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2009年5月の記事

2009年5月26日 (火)

夢の現象学(3):目覚めても暫くは夢の中の信念が残存したの巻・『自我体験と独我論的体験:自明性の彼方へ』が出版されたの巻

■目覚めても暫くは夢の中の不条理な信念が残存したの巻■

5月20日(水)朝。
 チベット文化に貢献した日本人芸術家の実話に題材を求めた英語の小説を読んでいた。長年チベットに住み着き、寺院建築に透かし彫りを加えたのだ。
 透かしりは天女の帯のようだった。おまけにその部分を読んでいると、ダダダダ~ンと効果音が高まるのだ。そのうち、目が醒めた。
 目が醒めて暫くは、実在とおぼしい日本人彫刻家のことは、よく知っているつもりだった。が、次第次第に分からなくなってきた。河口慧海だったかなア。けれど、彼の事績はチベット大蔵経を持ち帰ったことにあったので、彫刻ではなかったはずだ。すると、誰だろう‥‥。
 結局、英文小説のモデルとなった日本人彫刻家とは、どうやら実在しないと認めざるをえなかった。夢から醒めても暫くの間は、夢の中で信じていたことを信じ続けた、という例だった。
 このような事態が昼間まで続くと、夢と現実の区別がつかない、という状態になるのだろう。夢を現実と間違えて騒動を起こすというは、老年性の認知症にありがちなことだ。

■ 「自我体験と独我論的体験:自明性の彼方へ」が出版されたの巻

『自我体験と独我論的体験:自明性の彼方へ』(渡辺恒夫著、北大路書房)が出版されたという知らせがあった。出版社のインフォメーションにリンクを貼っておく。これに併せて、私の私的サイトの方にも、「あとがき」 の一部に加えて詳細目次をアップロードしておいた。

 また、その英語版ともいうべき、”From Spiegelberg's 'I-am-me' experience to the solipsistic experience"を、6月に北欧で開催されるIHSRC(International Human Science Research Conferenceで発表すべく準備中なので、完成したらこれもアップロードしたい。日本語版の方が、現象学関連の術語を一切使わずに現象学還元を密かに行っているのに対して、現象学的方法を前面に出したものになりそうだ

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2009年5月18日 (月)

夢の現象学(2):夢の文法に仮定法がないの巻

■夢の文法に仮定法はない、ということを実感している。
 「もし、車の免許を取った暁には、三坂峠を通って車で帰省したならば‥‥」と、覚醒した思考は、仮定法で想像し、シミュレーションする。
 けれども、夢の中でシミュレーションが始まると、定の話ではなく現実の体験となる。
 前々回の記事(5月3日日付))で、悪夢について記した。前夜から気にかかっていたことが、そのまま悪い方向へ展開した夢を見たからだ。
 起きているとき、私たちが、「まさか***になるんじゃないだろうな」と、最悪の事態を想像することがある。たとえば、「まさか、今度の検診で、不治のガンが見つかるんじゃないだろうな」といった。
 すると、その夜、不治のガンが見つかる夢を見るというわけだ。
 夢の文法に仮定法がないから、最悪の想像がそのまま夢になって、現実として体験されてしまうのだ。
 将来への確度の低い想定だけではない。反実仮想もまた、夢では現実として体験される。
 夢の文法に仮定法がない以上、まして反実仮想のような高度な文法構造はりえない。だから、たとえば、「若いうちに英会話をやっておけば」といった後悔が、若くなって英会話をペラペラしゃべっている夢となる。これを、フロイトは、夢による願望充足と呼んだ。結果として願望充足になったことは確かだが、仮定の話として後悔したり、希望したり、恐れおののいていたりしていると、夢の中ではみな、現実化してしまうのだ。

■夢の文法には過去形もない。
 夢の文法構造は単純だから、仮定法はすべて現在形として体験されてしまう。それどころか、過去形もない。だから昔の回想がすべて、現在形として体験されてしまうのだ。
 文法構造が単純な精神とは、幼児の精神だろうか。夢によって私は、幼児期の意識を再体験できるのだろうか。
 けれども、思い出せる限りのの幼児期の思い出は、今と同じ意識構造だ。たぶん、そのような意識構造が成立する以前の体験は、記憶されないのだろう。夢が滅多に記憶されないのと、同じ理由で。

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夢の現象学(1):「はじめに」の巻・夢の世界に居たという充足感の巻・夢の世界の中で目覚めの世界について考察するの巻

■ はじめに
 今度から、「夢日記」の代わりに、「夢の現象学」というタイトルを使うことにした。今まで書いてきた夢日記の記事も、そのうち夢の現象学で編集し直すつもりだ。
 夢の現象学は、フロイト、ユングらの夢の深層心理学、レム睡眠の発見に始まる夢の認知神経科学と並んで、夢研究の3本柱を形成するはずだ。にもかかわらず、他の2つに比べて、大きく立ち遅れている。
 その証拠に、夢の現象学的研究の主要文献を思い出してみても、数えるほどしかない。
・サルトル『想像力の問題』
・ロジェ・カイヨワ『夢の現象学』
・ビンスワンガー『夢と実存』
・メダルト・ボス『夢の現存在分析』
・ウスラー『世界としての夢』
 日本人の手になるものは、ほぼ皆無の状況だ。
 
 さて、夢の現象学というタイトルで、何をするのかというと、次のようなことをする。

■夢の世界にいたこと自体が充足感・幸福感の元になるという発見の巻
 5月16日。
 5時過ぎに目が覚めた。1時間ぐらい、ベッドの中にいたが、そのうち、何も夢見なかったな、とふと思った。記憶が無いのに加え、タイミングを併せ考えても、夢は見なかったと思う。1時に入眠したとして、第3回目のレム睡眠が始まるのが、5時ぐらいと計算できるからだ。レム睡眠開始直前のノンレム睡眠第1段階で、目が覚めてしまったものと思われた。
 けれどもーー何か、夢見たような気もする。その証拠に、ひとつの世界の中に存在していたという、充足感、幸福感が、残っている‥‥。
 そのうち、「三軒茶屋」というキーワードが浮かんだ。そうだ。三軒茶屋まで、世田谷線の半路面電車に乗っていったのだった。途中、同僚のCさんと乗り合わせた。行く先を訊かれて、(理由は思い出せないが)嘘を答えたような気がする。‥‥(後略)

 夢を見たこと自体、なかなか思い出せず、努力しなければ、多分、夢を見なかったのだと思い込んでいただろう。
 手がかりとなったのは、ひとつの世界に確実に生きていたという、充足感、一種の幸福感だった。これは、時たまある。その逆に、夢の世界が一種の非現実感と不安感を与えるので、別に内容的に悪夢というほどでなくとも、目覚めて安堵することもあるが。
 それにしても、ひとつの世界の中に単に存在していたというだけで、充実感、充足感、幸福感さえ伴って過去把持されるのはなぜだろう。きっと、生きて、存在していること自体が、自己充足的だからだ。だから、私たちは、何かをするためでなく、生きることが目的で生きようとする。
 一方、非現実感があると、生きている気がしなくなってくる。片目を失った子鴨が、それだけで世界が灰色に見えて、ものも食べなくなって死んでしまったという童話を、子どもの頃、読んだことがある。もちろん誇張だ。片目でも人はやがて慣れるものだ。眼鏡を初めて掛けたときはこんな非現実的な世界には生きていけないと思ったが、やがて慣れたように。
 それに対して、離人症で非現実感があれば、やはり苦痛に違いない。
 世界に現実感を与える現象学的構造は何か。五官が協調すればよい、というものでもないだろう。
 昔、学生の頃、「存在濃度」という言葉を考え出したことを思い出す。ハイデガーを専攻していた友人のS君に、その話をしたことがある。なんとなく、ハイデガーで読んだのかなと、思ったからだ。けれども、S君は、ハイデガーには存在濃度という言葉は無いよ、と首をひねっていた。
 こんな言葉を考え出したというのも、子どもの頃は、世界は今よりもはるかに高い存在濃度をもって存在していた記憶があったからだ。

■夢の側から目覚めの世界について考察できたらの巻
 夢について現象学的に考察するといっても、考察はいつも目覚めの世界にいてやるのだから、「実在」である目覚めの世界を基にして夢の世界を「説明」する、という非対称の関係になってしまう。
 夢の世界の側から、目覚めの世界について考察できないものだろうか。かつて、明晰夢の実験をやっていたころ、夢についてしきりに考えている夢を見たことがある(ノートに書いておいたはずだ)。けれども、それだって、夢についての考察であって、目覚めの世界についての考察ではなかった。
 ****この項、続く***

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2009年5月 7日 (木)

夢の現象学(-1):夢では痛覚が別の感覚に翻訳される?

5月3日。悪夢をふたつ見た。
 一つは、前夜から気にかかっていたことが、悪い方へ展開したもの(先刻、現実になっていないことを確かめて、胸をなでおろした。)もうひとつは、体表の一部に孔があいて、どうしようとうろたえている夢。そのうち、目が覚めた。そして、孔があいたと思った部分に、強い痛みを感じた。
 痛みの原因じたいは、衣類のせいだったが、夢の中では痛みの感覚は無く、その代わり孔があいていることになっていたのが興味深い。痛覚が、体に孔があくこととして、非痛覚的に表現されていたからだ。
 夢の中では、痛覚はないのだろうか。けれども、大学院生のころ、胃腸が慢性的に悪く、目覚め際など、痛覚だけの夢を見たことが時々あった。意識がはっきりするにつれて、腹部の痛みは、すうっと消えたものだ。覚醒時には大量の外部刺激によって内臓感覚がかき消されてしまう例として、考えたものだ。講義でも、「無意識的知覚は意識的知覚よりも鋭い」例として、話したことがある。
 ひょっとして、夢では体表面の痛覚が遮断されるのに、内臓深部の感覚は逆に鋭敏になるのではないだろうか。
 
+++この項、未完+++

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