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2008年9月の記事

2008年9月28日 (日)

地底の湖で植物=人間に出会う

2008年9月28日(日)

夢を見た。地底深くの湖があった。正確には地底深く湖の化石がうずもれていた、と書くべきか。大きさは体育館がすっぽり収まるくらい。そこに、水を注ぎいれる実験をしていたような記憶がある。湖の様子は、ガラス越しに、ちょうど水族館で水槽を見るように、見えるのだった。

 湖底は、地層がむき出しになっていた。中に、一ところ、緑色の斑点の入った層があった。注がれた水がその層のところまで浸す。すると、緑色の範囲が拡がり出す。何かの植物がよみがえり、繁殖を始めたのだ。私はいつのまにか湖の水中を、潜水具(らしきもの)を付けて遊泳していたのだが、身体にも藻のようなものが絡みつき出した。どんどん増えてくる。しかも、藻類は、知能をもっているらしい。「植物人間」という言葉が思い浮かぶ。

 そこで、目がさめた。胸がドキドキしていた。書いてみるとたいしたことがないようだが、夢の中では、藻類に絡みつかれて、パニックになっていたのだ。

 目が醒めた直後は、完璧に筋の通った見事なSFを夢の中で作り上げた、と、思い込んだのだった。ところが、全体を思い返してみても、少しも辻褄のあった、まとまったストーにならない。このままでは記憶から完全にするりとぬけ落ちてしまう、といささか焦って、とにかくも書き出したら、以上のような貧弱でわけのわからないものになってしまった。

 夢を覚えておくのが難しいのは、パラドックスが多く含まれているからかもしれない。エッシャーの不可能図形はちらと見る分には、見ることは可能だ。けれども、よく見ると、直視することが不可能だと分かってくる。それと同じように、夢の中の筋立てや構成要素もまた、覚えているつもりでも、思い出そうとすると、それが不可能だと分かる、ということだろう。

 この夢にも、色々とパラドックスが含まれている。たとえば、湖全体が化石とはどういうことか。なぜ、藻が増えて身体にドロリと絡んできただけで、植物=人間と分かるのか。夢の中にいる間は、そして目覚めた直後には、理由が分かっていたはずだが、思い返そうとしても、不可能図形を直視する場合のように、うまくいかない。

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2008年9月 5日 (金)

遍在転生論について、メールでの質問への答え

2008年9月5日

 先月末、公式サイトのヴァーチャルラボラトリを通じて、メールで「遍在転生」について質問をして来られた方がいた。『輪廻転生を考える』(講談社現代新書、絶版)の内容はかなり興味のあるものだったが、疑問点を質問したい。質問の前提として、今でも遍在転生論という考えは変わっていないか否か、よかったら答えていただきたい、という趣旨のものだった。

 申し訳ないが、メールでの質疑応答には応じていない。超いそがしいからだ(だから直接のメールアドレスも公開していない)。手紙ならご返事することもあるが、返信までの期間は平均して1.5年(!)といったところなので、かえって失礼してしまう。

 そこでこの場を借りてお答えする。

 遍在転生論(メールでは「偏在転生論」とあったが、これでは正反対の意味になってしまうので注意!)という考え方は基本的に変っていないが、微妙にモデルチェンジしているところがある。詳しくは、その後に出した『<私の死>の謎』を読んでください……とやると、なにやら自分の本の宣伝になってしまうので、その「あとがき」から、重要と思われる段落を抜き出して引用しておく。

  **************

ここで、最後の6章で「私が最もエレガンスを感じる」とした死生観である、「穴だらけ遍在転生輪廻」について補足をしておきたい(変なネーミングだが)。これは、周りに十人の人々がいれば、そのうち何人かが自分の「時を超えた分身」であり、残りはゾンビであって、しかも、誰がどれであるかは世界の根源的ランダムネスゆえに原理的に知りえない、とする世界観だ。このような悪夢めいた世界のどこが、冒頭に挙げた問いかけへの「最もエレガントな解」であるかについては第Ⅲ部を読んでいただくとして、愛する人がある確率でゾンビである、というのでは倫理的に問題が出る、という人に対しては私は、「パスカルの賭」をもって答えたい。当時の貴族社会ではやった賭事の考察から出発して確率論を創始したパスカルは、十七世紀と言う時代にようやく現れ始めた懐疑論や無神論の徒に対して、次のように弁じて信仰を擁護したのだった。

 ∣確かに神は存在しない可能性がある。けれども、神を信じて実は存在しなかった場合の損失は、神を信じずして実は存在した場合の計り知れぬ損失にくらべれば、はるかに小さい。ゆえに、神を信じたほうが、掛け合わせても確率計算上、利得がぜったい大きくなる筈である…… 

これに倣って言えば、愛する人がゾンビであると思うのと、時空を超えた自らの分身であると信じるのとでは、当り外れの得失を掛け合わせれば、後者の方がぜったい良い!ということになるのである。

(『<私の死>の謎:世界観の心理学で独我を超える』(渡辺恒夫著、ナカニシヤ出版、2002年)234頁より)

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