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2008年12月の記事

2008年12月28日 (日)

夢の現象学(-4):夢の中の蝿の羽音の正体は?

12月27日(土)。夢を見た。最初の方は憶えていない。蝿がブーンブーンと部屋の中でうるさいので、ハエ叩きを探したが、見つからない。やむをえず、素手で、飛ぶ蝿をハッシと握って掴まえた。けれど、すぐに逃げ出してしまい、ブーンブーンと飛びつづける。
ようやくハエ叩きが見つかったので、それで叩いた。つぶしたはずだが、まだ動いている。何度も叩く。体が千切れて、羽と胴体と頭とに分かれてしまう。それでもゴソゴソ動いている。頭部を叩き潰すと、ようやく動きが止まる。‥‥ここで目が覚めた。耳鳴りがひどかった。ブーンブーンという音は、耳鳴りと分かった。けれど、オクターブが違う。夢の中のブーンブーンが目覚めて耳鳴りに変化したとたんに、一オクターブは高音になったようだった。
 蝿が、叩いても叩いてもなかなか死なないのは(昨夜、漫画喫茶で読んだ『彼岸島』の印象もあったかもしれないが)、耳鳴りが続いていたからだろう。ただ、蝿の羽音と耳鳴りでオクターブが違っているのは、夢の中の知覚は、現実の感覚刺激に由来はしていても、そのまま出てくるこはない、という、今までの経験の例証のようなものだ。そういえば、フロイトの『夢判断』ーーだったかなーーにも、教会の鐘の音が、目覚めてみると目覚ましのベル音だったという、ずいぶんと夢の知覚と現実刺激が違っている例が出ていたような。
 睡眠中に、感覚刺激が夢の世界の中にたどり着くまでの間には、ずいぶんと変化しなければ通り抜けられない厚い壁があるらしい。      

Der tiefe Brunnen weiss es wohl;

In den gebückt, begriffs ein Mann,

Begriff es und verlor es dann.

(ホフマンスタール[H.v.Hofmannstahl]:

世界秘密[Weltgeheimnis]より

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2008年12月23日 (火)

夢の現象学(-5):自我体験と子どもの夢

 「夢」について考えることは、「自己」を探求することと同様、自我体験・独我論的体験の呼び水となることがある。なぜなら、夢は、木村敏が言うところの自明なる常識的日常性を構成する「世界の単一性」に、亀裂を入れるからだ‥‥

 そんなことを、来春出版予定の「自我体験と独我論的体験」(仮題)でも書いておいたが、このほど、『子どもと夢』(麻生武、岩波書店、1996)を読み返していて、まさにこの仮説の例証となるような事例を幾つか見出したので、引用しておきたい。

 夢事例62 Uが六歳二ヶ月十八日のことです。夜寝床について、添い寝している母親に、「Uちゃん本当に生きているのかなー、夢の中とちがうかなあ」、「心臓を調べてみよー、動いてる、でも夢の中で心臓が動いているんだったらどうしよう」と言います。

 夢事例63 Uは六歳二ヶ月十九日です。夜寝しなに添い寝している母親に、「夢見てるんじゃないかなー? それで本当はUちゃん死んでて、お母さんがわーわー泣いてるんじゃないかなー」、「Uちゃん死ぬのいやだなー」。(以上、203頁。なお、原文は子どもの言葉は片仮名表記になっているが、読みやすさを慮って平仮名に直した。)

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2008年12月21日 (日)

夢の現象学(-6):反省的自己意識なき心の想像は可能か?

 心の有無の判別基準ーー「私が無意識のうちに自己を移入してしまうような存在には心がある。」

 この、主観主義的判別基準の問題は、成長につれて自己理解も発達し、それに応じて自己移入できる対象も変化する、ということだろう。幼い子供は「雲が楽しそうに空を泳いでる」と思うかもしれない。雲に自己移入したのだ。ところが、自己意識に目覚めれば、自己意識のありそうな対象にしか自己移入ができなくなり、反省的自己意識に目覚めれば、反省的自己意識のありそうな相手にしか自己移入ができなくなり‥‥ついには、誰にも自己移入ができなくなり、独我論的体験にいたる、というわけだ。

 そこで、心の範囲をひろげるために、心に様々な水準を設けることとする。

 けれども、ここで、私は本当に心の様々な水準を明示的に理解できるのか、という問題が持ち上がる。楽しそうに空を泳いでいる雲に心があるという事態を明示的に理解することは、自分が雲であるという事態を想像することだ。ところが私は自分が雲になって楽しそうに泳いでいるという事態を明瞭には想像できないので、雲には心がないだろうと、判断する。電線に止まってなにやらカアカア鳴いている鴉ならば、自分が鴉であるという事態が想像できそうな気がするので、鴉には心があると判断したくなる。

 しかし、私は本当に自分が鴉であるという事態を想像できるのだろうか。何ものかの心を想像するとき、私は常に、自らの反省的自己意識をも同時に投入して想像してしまわないか。原理的に、反省的自己意識なき心を想像することは不可能なのではないだろうか。

 内省なき心をいったい、想像できるだろうか。

 てがかりは、多分、夢にある。霧に閉ざされたような、甚だしく薄ぼんやりした夢を想い出すとき、そこに、内省なき心のモデルが与えられていないだろうか。

 何やら薄ぼんやりした短い夢から醒めたとき、何か、鼠のようなちっぽけな生きものとして短い生を、たったいま送り終えたのだ、という気がしなかっただろうか?

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