は、他者Aが私であるような世界を想像しているのだ。けれど、他者Aが私ではない以上、他者Aが私であるような世界とは、可能世界に留まる。

 +++この項続く+++

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