« チベット問題に寄せて | トップページ | 石山寺詣、あるいは物語・夢・現実 »

2008年5月 7日 (水)

意識を肉体から引き剥がす実験装置、自我体験満載の精神医学者の遺著など、最近の意味深な夢

*******2008年5月6日:意識を肉体から引き剥がす装置を実験する大科学者*********

 夢を見た。手塚治虫にも匹敵する偉大なマンガ家の作品を読んでいた。肉体から離れた意識の可能性を追求した大科学者の物語だった。

 その方法は、まず、そのような可能性を示唆する歴史上の文献や、自分自身の記憶ーーつまり、夢記録ーーを収集する。幽体離脱体験もまた、そのような事例として解釈できる。そして、それらの事例研究に基づいて、意識は、もし肉体に拠らなければ何に拠って存在し得るかの、仮説を立てる。どうやら、空間そのものの構造化に拠るらしいのだが。

 マンガの最後の場面は、未来のある情景だった。どこかの、呼吸可能な大気のない惑星表面らしい。なにやら、無人と化したマンションの建つ都市の廃墟で、科学者は大掛かりな装置を組み立てていた。空気がないのに生きていけるのは、そのように呼吸系を改造したからだった。そうやって組み立て終った装置に自分自身をベルトで留め、自分を実験台として、意識を肉体から解き放とうという実験なのだった。

 大科学者らしく、自分で装置を作れるのだな、と読みながら感心していた(このあたりのコマでは、だいたい夢の中ではそうなのだが、アニメのように動くコマで、しかも自分が読者の側なのか、その中に入り込んでいるのか、不分明なのだった)。なぜなら、実際には科学研究者というものは、極端に専門化細分化していて、理論家なら装置の一つも組み立てられないし、工学者といえど、少し専門が違えばやはり必要な装置を組み立てられるどころではないから(理科系の人たちと共同研究をやって実感したところだ)。だから現実には、チームで研究するのだが、たった一人で何から何までやるとは、やっぱりマンガだ(と、これは、すでに半覚醒状態で考えていたらしい)。

 以下は、半ば覚醒した意識で考えたことになるが、意識を肉体から解き放つ実験で連想されるのは、半村良の未完の長編『太陽の世界』で、超能力者兄弟の一方が、死に臨んで、一族の守り神となるために念力で意識を死にゆく肉体から引き離すエピソードだ。また、蛭川立氏なら、体外離脱体験(OBE)を入眠時に起こす能力があるから、このような実験もひょっとして可能かもしれない、と思った。

 以下は、起きて考えたことになるが、私は今まで、体外離脱体験の信憑性には否定的なほうだった(遍在転生観はそれを必要としていない、というアプリオリな理由で)。けれども、肉体に依存した《私》のあり方というものもまた、偶然的なものであるからには、闇雲に否定する必要もないのではないか、と思った。しかも、肉体から離脱しても、何らかの空間構造に拠る以上は、《いま、ここ》のパースペクチブ性も維持される……。というより、パースペクチヴ性こそが、《私》が存在することの定義だろう。

 ビッグ・バンで宇宙が始まるのと同時に、《私》は存在を始めた、という、かつての空想を、もう一度、取り上げて見たくなった。もし、宇宙それ自体に何らかのパースペクチブ性があれば、そこに《私》が存在する、もしくは、宇宙は私である、といえるのではないか。

 ********2008年4月25日:精神医学者を偲ぶ門人の会合に出席する************

 夢を見た。木村敏(だったと思うが、もしかして土居健郎か中井久夫の可能性も)の、兼ねて気にかかっていたがまだ未読の本を買った。毎日新聞社刊ということになっていた。主に編集者と著者の対談から成る、しかもかなりの大活字で、売らんかなの魂胆が見え見えの本で、少しいやな予感がした。どうやらこの編集者は、本作りに一家言があり、理想の編集を目指しているらしい(起きてこの日記を書きながら、編集者志望がとうとう実らなかったHさんを思い出した)。冒頭だけ、著者の講演記録だった。

 けれども、読んでみて、すばらしい自我体験があちこちに鏤められていると分かった。

 次の場面では、この著者は1990年代末に亡くなっていて(本の奥付で分かった)、しかもクリスチャンということになっていたのだが、クリスチャンと心理臨床家の男女から成る、若手の門人たちの会合に、なぜか出席していたのだった。例の本に、そのような会合の呼びかけが出ていたらしい。学校の教室のような会場で、私は前から二番目で右端に近い席にいた。椅子は木製で移動式だった。若手の臨床家らしい男が司会をしていた。もちろん、見知った顔はひとりもいない。なぜか会場の前の方で、照明を明るくしたり暗くしたりしているのが奇妙だった(プロジェクターを使っていたわけでもないのに)。

 企画は進行し、その間私は、例によって発言の機会を失い、例の通りの欲求不満状態になっていたようだった(「私はクリスチャンではないが……」といったことだけは辛うじて発言したが)。そのうち、司会の男が、「男女別に固まらないで、互い違いに座ろう」といったことを言い出して、皆で席替えした。フリートークが始まるらしい。私は、隣に座った女性に、冒頭の講演の中味を指して、「すばらしい体験描写ですね。自我体験というんですけどね……」とか話しかけた。「自我体験?」と聞き返す女性。案の定、聞いたことがないようだった。

 この本には、次から次へとふしぎな体験描写が現れて、それがすべて、著者自らの自我体験なのだった。しびれる位すばらしい、しかも一見しただけではそれと分からぬ、独自の自我体験事例なのだった。……

■■■【お願い】ブログにも著作権があります。引用の際は、本ブログの著者名(渡辺恒夫)を明記し、併せてURLも必ず書き添えてください。■■■

« チベット問題に寄せて | トップページ | 石山寺詣、あるいは物語・夢・現実 »

哲学」カテゴリの記事

心理学」カテゴリの記事

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/501358/41128712

この記事へのトラックバック一覧です: 意識を肉体から引き剥がす実験装置、自我体験満載の精神医学者の遺著など、最近の意味深な夢:

« チベット問題に寄せて | トップページ | 石山寺詣、あるいは物語・夢・現実 »

電子ジャーナル:こころの科学とエピステモロジー

ブログの主の最新刊

最近の記事

無料ブログはココログ
2018年7月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        

人文死生学研究会