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2009年7月21日 (火)

夢の現象学(7):学生の夢記録レポートを読むの巻。体験世界において私は他者たちの中の一人の他者であるの巻

■学生の夢記録レポートを読むの巻

 6月の北欧の学会(IHSRC)から戻って息継ぐ暇もなく、8月のカナダでのAPAの準備にとりかかったりしてすっかり遅れてしまったが、5月に出題して6月はじめに回収しておいた夢記録レポートを、読んでいるところだ。

 毎年、教養心理学の講義で出題しているこの夢記録に、すべて目を通すのは(100人分はあるので)ひと苦労だけれども、色々と教えられる興味深いレポートにめぐり合うという楽しみもある。

 そんな中から紹介する。もっとも、プライヴァシーの保護のため、前後の脈絡から切り離して、断片のみの紹介になってしまうが。

■体験世界において私は他者たちの中の一人の他者であるの巻

 「‥‥今まで見た夢の中では、必ずといっていいほど自分が夢の中の登場人物として出てきて、しかもその映像が普段見てる映像ではなくて、第三者からの目線で見ているような感じで‥‥」

 夢の現象学(6)で、第三者視点の夢の存在から示唆されることとして、自分の体験世界の中では私は他者たちの中の一人であることがある、という話を書いたが、この夢はまさにその例証だ。

 ここで、「普段見ている映像」とは、マッハの自画像のような映像ということだろう。つまり「頭のない私」(Harding, D.E., 1972)、「背中のない私」(ニキ・リンコ、2000)の映像だ。

 けれども、これが普段見ている映像であることに気づくには、いささかの認識論的緊張(もしくは現象学的還元?)を要する。その証拠に、自画像を描くように指示すると、必ずといってよいほど、鏡映像か背後から見た想像上の自己像を、つまりは「頭のある私」「背中のある私」を描いてしまうことからも察せられる。

 ちなみに、昨年から始めた環境心理の講義では、最初の時間にマッハの自画像を見せ、自分というものはこのような見え方をしている筈だから、このような自画像を描いてくるようにという、宿題を提示するようにしている。

 けれども、「第三者目線の夢」の頻発ぶりからして、「他人たちの間の一人の他人」という私のあり方とは、単なる概念的図式というより、「世界内存在」(ハイデガー語はあまり使いたくないのだが)の一つの様相なのではないかという、気がしてくるのだ。

*2009年7月21日 この項、続く*

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