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2008年4月29日 (火)

チベット問題に寄せて

         【チベット語版だけが残っている謎の仏典『他人の存在の証明』】

 サンスクリット原典が散逸し、チベット語訳しか残されていない仏典が多数ある。

 7世紀の仏教論理学者ダルマキールティ(法称)の論書『他人の存在の証明』もその一つだ。私の書棚にも、大学院生のころ、大谷大学の隣の洋書屋でアルバイトをしていた時に手に入れた、思い出深い一冊がある。

 その後チベット語を学ぶ機会は残念ながらなかったので、英訳("Establishment of Others")で読んだ。正確に言うと、チベット語版をロシアの仏教学者ストルバツコイがロシア語訳し、さらに現代のインド人学者が英訳したという、地球を一回りしたような代物だ。

 ,ところが、それでも、私の西洋化した頭でもあるていど理解できる(私的サイト中の電子出版「時代精神としての自我体験・独我論的体験(2007)」の 13 頁で紹介しておいた)。これが、仮に漢訳を経ていたならば、なかなかそうは行かなかっただろうと思われる。チベット訳仏典は、サンスクリット原典に忠実で、しかも、インドでは原典が散逸してしまった多くの経典・論書類を含むということで、価値がある。

 そこで、明治の頃、京都のある禅寺の僧侶だった河口慧海という人が、大変な苦労をしてヒマラヤ越えし、当時は鎖国も同然だったチベットに潜入し、僧院でチベット仏教を学びつつすべての仏典を筆写して、20年の後に日本へ持ち帰った。これが有名なチベット大蔵経だ。

 ちなみに河口慧海の『チベット旅行記』は、今では文庫本で読める(河出文庫だったかな?) 一読すれば、チベットがいかに中国とは別個の独立した文化圏を形成しているかがわかるだろう。

       【チベット問題に沈黙する日本サヨクの異様さ】

 私がチベットに触れるのは、もちろん、最近、長野で北京五輪聖火への抗議行動をめぐる事件があったからだ。ただし、ここでのテーマは、チベット問題そのものではない。

 欧米の人権団体が北京政府に対する抗議の先頭に立っているのに対し、日本の人権派、リベラル、と目される人々やマスコミが沈黙を続けている、その異様さを問題にしたいのだ。

 人権派というものは、元々、左翼的反権力的だというイメージが強い。国境なき記者団の事務局長メナール氏など、その典型だ。ところがチベット問題に関する限り、欧米の人権派と日本のそれとでは、まるっきり対応に差が出てしまっている。

 なぜか?

 私にはわかる。日本の人権派・サヨクは、困惑しているのだ。なぜなら、日本のサヨクには、チベット問題のような問題を適切に理解するための、解釈格子(=パラダイム)がないからだ。

 日本のサヨクは元々、マジョリティ(多数派)の代弁者であって、マイノリティ(少数派)への視点を欠いているからだ。

  この二十数年ばかりの、日本サヨクのたび重なる醜態と凋落ぶりを目の当たりにして、私には、日本サヨクとは何だったのか、その精神構造(メンタリティ)を心理学者の端くれとして解明してみたいという思いが強くなっている。

 もちろんサヨクに義理があるわけではない。ただ、大学生だった頃の、右も左もサヨク・マルキシストだらけといった時代を生き抜いてきた者として、当時から抱いていた疑問に、ここで答えてみたいと思うのだ。

 彼らの多くは、「いいひと」であった。けれども、彼らの内面には何か見えない型枠が嵌っているようで、思考回路がステレオタイプなのである。ひとことで言えば、思考が「主人持ち」なのだ。それは、なぜなのだろうか。

   【マルクス主義のピラミッド型権力論】

 日本サヨクがというよりマルキシズム一般が、少数派への視点を欠いている理由の一つは、マルクス主義のピラミッド型権力構造論にある。虐げられた多数派であるブルジョア階級が少数派の貴族階級を打倒し、さらに、ブルジョア階級は、真の多数派であるプロレタリア階級に打倒されねばならない。……ピラミッドの下層を成す多数派が頂点をなす権力者である少数派によって虐げられているがゆえに革命が起こるというタイプの権力論では、確かに、その多数派によって更に差別される少数派への眼差しは出てきにくい。

 だから、旧ソ連の有力者の談話として伝えられてるように、「ソ連には少数民族問題は存在しない」だの、「ソ連には同性愛者は存在しない」だのといった見解になってしまう。

 サヨクが敵視する「西側資本主義諸国」でかえって少数派の解放運動が成果を出しているという皮肉な事実や、日本でも少数派の人権運動が、最初は左翼勢力と結んでいたが、途中で決別してしまうなどの事態も、マルクス主義の権力構造論に一因があると思わざるをえない。 

      【日本サヨクの権威主義的メンタリティ】

 サヨクな人々に精神的自立性がなく、主人持ちの未解放な思考になってしまう理由に、サヨクの本家たるマルクス主義が、権威主義的パーソナリティの持主によって創始されたことがあろう。私は十代の頃からマルクスを読んできたが、結局好きになれなかったのは、断定調で威圧的な権威主義的文体のためだ。翻訳が悪いと言う人もいるが、それはそのような翻訳をする日本のマルクス学者が権威主義的だということだろう。

 最近、サヨクな人々の心理学的解明の一助にと、『現実的な左翼に進化する』(ピーター・シンガー、新潮社)を読んだ。シンガーは動物解放論者で、生命倫理学や環境倫理学でも知られた人物だ。その、左派を自認するシンガーでさえ、「共産主義運動は、そもそもマルクスその人以来、権威主義的な人物が支配し続けていた」と書いているのには笑えた。

 日本サヨクの場合、マルクス主義の権威性に加えて、拝外主義(外国崇拝)の問題がある。遣唐使の頃から明治の文明開化に至るまで、日本では権威は外国から来るのである。日本サヨクにとって最大の権威は、かくして、毛沢東ということになる。その最大の権威が作り上げた北京政府が、少数民族を弾圧するなど、信じたくないのは無理もない。

 いくら信じたくなくとも、事実として認めざるを得なくなると、そのうちサヨクな人々は、変質した中国はもはや社会主義とは何の関係もない、などと言い出すかもしれない。現に、北朝鮮は社会主義とは何の関係もない、という「社会主義者」が、拉致事件以来、出現している。

 こういうのを、トカゲの尻尾切り、というのだろう。北朝鮮は極端としても、世界にかつて出現した社会主義国で、独裁的全体主義的にならなかった例が皆無だということからしても、心理学的に見て、独裁と全体主義は社会主義の必然と言わねばならない。帝政ロシアのツアーリズムや朝鮮王朝の儒教的封建的風土のせいにする向きもあるが、そもそも、封建主義と社会主義の間に、精神構造に共通点あったからこそ、そのような国で社会主義革命が成功したのだと、見るべきだろう。 

     【社会主義ではなく多元主義を!】

 数年前、カナダにいたころ、leftist(左派)を自認する青年と議論したことがあるが、「北京政府は世界最悪の政府だ」と言っていたのが、印象に残った。その当時はちょっとびっくりしたが、今から思えば、その当時から、欧米の左翼の間では、北京政府によるチベットや東トルキスタンへの弾圧が批判の的になっていたと腑に落ちる。

 ところで、左派(leftist)の定義だが、シンガーによると、虐げられた弱い立場の人々の側に常に居ようとする人が左派で、「マアしょうがない」と肩をすくめるのが右派だそうだ。この定義に従えば、チベット国旗を買い求めて長野に行ったインターネット市民の若者たちが左派で、沈黙を守り続ける日本の「人権派」「平和団体」や、進歩的マスコミ幹部などは右派だという結果になるのが笑える。

 このままでは日本サヨクは、博物館送りになればまだマシな方で、抑圧者への加担の咎で、末永く悪名をとどめてしまうだろう。少数派の側に立ちつつ、昨日よりも今日、今日よりも明日と、少しでもよりよき社会を目指すために、サヨク的社会主義的な思想・メンタリティがかえって障害となるとすれば、いったいどうしたらよいだろう。

 多元主義(pluralism)にその答えがありそうな気がする。

 多元主義については、上記のシンガー的意味での真の左派であった生物学者の柴谷篤弘氏の著書で教えられたのだった。社会主義では、名称に社会を個人より上位に置くという意味合いが暗に含まれてしまうために、どんなに注意しても全体主義を呼び込んでしまうというのだ。

 私なりの解釈では、多元主義の真髄は、Nous ne sont pas sous le meme ciel.(私たちは同じ空の下にはいない)の一句で言い表される。「話せば分かる」というのは大間違いなので、話せば話すほど、お互いが同じ空の下にいないことが明白になって、最初の相互理解の意気込みが、しまいに憎悪に変ってしまうのだ。殺し合いにさえ、発展しかねない。

 だから、「私にはあなたが理解できないが、あなたも私のことが理解できないのだから、勘弁して欲しい。理解できないことを、お互いに認め合い、理解できないものをお互いに尊重しあって、別々に生きることにしましょう」というのが賢明ということになる。

    【多元主義の発生論的基礎づけ】

 多元主義は発生論的かつ超越論的に基礎づけることが可能だ。多元主義の基礎は、人間一般などというものは存在せず、自己と他者が存在するのみだという、現象学的に自明な事実にある。しかも、他者一般などというものも存在せず、親しい他者と見知らぬ他者が存在するだけだから、人間は、自己、親しい他者、見知らぬ他者という、3種にきっぱり類別されることになる。

 私たちのいう「人間」一般という概念は、これら3種の互いに還元不可能な異質な概念の、雑種的混成物にすぎない。しかも、私たちひとりひとりが、異なった種類の雑種的混成物を、たぶん、8~10歳までに形成し、その後は異質の発展を遂げる。これを称して、多型分岐型発達モデルという。

 最近、カナダの若手理論心理学者に誘われて、心理学における多元主義に関する論考を書いているが、その末尾を、多元主義の発生論的基礎付けは、単に心理学や人間科学一般ばかりでなく、日常生活や政治的多元主義にとっても重要であるといった言葉で、結ぼうと考えている。 (2008年5月24日)

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