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2007年12月31日 (月)

コミュニケーション障害・社会不安障害・対人恐怖・独我論的体験(その4)

 2007年12月31日

 先日、『会話分析・ディスコース分析』(鈴木聡志著、新曜社、2007)という本を、著者よりいただいた。先日といっても、もう何ヶ月か前のことで、冬休みに入ってようやく一読の機会をえて、ここに記すのである。
 心的概念とは社会的に構成されるものではないかというヴィトゲンシュタインの示唆に基づいて、実際に会話記録をもとに心的概念が構成されるプロセスを示してくれるという心理学派があることを知ったのは、もう十年前のことだった。その後、外国の学会などで、この、discursivepsychology関連のシンポジウムがあれば出席してみたりしていたが、ようやく、日本人の手になる本格的な研究書が出たのは、ともあれ喜ばしい。
 けれども、この学派に対する違和感は、もとのままだ。つまり、会話分析を通じて心的概念が構成される現場を押さえるというこの潮流は、元々、おしゃべりな人間向きのものではないかという疑いを、抱かないではいられないのだ。
 電車の中で、隣で交わされている会話に耳を傾けてみることがたまにある。けれども、いったいぜんたい何が話されているか、わかったためしがない。日常会話をそのままテープに記録して聞いてみると、まるで意味をなさない、という話を聞いたことがある。つまり、会話とは意味あるやり取りではなく、単に絆を確かめ合う行為に過ぎないからだ。その意味で、会話によって心的概念が社会的に構成される以前の、サル同士の毛づくろいの機能を果たしているのだろう。会話を文章化して分析しても、コミュニケーションの現場を押さえることは難しいのではないだろうか。
 「そんなことを言うのなら、心的概念はいったいどこから来るのか。まさか、<内面>の表現が心的概念だなどと、古臭い二元論を引っ張り出そうとするのではないだろうね」----。こう反論する声が聞こえて来そうだ。私はそれに対し、心的概念は自然界に由来する、と答えたい。青空に雲が浮かんでいるのを見て、「雲が楽しそうに空を泳いでいる」と思う。幼児にとってはきっと、文字通り「雲が楽しく泳いでる」のだ。そして、自分も浮き浮きした気分になる。思わず、「タアー」といった声を出す。それが、「楽しい」という言葉の起源となる。
 同じように、今にも泣き出しそうな空を見て、自分も落ち込めば、その時発した声が「悲しい」という言葉の元になる。喜びも、悲しみも、すべての心は自然界に内在する。これは、大森荘蔵が晩年に到達した、アニミズムに他ならない。
 こういった話を、心の科学の基礎論研究会で顔を合わせる(私より若いという意味での)若手哲学研究者の水本正晴さんにしたところ、それはクオリア外在説ですね、と言われた。最近、欧米の哲学界でも力を持ち始めている説だそうだ。確かに、脳がクオリアを生み出すという説にも、クオリアとは社会的に構成された言語上の産物に過ぎないという説にも無理がある以上、クオリアは最初から世界に実在し、それを私が抽出するのだ、という説が注目されてゆくのは、当然に思える。
 ただし、自然界からはけっして抽出できない概念がある。「自己self」という概念がそれだ。私は自己という概念は、テクスト(書いたもの)から抽出された概念だと密かに考えている。すると無文字文化の人々には自己がなかったということになってしまうが、ラスコー洞窟の壁画のようなものも、広い意味でテクストと考えることができるだろう。
 コミュニケーションの話に戻るが、英会話スクールに行っていた頃、ヴォキャブラリーも貧弱で、まともにはしゃべれない筈の若い女性と、外国人男性講師の間に、突然コミュニケーションが成り立ってしまうのを見たことがある。二人の間のやり取りはまったく聞き取れなかった。何かしら目にも見えず耳にも聞こえない「場」のようなものが、二人の間に突然成立したような印象を受けた。
 後から思い返して、これが、木村敏のいう「間」というものだな、と思い当たった。「間」を構成する感覚要素は何なのかは分からない。少なくとも、会話を録音して記号に移して分析するという、ディスコース心理学の網にはかかってこないことは確かと思える。むしろ、生物学的水準の同類認知(同種認知がより正確か?)のようなものが基盤にあると私は思う。
 三人以上の集団でいて、突然、他の人々の間には「間」が成立していて、自分だけがのけ者になっている、という体験を今までくり返ししてきた。このような経験が嵩じると、次に引用するような「独我論的体験」になってくる。

【事例4-6】小学校低学年-小学校中学年-小学校高学年; きっかけ,状況などは特になく,ただ学校,都市,国,世界の中の自分一人というものを見たとき,自分以外の人間はすべてグル(仲間というか,自分以外の人間たちはすべて顔見知り)と感じ,さらに自分は自分以外のすべての人に行動を監視されているのではないか,とも感じた。これは今もごくまれに感じることがある。(<私の死>の謎:世界観の心理学で独我を超える』、p.134)
 
 これが独我論と何の関係があるのか、と思う向きもあるだろうが、最近、ようやく、哲学からの拝借を脱して心理学独自に定義するのに成功した独我論的体験の定義によれば、歴とした独我論的体験なのである。この定義については、3月刊行予定の『質的心理学研究』第7号、138-156に、「独我論的体験とは何か」(渡辺恒夫著)として論じておいた。
 独我論的体験とくれば、その類縁の自我体験、自我体験の核心部分をなす「超難問体験」、さらには自我体験と独我論的体験における色んなタイプの「自明性の破れ」のダイナミックな相互作用の結果として発展する「輪廻転生観」と来る。最近、三浦俊彦氏が、『多宇宙と輪廻転生』という力作を送ってきたので、そのうち取り上げたい。

 ■■■■■■この記事、続く■■■■■■

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